第11回ブッダ・ウォーキングレポート


空海の世界−高野山熊野古道


ここからいよいよ平安時代の仏教へ入っていきます、本来ならばその前に平城京よりも古い近江大津京付近の古寺や遺跡を訪ねなければいけなかったのですが、距離的に遠い高野山にも行かなければなりませんから、どうせ行くなら石楠花(しゃくなげ)の美しい時節を選んで行きました。近江京は別記のとおり6月の第12回に計画しています。


高野山大門(1705年再建 25.1mH)


弘法大師(空海)とは(年表的に)

774:香川県善通寺市に生まれる、多度郡の郡司の子といわれている。
788:15才で伯父に連れられて上京。

791:18才のとき大学(明経科)へ入る、20才過ぎに大学を去り私度僧(非公認)として、徳島・高知県にて厳しい修行ののち奈良仏教諸寺で仏教を学ぶ。

797:儒教・道教・仏教の比較論「三教指帰」を著す。その頃、大日経に出会い密教に深い関心をもった。
804:得度し東大寺で具足戒を受ける、遣唐使船に乗り難波の津を出航。

805:遣唐使船4隻のうち2隻が沈没するなどして福州に漂着、(もう1隻には比叡山の最澄が乗船)長安にて西明寺に入り、インド僧般若三蔵や牟尼室利三蔵に師事して梵語・バラモン学を学ぶ。青龍寺の慧果和尚より密教戒を受けて密教諸法を学び、伝法阿闍利位の灌頂(遍照金剛)を受ける。

806:帰国して大宰府にとどまる、「請来目録」を朝廷に提出、中国密教の大成者・不空三蔵の訳出経典類、大曼荼羅、法具類など。これらはそれまで日本に入っていたものと殆ど重複していなかった。


809:京都高尾山寺(神護寺)に居を定め、最澄は経典の借覧並びに密教修行のため弟子入りを要請した。

812:高尾山寺で真言密教の法灯をかかげ、金剛界結縁灌頂を開壇。
816:高野山を下賜する太政官符が下がる。
818:初めて高野山に登る。
820:伝燈大法師位を授かる。

821:唐の先進土木技術の見聞により、香川県・満濃池(ため池)の修築別当に任ぜられた。
823:官符により東寺(教王護国寺)を下賜される。

824:高尾山寺が公認され「神護国祚真言寺」となった。
825:東寺の講堂、五重塔に着手。
827:大僧都に任じられる。

828:唐の学校施設に及ばんと私設総合教育施設・綜芸種智院を創設し庶民に門戸を開いた。(空海没後衰退)
834:宮中における国家鎮護行事が真言の法で制度化され、東寺が官寺となる。
835:高野山・金剛峰寺が官寺となる。3月21日高野山にて62才をもって入定。
921:弘法大師の諡号を賜る。

このように中国密教を再組織して日本真言宗教団の基礎を築き、「即身成仏義」など多くの著作をし、優れた文才は「性霊集」に、優れた書は「風神帖」などに残されています。当時も今も「お大師さん」として尊敬され親しまれている、日本仏教を代表する尊者の一人です。

高野山とは
和歌山県の北部にある標高900mあまりの山地を弘法大師が開いて1200年余り、大阪から電車・車ともに約2.5時間、私の子供の頃は夏には必ず一泊はして高野山のお寺の宿坊に避暑に行ったものです、商店街を一歩外れると杉の木立がうっそうとして、今もって真言宗のみならず高野山は信仰と心の憩いの場としてにぎわっています。ではこれから写真で高野山を廻ってみましょう。

高野山アルバム(画像の右をクリックすると大きな画像が見られます) 
大門の阿形像 江戸時代の仏師康意作
大門の吽形像 江戸時代の仏師運長作
尼僧が行く かって高野山は女人禁制でしたが、明治以降禁がとかれてこのように修行中の尼僧もいます
金剛峰寺 高野山真言宗4000ヶ寺の総本山、1593年豊臣秀吉が建立し1863年再建、かって天皇や上皇が登山された折の総金箔張りの応接間や奥書院・大広間には江戸時代の有名絵師による襖絵が美しい。
また秀吉の弟秀次自刃の柳の間にある山本探斉の柳鷺図はみごとです、屋根に天水桶が乗っているのはご愛嬌
鐘楼と正門
蟠龍庭の一角 石庭として日本最大
高野山の道 静かな中に厳かな雰囲気が漂う高野山は俗人の穢れを清めるかのようです
乳母桜 老木が杉・ヒノキ・はぜ・楓・桜など幾種類もの樹の運命を担っています(乳母桜とは私の勝手な命名です)
金堂より根本大塔 金堂は空海が最も早く建てた講堂 1925年(昭和元年)焼失、1932年再建
根本大塔 真言密教の象徴として建立、再三落雷などの火災にあい1937年再建
金堂より経堂
奥の院 大師のご廟・不動堂(1189年建立、本尊は運慶作の不動明王と八大童子)など大師信仰の中心霊域、ここから先ではカメラは使えません

金剛三昧院の石楠花
(天然記念物指定)
(サムネイルです、画像をクリックすると大画像に変わります)
(重文)校倉造りの経蔵 1223年
石楠花と多宝塔

海棠桜・芝桜・石楠花

国宝・多宝塔
1223北条政子建立

境内

シャクナゲ−1

シャクナゲ−2

シャクナゲ−3

空海と星占い

日本に占星術をもってきたのは空海です、前述の留学して師事した青龍寺の慧果和尚が空海に伝えたもので、「宿曜経」というインドから伝わったホロスコープ占星術をインド人高僧の不空が長安で漢訳して弟子の慧果に授けたものだそうです。

占星術は古代における未来予知学であり、メソポタミアで生まれたホロスコープ占星術は数理天文学を背景にした古代の先端科学として、ギリシャの宇宙論や自然学と結びついた理論的根拠によって花開き、現在の七曜表にまで続いているのですね。

メソポタミアでは日月食や惑星の位置が記録され、紀元前652年から前61年までの天の現象が克明に記録された「天文日誌」として現存しているそうです。

さて、空海の「宿曜経」は密教占星術の宿曜道として一枚の図にまとめられたものが京都・東寺に伝えられる「火羅図」で、火羅とはインドの「ホーラー」の音訳であり、この言葉はギリシャまで遡るものだそうですから驚きです。

平安貴族の間で流行した宿曜道は陰陽道に匹敵するものとなり、今なお占星術師の元へと通う人が絶えませんね、占星術の天文学は宇宙の中心には地球があるという古代科学のままに発達してきたと聞いても、あなたは星占いを信じますか?

(この文章の基本は週刊朝日百科「シルクロード紀行」No.32ヴェネチア編P.24〜25矢野道雄・京都産大教授の「占星術」より抜粋加筆しています)

最澄と空海の時代

ブッダ・ウォーキングは平安時代の二人の比類ない仏教者の時代へ入って行きます。

飛鳥から奈良時代は日本国の形成時期であり、仏教もまた南都六宗による仏典の修学と国家・天皇・貴族の平安を祈ることが主たる目的であり、鎌倉時代に始まる一般民衆にまで仏教が流布してゆくには、荘園制の崩壊と武士階級の台頭を招いた平安時代がなくてはなりませんでした。

最澄(767〜822)については、比叡山へ行ったおりに詳しくご紹介しますが、空海は6世紀の役行者(=えんのぎょうじゃ、役小角=えんのおずぬ)に始まる日本人の加持祈祷好きから密教による真言宗を確立し、最澄は中国天台宗によって日本仏教の骨格を形成したといえましょうか。

比叡山の延暦寺からは、最澄の後を担う幾多の仏教者(源信、空也、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、一遍など=生まれ順に)が出ています。

遣唐使船4隻のうち沈んだ2隻に彼らのどちらかが乗っていたなら、日本仏教は変わったものになっていたでしょうから、二人は現代に生きる仏教者ともいえましょう。

熊野古道
瀧尻王子宮

近年、世界遺産に登録された熊野古道は、元来熊野街道と呼ばれていました。どんな道なのか百科事典「マイペディア」から読んでみましょう。

『熊野街道  紀伊熊野三山への参詣路。京・西国からの紀路(きじ)と,東国からの伊勢路があった。紀路は淀川河口から四天王寺門前を通って南下,紀伊田辺からは富田川沿いに山道をたどって本宮に至る中辺路(なかへち)と,海岸沿いに那智・新宮に至る大辺路(おおへち)があった。本宮までの道沿いには〈九十九王子社〉が配され,御幸道・小栗(おぐり)街道とも称された。伊勢路は伊勢神宮参拝後,志摩国を南下して熊野灘沿いに尾鷲(おわせ)から新宮に至る道で,東熊野街道といい,西国三十三所第一番札所那智青岸渡(せいがんと)寺への巡礼道でもあった。』

私たちのブッダ・ウォーキング一行は高野山に詣でた後、龍神温泉に一泊して熊野街道の中辺路の霊域出発地点「瀧尻王子」へ向かいました。
そこには「熊野古道館」という案内所があり、古代の街道を「熊野懐紙」など当時の文物に見ることができて、有意義な帰り道となりました。
古道はその名にふさわしく石畳が敷かれ、往年の賑わいを物語っており、鳥羽上皇に至っては二十九度も熊野詣をされ、ともに旅をした方々との歌会が「熊野懐紙」として残されています。


サムネイル(画像をクリックしてください)


世界遺産記念碑と滝尻茶屋

熊野古道館

熊野懐紙

上皇御幸解説

貴人の傘

古道の始終

熊野本宮へ上る

現代の古道風景

茨城の人ようこそ


松尾芭蕉と高野山 (参考:高野山 普賢院蔵版「芭蕉と高野山」)

高野山の中の橋をすぎて奥の院に至る参道の周りには、いにしえの高名な人々の墓所が所狭しと並んでいますが、その中ほどに芭蕉の句碑があります。

伊賀神戸市の白鳳城は伊勢の津・藤堂藩の出城で、城代藤堂良忠は蝉吟という俳号をもっていました、良忠より2才下の芭蕉は小姓として使えながら共に遊学の日を送りましたが、良忠は25才で早逝、その遺髪を持って高野山の報恩院へ行ったのが芭蕉でした。

良忠への追慕やみがたい彼は二君に仕えぬ武士の心から23才の秋に、藤堂家も親兄弟も捨てて同僚の門前に「雲とへだつ 友かや雁の 生き別れ」という句を残して、再び高野山へと登りました。

報恩院で彼は出家を願うのですが、住職の立盛は彼を惜しみ、何の道でも出精せよと遠い江戸の仏頂禅師への紹介状を与え、江戸への途中に立ち寄った東本願寺の任口上人も仏頂禅師への添え書きをくれた上で、出家させて桃青という法号を与えました。正に俳聖芭蕉はこの立盛の計らいによって誕生したといえるでしょう。

芭蕉が三度目の高野山に登ったのは45才(1688年)、亡君と32年前に亡くなった父、5年前に亡くなった母と同年に亡くなった法院大僧都立盛の菩提を心ゆくまで弔いました、そのとき作られた句が句碑として残っているのです。
                    「父母の しきりに恋し きじの声」 芭蕉


6月の第12回ブッダ・ウォーキングは6月24日(土)に、667年中大兄皇子(天智天皇)が飛鳥から近江大津京へ遷都した寺院跡をたどります、詳細は5月末に発表します。


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