第24(40)回 コダイ・ウォーキング レポート


大阪府三島地方の古代遺跡を歩く


大阪府三島地方とは三島郡島本町を北限として高槻市・茨木市を含む淀川右岸べりの地方をいいます。三島地方は日本有数の古墳地帯であり、高槻市だけでも古墳や遺跡が約500ヶ所もあるそうです。
今回はそのうちの最大の古墳、殆ど手付かずの古墳や再現された古墳、関西最大の埴輪製造工場、そして「高槻市埋蔵文化財調査センター」を訪れました。
前日までの雨模様がうそのような五月晴れの涼風の遺跡めぐりでしたが、大阪のベッドタウンですから、道中が殆ど住宅団地に囲まれた遺跡の気の毒な姿に、普段多く歩く大和地方の遺跡と違って、古代が見えてこない気がしたのは私だけではなかったでしょう。

三島地方の遺跡の分布図と遺跡の詳細を知りたい方は森本行洋先生のHP「古墳みてあるき」をご覧になると、バスの時間まで分かって、行ってみたくなること請け合いです。


耳原(みのはら)古墳


ここは茨木市の山手、うっそうとした森の中にある「帝人・大阪研究センター」の敷地内に保存された古墳です、平地に盛土された6世紀後半の円墳で、三島地方最大の花崗岩で積み上げられた立派な巨石古墳です。内部には照明設備があって十分に楽しめるようになっています。




巨石の入り口より玄室をのぞく



2基の石棺



羨道より外を見る


太田茶臼山古墳


5世紀前半の全長230m高さ19mの大型前方後円墳で、馬蹄形に周濠があり宮内庁によってきれいに整備されています。ここは宮内庁では継体天皇陵に指定していますが、大量に出土した埴輪から5世紀の古墳であることが分かり、継体天皇は531年に死んでいますので1世紀ものずれがあります。となると、路を隔てて立派な陪塚(ばいちょう)が二基ある、こんな大きな古墳は一体誰のお墓だったのでしょうか。



指定の間違いを正すためにも詳細な調査をするべきだと思う古墳です


番山古墳

5世紀中ほどの帆立貝式前方後円墳でしたが現在は円墳部分だけ残っています、直径56m、高さ7mの可愛い古墳で、南側に濠が残されていますが、あとは畑として利用されており、古墳が破壊されなかったことを幸いとしなければならないのでしょう。



丸い畝に囲まれた古墳、東南側には狭い溝に芦が生えています


新池遺跡


ここでは西暦450年(古墳中期)に始まり古墳築造が終わるまでの約100年間稼動していた、日本最大級の埴輪製造工場と工人の住んだ住居跡が発掘され、現在はハニワ公園になっています。
ここには3基の工房と登り窯が18基あり、一基の窯で一度に30本程度の埴輪が焼けたようです、朝鮮の新羅の焼き物も出てきましたから、工人は新羅から来た人たちだったと思われています。
先ほどの太田茶臼山古墳や後述の本当の継体天皇陵である今城塚古墳には数万本の埴輪が並べられていたそうですから、随分といそがしい工場だったのでしょう。
発掘された窯をそのまま保存したところもありましたが、あいにくインフルエンザ禍によって閉鎖されていました。



3本の窯と向こうは作業場



工房(作業場)の復元































大型の埴輪


涼しい埴輪公園でのお昼


高槻市埋蔵文化財調査センター

1975年開館、高槻地区文化財の発掘・調査・復元・保存を司っていますが、竪穴住居一棟と横穴式石室の復元があるだけで、その他の出土品を展示するのは小さなガラスの棚だけという、353000人、市営バスもある大きな都市としては想像を絶する、文化財に対する冷淡な扱いにはびっくりして声も出ませんでした。

このセンターのある南平台というところは、3世紀後半にはじまる弁天山古墳群として過去には8基もの古墳がありましたが、弁天山・岡本山の古墳以外は破壊してゴルフ場にした後、住宅地に転化してしまい、もはや看板一枚が残る遺跡となりました。

どうしてこんな文化行政ができるのか、一晩考えた結果では、ここは大企業の工場群と大阪のベッドタウンとして発展してきた都市ですから、郷土愛が欠如しているのだろうと思っています。

いろんな地方の古代遺跡を訪ねてきましたが、小さな地域でも文化財の保存・展示には最大の努力をしています、
文化財は一度破壊すればもう二度と復元できないことを思うと、まったく現代日本の悪い縮図の典型のようで残念でなりません。

それでも、展示戸棚の中には大変重要な出土品が一点だけ展示されていました、西暦235年「青龍3年」の年号が入った中国の魏国の「方格規矩四神鏡」です。



今は無くなってしまった遺跡群



魏国の「方格規矩四神鏡」右側に「青龍三年 顔氏作鏡成文章・・・」と彫られています


西暦235年「青龍3年」の年号が入った中国の魏国の「方格規矩四神鏡」のもつ意味とは:
この鏡はこの後ご紹介する「安満宮山古墳」から3枚が、古いタイプの三角縁神獣鏡2枚と一緒に日本で初めて出土したことでした。これは「魏志倭人伝」に伝えられる239年6月倭国の外交官が邪馬台国を出て12月に魏の都・洛陽に着き、魏は倭国の女王・卑弥呼に対し「親魏倭王」の印綬とともに「銅鏡百枚」などを与えたと印されていますが、この3枚の鏡は卑弥呼の鏡の一部と考えられています。もらった百枚の鏡には色んな種類の鏡が含まれていたことも分かりました。



同じ工人が造ったと思う安満遺跡の美しい壷


今城塚古墳

淀川北岸では最大の古墳で、全長350m・墳丘長さ約190m・高さ12m・前方部の幅148mという堂々としたものです。高さ1.7mの千木を置いた二階建て家型埴輪や武人などが出土しました。
こここそ継体天皇陵であると学会では認められています。
現在は二重にあった濠の外堀と内堀の半分は埋めつくされ、2011年には史跡公園として開設されます、同時に遅まきながら「古代歴史館」が作られて、先述の鏡や埴輪が展示されることでしょう。
この古墳で特異なのは、亡き大王を偲びつつ新大王が位に着くところを表現した「埴輪祭祀場」があったことで136点以上の埴輪が並べられていたそうです、この様子を再現することになっています。



濠が埋められ道路になってしまった今城塚古墳


継体大王(=天皇)とは:
記紀によれば、6世紀始め武烈大王(おおきみ)がなくなると彼には子がなかったので、大伴氏・物部氏らは越前(福井県丸岡町)より応神大王から5代目の孫である男大迹王(おおとのみこ)を推戴し大王としました、枚方市の樟葉で皇位についたのが507年(〜531年)、その後山城の筒城、京都府の乙訓と転々とし、大和に入ったのは何と20年後であったそうです。その御陵も大和でなくて高槻市にありますから、大和の豪族たちの中には継体を支持しない者がいたのでしょう。
彼は武烈の妹・手白香皇女を皇后にして、仁徳に始まる王朝の遺産を継承し、雄略から続く東方への発展を更に北方へと広げるとともに、北九州の有力者だった筑紫国造磐井の反乱を制圧し、やまと政権はいよいよ中央集権化が進み、彼らの子である欽明から敏達、用明、推古、崇峻そして孝徳、皇極、舒明、天智、天武(=天皇:この呼び名を使い始めました)・・・と皇統は続いて、継体によって統一された大和政権体制は堅固なものになってゆきました。


安満(あま)宮山古墳

高槻市の北方の山中(今は公園墓地)バス停から25分登ったところにあります、古墳時代前期初頭(3世紀)の長方形墳で全長20m、巨大な箱型木棺を盛り土で積み上げた「構築墓坑式」でガラスのシェルターの下に復元されています。
先述の青銅鏡5面、ガラス小玉1600個余り、鉄塔・鉄斧など出土品は一括して国の重要文化財に指定されています。
この鏡が卑弥呼に贈られたものの一部とすると、ここに葬られた豪族は倭国が魏へ外交官を派遣した折、活躍したのではないかと推定されています。



奥のほうのガラス張りは発掘されたお墓



木棺の埋められていた坑、枕元に鏡類が、足元には刀剣が



安間宮山より淀川の向こうは枚方市、その先は倭国でした



空気まで緑に染まりそうな下山風景


6月は「山陰の弥生時代」(締め切りました)へ行きますから、次回のウォーキングは9月より再開します。


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