コダイ・ウォーキング 番外編 「古代の北九州を歩く」


超古代に中国の南の果て雲南省で始まった稲作は長江(揚子江)を下りながら紀元前5000年には上海付近に達し、その後朝鮮半島経由或いは東シナ海を渡って日本へもたらされました.。

岡山市の縄文前期時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」には紀元前4000年の米・麦などのプラント・オパール*が発見され、同所にあった土器片の放射性炭素年代測定法*により、稲作の歴史が明らかになりました。

このように稲作の伝播はすばやく、日本人の生活を豊かにし大きな集落を作っての共同生活が必要になってきたのでしょう。1986年に発掘調査が開始された佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、当時日本最大の縄文〜弥生時代の生活圏とされ大きな話題を呼びました。

縄文前期時代の紀元前4000年前頃は、最終氷期が終わって地球が温暖化して、海水面が上昇のピークを迎えており、日本でも縄文海進といって海水面が現在より3〜5mも高かったことが判っています。したがって、有明海或いは筑後川の河口に接した地域が発展し、吉野ヶ里は古代の都を形成し縄文晩期から弥生時代後期までの約700年に亘って栄え、「邪馬台国と卑弥呼」の里説が生まれたのも納得です。

私は2月中旬に休みを利用して3日間、北九州の古代遺跡を歩いてきました、壱岐・対馬を経由して朝鮮文化との交易が盛んであったことは外国との窓口が北九州にあったことは明らかであり、北九州を代表する国といえば奴国・伊都国・吉野ヶ里遺跡をおいて他にはないでしょう。

これらの国々には旧石器時代には既に人が住んでいました、何故なら石器として利用するサヌカイトや黒曜石の産地だったからであり、これらの石材は遠く朝鮮半島まで達しています。

然しながら、古代の北九州を歩きながら感じたことは、その著名な遺跡群が、関西に比べると量的に小規模なことに気づきました。弥生時代はまだ統一された国家がなく、首長に統合された部族社会であったことは、どの地方でも同じだと思いますが、なぜ関西の大和民族が日本の統一を果たしたのかということは、その面積と分布の広さ、石棺をもつ墳墓や古墳の多さを比べてみるとき、自ずとうなずけることでした。

これまで私は番外編として「出雲」「吉備」地方を歩き、いままた「北九州」を歩きましたが、まだこれら以外にも吉野ヶ里に匹敵する規模の弥生時代の集落が、大阪府の池上曽根遺跡、鳥取県の「妻木晩田(ムキバンダ)遺跡」[青谷上寺地(アオヤカミジチ)遺跡」や奈良県の「唐古・鍵遺跡」、明日香の北方・箸墓古墳の北に広がる平城宮にも匹敵する範囲の「巻向(=まきむく・纏向)遺跡」があります、特に纏向遺跡は前記縄文海進によって水運が発展して、日本最大の規模をもち1971年発掘以来今日までも調査が進められています。

古代は正に逆説的に進化しており興味尽きない世界です、私たちはコダイ・ウォーキングの一環として「妻木晩田遺跡」や「唐古・鍵遺跡」にも足を向けてゆきたいと思います。

では北九州の古代をいつも通りの駆け足と浅学非才の身でもって興味本位に巡ってみましょう、3日間の大部ですからゆっくりとご覧ください。博物館の休館日の都合で地域は前後しますが、吉野ヶ里・奴国・伊都国の訪問順にリンクでつないであります。

(*プラントオパール:植物のガラス質細胞の化石。酸やアルカリ、熱に強く、植物が枯れても分解せず地中に残る。植物の種類によって形状が異なり、イネ科は地中からケイ酸を吸収して細胞にため込む性質がある。発見されたのはこのケイ酸体の粒子。

*放射性炭素年代測定法:生物に含まれる炭素の放射性同位体が、死後、一定の速度で窒素に変化していく性質を利用した年代測定法で、炭素の放射性同位体濃度の半減期5730年を基に計算する。加速器によって同位体の原子1個1個を検出して正確に測定するAMS法というのがある)


弥生時代の北九州




リンク(見たいところをクリックしてください)
   
    1:吉野ヶ里遺跡

2:奴 国

3:伊都国

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