第20(36)回 コダイ・ウォーキング レポート


大和三山と万葉を歩く


1月は新春にふさわしく、万葉の時代を偲びながら古の都大路を歩き、大和三山(耳成山、天の香具山、畝傍山)を巡ることとしました。694年持統天皇は都を飛鳥から大和三山をその域内に入れ、中国を模した本格的な藤原宮を建設しました、710年平城京への遷都までわずか16年間でしたが、この間に日本初の法典「大宝律令」が制定され、夫である聖武天皇とともに進めてきた律令国家体制が確立しました、日本国の完成といってもいいと思います。
24日(土)は大変寒くときどき雪が舞いながらも、まさにウォーキング日和で楽しくそして驚きの一日でした。
さて万葉の旅に出発しましょう。



「日本史ウォーキング 関西」JTBパブリッシングよりコピー


耳成山

死火山で周辺が陥没して山頂部だけ残ったそうで、山自体が耳のように成している山となりました、139.6m山麓60mつまり高距約80m、なだらかな道と少し急な登山道がありますが、眺望は一ヶ所畝傍山が見える以外なく、ここから南の藤原京を見下ろしたかったのですが残念でした。

「耳無の 池し恨めし 吾妹子が 来つつ潜かば 水は涸れなむ」  詠人知らず

この詩は一人の美しい娘さんを男どもが争って嫁にしようとするのを悲しんだ娘さんが耳成山の近くの池に身を投げて死んでしまったのを嘆いた哀しい詩です。



優美な耳成山


藤原京址

中国の都城を模して、礎石の上に朱塗りの柱を立てた最古の宮殿であり、藤原宮には天皇の住居である内裏や大極殿,朝堂院,多くの役所などの建物がありましたた。ここは瓦屋根の大垣が四方を囲んでおり,宮域を他と区別していました。
平城京や平安京をしのぐ広さを持っていましたから、大和三山は都城の中にありました、690年(持統4)に着工され、694年に飛鳥浄御原宮から遷都、完成は遷都後10年経過の704年、持統・文武・元明の三天皇が居住した16年間日本の首都でした。この間に日本初の法典「大宝律令」が制定され710年文武天皇が諸国に発布し、中央集権体制が整いました。

広大な荒地として残された京址に吹雪が舞って、いにしえの美しい都を想像することは困難で、それより建設に駆りだされた諸国の民の苦労こそ偲ばれました。



藤原宮跡より北の耳成山方面



朱雀大路より西方畝傍山



東方の香具山


藤原宮址は平城京址に比べて狭く感じるのは、国有化された土地が狭く、民営地が多いことによります。写真を見てお分かりのように周りを民家や工場が取り巻いています、本薬師寺跡などは民家の庭先にあるのですから、といって広大な原野となってしまった都の址をいまさら復元することはできないことです、平城京では朱雀門が既にあり、大極殿がまもなく完成し、いにしえの奈良の都を彷彿とさせてくれることでしょう、藤原京址は現状のまま分割されないで広大な公園化されることを願っています。



天の香具山と天岩戸神社


香具山だけは火山ではなく、「天」の字を冠することからも天から降ってきた山との伝承によって、飛鳥時代には聖なる山として特別な思いを持って接しられ、山麓部には国常立神・天香具山・天の岩戸などの神社が多くあり、万葉歌が多いのも無関係ではないでしょう。152m山麓76m高距76m。

天岩戸神社は香具山の南麓にあり、天岩戸と伝承される岩をご神体としていますが、その岩は竹やぶの中に隠れた四個の小ぶりな岩で、天照大神が岩戸に隠れた際、神々が香具山の鹿の骨を香具山神社の「波波迦」の木で焼いて占ったと伝えられますが、どのようにして神様が隠れたのか想像できませんでした。天岩戸はあちこちにありますが一番邪馬台国に近い場所にありながら、その規模の可愛らしさにちょっと驚きましたが、弥生時代とはこんなものであったかもしれませんね。

「大和には群山あれど とりよろふ天香具山登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つうまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」  舒明天皇


「春過ぎて 夏来るらし白たえの 衣干したり天の香具山」  持統天皇

                                                      

天岩戸神社とその拝殿(ご神体は香具山です)











































香具山の麓の観光トイレの横にある休憩所での昼食


本薬師寺跡

680年(天武9)皇后(後の持統天皇)の病気平癒のために発願698(文武2)完成しましたが、平城遷都ともに現在の奈良市西の京に移設しました、ここには金堂・東西両塔・の礎石や基壇が昔を偲ばせます。





金堂の礎石、右は民家、向こうは畝傍山



あの優美な三重の東堂跡、向こうは金堂跡


奈良県立橿原考古学研究所と付属博物館

















橿原考古学研究所付属博物館は、旧石器時代から平安・室町時代までを6区画に分けた展示方法で、大変学習しやすくなっています、規模は中くらいですが、その展示内容の素晴らしさに時間を忘れてしまいます。
例えば、法隆寺の西で発掘された6世紀後半の藤ノ木古墳は盗掘されていなかった出土品の素晴らしさで有名ですが、その装身具・馬具・太刀と剣・その他の金銅製品などの出土品とその復元製品の見事さには驚きを禁じえません、この古墳は小さいですから大王の大古墳などが盗掘されていないで発掘されるならば、想像を絶するものであるに違いありません、正に古代から大和は豊かな国でありました。

この博物館では写真を禁止されていますので、その内容を見ていただけませんが百聞は一見にしかずとか、ぜひご自分の目で確かめてください、時間をいただいてここの図録からスキャンしてお見せする予定です。

なお、館外に興味あるものを見ましたので、ここにご紹介しておきます。


束明神古墳の石槨


第16(32)回2008年9月のウォーキング「飛鳥の初秋を楽しむ)で行きました、28歳で逝去した天武と持統天皇の子・草壁皇子(662〜689年)は束明神古墳に葬られています、ここに古墳の石槨の復元品がありました、次代の天皇ともくされていた皇子にふさわしい立派なものでした。 束明神古墳を見る



草壁皇子の復元石槨


畝傍山

大阪の住吉大社では毎年2回畝傍山に「埴」を取りに来る神事があります。神事に使う土器を作るため山頂で採取するのです、山頂には玉垣を巡らせた埴取の場所があります。198.8m山麓70m高距約129m、時間都合で登れませんでしたが、大和三山では一番高い山ですが、近づくほどに低く見える山でした。

「香具山は 畝火(うねび)雄々(をを)しと 耳成と 相争

橿原神宮外苑より畝傍山
                                    


久米寺

寺伝では聖徳太子の弟の来目皇子が創建、かっては東西両塔を備えた大寺だったそうですが、現在の伽藍は殆ど江戸時代のものです、多宝塔は1659年に京都の仁和寺から移築された桃山様式で重文。本尊の薬師如来坐像は来目皇子に始まる眼病に霊験があるそうですが拝観はできませんでした。
それよりこの寺を有名にしているのは8世紀聖武天皇の時代の久米仙人でしょう、修行して空を飛べる仙人が下界の若い娘の白い脚に見とれて天から彼女の元へ墜落、彼女を妻にして幸せになりましたが、遷都の際その木材をW空輸“させた功績によって褒賞され、久米寺になったなどユーモラスな仙人像が「今昔物語」や「徒然草」に出ています。



本堂



久米仙人像



暮れなずむ久米寺境内 左は多宝塔


こうして絶好のコンディションに恵まれたウォーキングは終わり、いつもの橿原神宮前駅構内で楽しい反省会を開きました、いよいよ来月でこの会も満4年が過ぎることになり、感慨無量です。
2月は28日(土)琵琶湖岸・近江八幡を中心に古代とコハクチョウなどの水鳥を尋ねることになります、詳細は2月初旬に発表しますBye


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