第18(34)回 コダイ・ウォーキング レポート


竜田川より興福寺へ


現在の竜田川は生駒山を源として東麓を南に流れ斑鳩町で大和川に合流しますが、万葉の竜田川は現在の竜田川(平群川)ではなく、大和川本流を指しているというのが定説です。後の時代に紅葉の名所として観光地化のため、地元が平群川を竜田川と称したため、現在の呼称になったと言われています。

ともあれ、古今和歌集に在原業平が
「ちはやぶる神世も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは」 と詠った紅葉の名所は、現在の竜田川と大和川との合流点近くにある竜田公園です、この川は三面張りで古の面影を偲ぶことは不可能、11月22・23日は竜田神社の神主さんを呼んで「もみじ祭」が開かれましたが、長い夏のお蔭で紅葉には早く、何の風情もないところへびっくりするほどたくさんの屋台群とそこへ集まる人々でごった返し、たとえ美しく紅葉していても「もみじ」どころではない有様に、対岸の静かな道を急いで通り過ぎました。

竜田神社をすぎて更に北上すると、奈良時代きっての高僧行基の墓所・竹林院でお参りを済ませて、最後は興福寺へ行き、開催中の興福寺特別公開で普段は公開されない、五重塔(国宝)の初層内部の仏像群と南円堂(不空絹索観音坐像・国宝)の内陣を拝観することができました。


竜田公園アラカルト
















「もみじまつり」とは人を集めて商品販売を促進することのようです



こんな画像をお見せしたくないのですが、竜田川に映る秋の空



吉田寺(きちでんじ)=ぽっくり寺の多宝塔(1463年・室町時代・重文)


吉田寺
天智天皇の妹・間人皇女のための陵寺があったところへ、比叡山の恵心僧都(源信和尚・942〜1017年)が霊木を見つけて阿弥陀如来坐像(丈六仏・重文)を彫って寺としました。ぽっくり寺として有名なのは、源信の母が安らかな臨終を迎えたことから、ぽっくりと死にたいという人々の願望から名づけられました。

源信和尚の母
源信は7歳で父と死別し9歳で比叡山へ入り、15才にして時の村上天皇の前で特別に『称讃浄土経』を講じ、天皇をはじめ感嘆しない者はなく、数々のほうびの品と「僧都」の位が授けられました。源信は早速この喜びを当麻に一人で暮らす母に知らせようと思い、使いの者にほうびの品を持たせます。しかし、ほうびの品は返されてきて、和歌が添えられていました。

 「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ」

母の厳しい訓戒にうたれた源信は精進を重ね、比叡山の横川の恵心院に隠棲し念仏三昧の日を送り僧都の位などを辞退しました。
三十数年後、、母は故郷へ帰ってきた源信の膝を枕に安らかな往生をとげました。源信は「往生要集」「阿弥陀経略記」などを表わし、法然上人の師としても知られます。




竜田神社


竜田神社
聖徳太子が法隆寺を建立する土地を探していたとき、竜田明神が今の土地を指定し「私が守護神とならん」とお告げになりました、しかし竜田明神のおられる竜田大社は三郷町にあって遠かったので、ここに鎮守の社を建てたのが始まりです。



竜田の街道に建つ古い酒屋さん



能・金剛流発祥の碑


能の発祥
竜田神社境内に大和四座の一つ金剛流の碑があります、7世紀頃中国から伎楽、散楽が渡来し、平安時代には大衆化して猿楽となり、室町時代には大和猿楽として外山座・結先座・坂戸座・円満井座が結成され、足利義満をはじめ武家たちが世阿弥・観阿弥などを庇護し、その後宝生・観世・金剛・金春流として発展してきました。



前日までの悪天をまぬがれ暖かいウォーキングに憩う皆さん


せめて在りし日の竜田川を偲んでください「竜田川の歌」

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは (古今集 業平朝臣)

年毎に もみぢ葉流す 竜田川 みなとや秋の とまりなるらむ (古今集 紀貫之)

もみぢ葉の 流れざりせば 立田川 水の秋をば 誰かしらまし (古今集 坂上是則 )

竜田川 錦をりかく 神な月 しぐれの雨を たてぬきにして (古今集 よみ人しらず)

竜田川 もみぢみだれて 流るめり わたらば錦 中やたえなむ (古今集・巻五よみ人しらず)


行基菩薩


608年現在の大阪市堺市に百済系渡来人西分氏の家系に生まれる、15歳で出家し法相宗の道昭(629〜700年、653年遣唐使の一員として入唐し、玄奘に師事して法相教学を学ぶ、晩年は各地で土木事業を開いた)の弟子となる。

民衆とともにあることを志して東大寺造営の勧進、温泉の開湯、貯水池の掘削、港湾設備、そして行基創建とされる寺院は畿内だけでも49ヶ寺におよび、その伝説は当時の日本全国に広がっている。

715年には聖武天皇より大僧正を授かり、747年には光明皇后の命により新薬師寺を建立、749年に住まいであった家原寺(現在の喜光寺)にて84歳で遷化し、朝廷より「菩薩」の称号が下され、墓所は現・生駒市の竹林寺。

彼の伝記は「日本霊異記」(平安初期・日本初の仏教説話集)など多数にあり、日本仏教に対する聖徳太子に次ぐ功労者とされています。

主な温泉の開湯:草津・野沢・渋・湯田中・山中・関金・木津など
主な貯水池:昆陽池・久米田池・狭山池
港の建設:尼崎・神戸・明石・姫路・室津漁港など




行基さんのお墓



紅葉の下、皆さんでお線香を供えて礼拝しました



竹林院の新しい本堂


興福寺

藤原氏の氏寺として669年(天智天皇時代)に京都に建立されたのち飛鳥に移転し710年に平城京遷都とともに藤原鎌足の子・不比等が移しました、藤原氏が全盛期を迎える平安時代には春日大社と一体化して大和一国を領する大きな勢力を持ちました。
平家の乱以後盛衰を繰り返し1717年の大火によって衰退、それでもここは仏教美術の宝庫であり国宝や重文の数限りなく、7回の焼失のたびに天平様式で再建されてきました。この再建は今も続いており中金堂が天平の姿そのままに2010年(創建1300年)再現されるのを待っています。
今回公開される五重塔(703年光明皇后により創建、現在は1426年再建、国宝)初層部の内陣には釈迦・薬師・阿弥陀・弥勒の三尊像が四方に曼荼羅風に配置されています。

南円堂(813年創建、現在は4度目の再建で1789年・重文)の本尊・不空羂索観音坐像(国宝)は西国観音霊場の第九番霊場の本尊であり、鎌倉時代・康慶(子・運慶、弟子・快慶)による傑作です。




五重塔へ急ぐ人々



神仏習合の名残を残す南円堂




































左:国宝・五重塔初層内陣・釈迦三尊坐像  右:南円堂:国宝・不空羂索観音坐像 (いずれもパンフレットよりスキャン)


12月のコダイ・ウォーキングは13日(土)に石光寺並びに当麻寺のの寒牡丹を楽しんだのちに竹内街道を訪ねます。


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