第16(32)回 コダイ・ウォーキング レポート


飛鳥の初秋を楽しむ

暑かった夏の2ヶ月間をどうにか乗り切って、9月再開のウォーキングは初秋の飛鳥を尋ねて、これまで数度の飛鳥ウォークで行かなかったところを選びました。
初めは高さもあって涼風にだまされながら、最近は人の入らない登山道を下りましたが、曼珠沙華(彼岸花)に彩られた古墳道を行く頃には陽も西に傾き、牽牛子・岩屋山・丸山古墳は27000歩でカットしました。暑さのため反省会の水分補給が大いに進み談論風発、やっぱりウォーキングは楽しいですね。


壷阪寺(南法華寺)


寺伝では703年に元興寺の弁基が山中での修行中に、観音像を刻んで本尊としたのが始まりとされています。その後,寺は高野山をしのぐほど栄えましたが、4度の火災によって伽藍が焼失。現在は八角円堂の本堂や室町時代に再建された礼堂(重文)、三重塔(重文)などが残っているだけとなりました。本尊の十一面千手観音像は眼病に霊験あらたかといわれ、西国観音霊場の第六番です。
また浄瑠璃や歌舞伎の「壷阪霊験記」や清少納言の「枕草子」に「寺は壷阪、笠置、法輪」との一節があり、平安時代より親しまれてきました。
当寺は1965年からインドの救ライ(ハンセン氏病)事業を初め、今日までインド各地で様々な財団事業を営み、日印交流の先駆者として活躍しています。



右手前はインド・アジャンター石窟を模した僧院、そのむこうはインドより招来の釈迦如来坐像(壷阪大仏)、奥は
三重塔(重文・室町時代1497)、その左方は礼堂(重文・1466)と本尊・十一面千手観音のおられる八角円堂


仏伝図レリーフ:修行する釈迦に左方より悪魔がやめるように説得し、右方では様々な煩悩が誘惑します、
右はスジャータ村で乳かゆの供養を受ける釈迦、その後悟りを開いて仏陀となられます



「やすらぎの聖地} インドより招来の釈迦涅槃像と観音菩薩立像(高さ20m)


香高山羅漢岩

この磨崖仏群は壷阪寺から高取山を目指す尾根道を北へ下ったところにありました、17世紀頃に彫られたと見られており、香高山頂上には釈迦仏があって、下から順に曼荼羅界を表わしているそうですが、一体一体をよく拝む時間があればよかったのですが時間都合で多くは廻れませんでした。


香高山曼荼羅の一部




キトラ古墳

現在は空調設備のため古墳が覆われていますが、東西南北の四壁の中央に四神の青龍、白虎、朱雀、玄武が描かれ、天井の部分に星座が描かれていることはご存知の通りですが、壁画は剥ぎ取られて修復中です。
古墳の原型は二段築造の円墳で上段が直径9.4m、高さ2.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さ90cm。。墳丘は小高い阿部山の南斜面に位置し、名称の「キトラ」は、「北浦」の転訛といわれます。1983年、石室内の彩色壁画に玄武が発見され、2000年11月、国の特別史跡に指定されました。
壁画などにみられる唐の文化的影響が高松塚古墳ほどには色ないことから、遣唐使が日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初め頃に作られた古墳であると見られています。武天皇の皇子、もしくは側近の高官の可能性が高いと見られまた、金象眼が出土したことから、銀装の金具が出土した高松塚古墳の埋葬者よりも身分や地位の低い人物が埋葬されていて、古墳周辺の一帯が「阿部山」という名前の地名であることから右大臣の阿倍御主人(あべのみうし)であったとの主張が通説となっています。



キトラ古墳の空調設備


(岡宮天皇陵)明神古墳

岡宮天皇とは28歳で逝去した天武と持統天皇の子・草壁皇子(662〜689年)に対する追尊名、宮内庁はここを比定していますが、現在の学界ではすぐ北の束明神古墳が草壁皇子陵となっています。このすぐ隣にはスサノオノミコト神社があります。





28歳で夭逝した草壁皇子を祀る東明神古墳


マルコ山古墳

7世紀末〜8初、一辺12mの六角形墳、六角によって高松塚・キトラ古墳より格上の被葬者だったとされ、30才後半で亡くなった天智天皇の川島皇子といわれます。




マルコ山古墳中腹より来し方を望む方々



曼珠沙華(彼岸花)と飛鳥夕景


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