コダイ・ウォーキング 番外編 「古代の出雲」




出雲大社拝殿の大注連縄(1.5トン)、神楽殿のは何と5トンもあります


梅雨の晴れ間を利用して、予てから懸案の出雲の古代を訪ねてきました、出雲については「古事記」(712年)や「日本書紀」(720年)に色々と記されていますが、これら「記紀」は奈良時代・藤原不比等はじめ藤原氏の代に出たもので、正しい歴史を編んだものとは言えず、藤原氏にとって不都合なことは神話に託してしまい、正しい歴史認識を拒んでいます。

また古代に関する学究は「卑弥呼の邪馬台国」の所在地に対して、北九州説と大和説に別れてしまい、どっちも自説にこじつけた歴史観を繰り広げています。私たちは読む本や聞く歴史で東西を右往左往させられるだけですが、考古学で発掘される諸物は歴史を正しく反映していますから、更なる考古学的発見こそ重要な手がかりになってゆくことでしょう。

それにつけても出雲での大量の銅剣や銅矛・銅鐸の発見は、それまで神話以外では重要視されない地方を一躍歴史上によみがえらせてくれました、出雲地方こそ日本の古代国家建設に重要な鍵を担っているように思えます。

学問的なことは門外漢には分かりませんが、とりあえず出雲の風土とその数々の遺跡群を訪ねてみましょう。


出雲とその周辺図



古代の山陰
まず、弥生時代の山陰地方を見てみましょう、上の地図の最も右端に「青谷上寺地遺跡」展示館というのが海岸から1Kmほどのところにあります、ここは弥生時代中期後半から後期にかけての遺跡です、ここから発掘されたものは想像を絶する量と、地中の水分が多かったために保存状態が良く、大量の鉄器すらよく保存されていたことです。最も驚くことは弥生人の脳が腐らずに保存されていたたことで、DNAによって弥生人の特徴を知ることが出来ます。
発掘されたのは木製品9000点、骨角製品1400点、人骨5500点、獣骨27000点、鉄製品270点が線状の発掘だけで出てきたのです。当時のここはすぐ目の前に潟=ラグーンが入り込んで集落を形成し、水路には矢板が打ち込まれ水上交通の発達していたことが分かり、中国の銭(西暦14年鋳造)や中国・朝鮮の鉄器も含まれていました。
弥生時代後期の2世紀後半は「魏志倭人伝」「後漢書」などにある「倭国乱れる」時代に相当し、大量の人骨が埋葬状態でなく殺傷された状態で埋まっており、大きな戦いがあったことを表わしていました。

次に、米子市の東方、大山の北麓に「妻木晩田遺跡」が、佐賀県の有名な弥生時代の環濠集落・吉野ヶ里遺跡の1.3倍、日本最大の弥生集落として見つかりました、ここも日本海から潟が入り込んでいた地形で、交易によって繁栄していたことが想像されます。
発掘はまだ十分の一ですが、竪穴住居跡400棟以上、掘立て柱建物500以上、墳墓34基にのぼります。この集落は弥生時代中期末(西暦1世紀前半)に建設され2世紀後半に最大規模になり、3世紀後半(古墳時代到来後)には住居が殆ど消えてしまいました、ここでも200点以上の鉄器が発見され、それらは農具や工具が中心で朝鮮・北九州製品に現地製品が混じっていました。

更に西へ移動すると、JR出雲市駅の南に「西谷墳墓群」というのがあります、ここでは日本海沿岸を北陸地方まで続く四隅突出型墳墓(四隅に出っ張りがあり、斜面には貼り石(前方後円墳の葺き石となった可能性がある)が存在します。
現在までに四隅突出型墳丘墓6基を中心に32基が点在する墳墓群。全国的にも弥生時代最大級で、日本版「王家の谷」ともよばれて、かってこの地方に大きな権力をもった王がいたことを認識させます。国の史跡に指定され史跡公園として整備されており、出雲・山陰地方は弥生時代に繁栄した地域であったことが証明されるのです。

「西谷墳墓群」には残念ながら行っておりませんので、画像はありません。


荒神谷遺跡


1983年、広域農道建設にともなう遺跡分布調査で、調査員が田んぼのあぜで古墳時代の須恵器の破片を拾ったことから発掘が開始されました、ここは現在の斐川町の仏経山麓、この山は、「出雲風土記」に神名比山といわれる「神の山」であり、出雲地方の古墳はこの山が見えるところに建造されているらしいです。

1984〜1987年の発掘調査で、荒神谷から50cmほどの中細型の銅剣358本、銅鐸6、68.5〜84cmの銅矛(祭器用)16本が出土しました、これは全国でそれまでに発見された銅剣が300本余りだったためために、考古学、歴史学に大きな衝撃をあたえました。(1998年国宝に指定)

これらの銅剣はきっちり4列にまとめられ箱に収められていました、全て同型の剣で弥生時代中期後半に製造直後に埋められたそうです、この4列には大きな意味があり、当時出雲の地域別神社の数に対応していました、これはこの地方の豪族が銅剣祭祀を通じて団結していたことを物語っています。団結の中心になったのが政治を扱う意宇(おう)郡の出雲氏と祭祀の当たる出雲郡の神門(かんど)氏であったといわれます。

現在これらの発掘品は出雲大社の隣の「島根県立古代出雲歴史博物館」に常設展示されています。また荒神谷では博物館、銅剣発掘現場の再現、古代復元住居、2000年の時を経た大賀ハスなど史跡公園として整備保存されています。



荒神谷発掘現場 左が4列に並べられた銅剣、右が銅鐸と銅矛


















発掘状況の復元



埋められた当時の製品の輝きを再現


加茂岩倉遺跡

更に驚くべきことに、隣町の雲南市加茂町の谷奥の谷底から18m上がったところで農道工事中に、ポリバケツのようなものがのぞいているのを作業員が発見して、よく付近を見ると同じようなものがいくつか転がっており、水田で洗ってみると銅鐸でしたので、びっくりして通報しました。何とそこからは39個もの銅鐸が出てきました。
これまで一遺跡から出土した銅鐸は滋賀県の野洲市大岩山遺跡の24個が最大でした、全国で見ても470個ですから正に最大の発見となりました、
このなかには大型の銅鐸の中に小型を収めたものが7組もありました、いずれも2世紀中葉または末の製品で、荒神谷の銅剣より少し新しい時代でした。
なぜこんなところに埋められたのかということは、この近くに矢櫃神社がありましたが、1946年の洪水で拝殿を失い、神の宿る磐座(いわくら)という巨石だけが残っていますが、ここの首長が祭祀用に埋めたものとされています。

この銅鐸には近畿や山陰地方と同じ鋳型の銅鐸が含まれ、この地独特の鹿・鷺・トンボ・亀・いのししを描かれたものもあり、青銅器文化は北九州から大和まで、出雲や吉備を中継して交易していたことが明らかになりました。
山陰地方はたくさんの潟があり、北九州と同じく天然の良港になっており、中国・朝鮮の先進文化を受け入れて、日本の先進地としての役割を果たしたことが分かります。
この発見地でも、発掘現場の保存、銅鐸レプリカの展示館など見学が楽しめるように整備されています。
これらの銅鐸は今年2008年6月に国宝に指定され、「古代出雲歴史博物館」で7月6日まで特別展示されていますが、発見から今日までどのような過程をへて展示に至ったかをご紹介すると、
'96−10−14 発見、'97−4〜2001−3 調査・研究 '99−4〜’06−12 保存・修復(土砂除去・腐食進行防止と強化処理・破片接合)そして公開'99 重文に指定 '08−6 国宝に指定 というように多大の労力をへていることが分かります。



発掘現場の再現



入れ子状態の銅鐸の再現(レプリカ)


「八雲立つ風土記の丘


ここは島根県庁のある松江市の南郊に位置する「意宇(おう)平野」の中心で、古墳時代から出雲の中心として今日に続いています、ここは奈良時代などの遺構も保存された古代出雲を楽しく知ることができます、では風土記の丘を廻ってみましょう。


神魂(かもす)神社(国宝)


本殿の中央に張出す太い柱を宇豆(うず)柱といい大社造りの特徴になっています国宝であっても神社内には神官も誰もいない静かなところです





八重垣神社




















稲田媛命(くしなだ姫)はスサノオのミコトの妻になった人でこの「鏡池」を日々の飲料にしていました、現在は縁結びの神の池とされています



風土記の丘展示学習館の展示品←クリック


山代郷正倉跡

正倉は税として納められた米を収めた倉です、発掘調査で直径60cmの柱を20本使用した倉庫群や炭化した米が発見されました


柱の配置を再現していました


出雲国府跡































史跡を掘る


出雲国分寺


「出雲風土記」が書かれた6年後の741年(天平13)に聖武天皇が全国に国分寺と国分尼寺を建てるように命じ、出雲は750年に完成しました、南門・中門・金堂・講堂・僧坊・回廊・塔などがありました。なお尼寺の方は探しましたが山に戻ってしまったのか見つかりませんでした。



南門より金堂方面を望む、黄色の花は欧州原産のタンポポ


出雲大社


旧暦の10月は出雲では「神あり月」といって日本中の神々が参集してこられることになっています、だから出雲以外は「神無月」というのですね、奈良県の大神神社の由緒に「遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ)【大国主神(おおくにぬしのかみ)に同じ】が、 自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおもの ぬしのかみ)の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります」といっているように、どうやら日本を代表する神様は大国主命(大黒・大国さん)ということになるのですね。

神話時代のことですからいろんな解釈があって混乱しますが、大和政権は広く合議制で始められたそうですから、出雲や吉備や伊勢や北九州の豪族が寄り集まって日本を造っていったのでしょう。

その出雲大社は今年から5年間かけて平成の遷宮を行います、そのために本殿の方には入れません、ここでは出雲大社が神々の中心であったことを実感できる画像をお見せしましょう、これは神魂神社のところでご紹介した「宇豆柱」が大社の地下から出土した想像を絶する大きさです。

それは、2000年4月出雲大社の地下室工事に先駆けた発掘調査で11〜13世紀(平安〜鎌倉時代)の地層から、一本の柱の直径が1.35m、これを3本組み合わせて合計で直径が3mに達する巨大な柱が出土しました、これはかっての本殿の宇豆柱ですが、今も続く出雲国造家に伝わる図面と符合し「伝承」が立証されたのです。他にもこの柱を束ねた金具や柱群が発掘され、かっての本殿が他に例のない横長の長方形であったことも分かりました。その後、この柱の放射性炭素成分量測定によって鎌倉時代初期西暦1230年前後に伐採された杉であることが分かったのです、これは記録をたどって1248年造営時の本殿であることまでわかりました。

平安時代の「口遊(くちずさみ)」に「雲大、和二、京三」というのがあり、当時の建造物の大きい順を言っており、一は出雲大社、二は奈良の大仏殿、三は平安京大極殿となります、出雲大社本殿は高さ48m(あるいは97m)といわれ、東大寺が46mでしたからそれをしのいでいたとは驚きです。

古代から、これだけ巨大な神殿を必要とした大国主命は神話のみならず、日本という国家にとって大変重要な存在であったといえるのでしょう。



鎌倉時代建造の出雲大社本殿の3本の杉を束ねた宇豆柱(島根県立古代出雲歴史博物館の玄関ロビィにて)



出雲大社神楽殿の大注連縄・重量5トン



だいこくさんに願いごと


次回コダイ・ウォーキングは9月から始めます

(参考文献:PHP文庫・関祐二「出雲抹殺の謎}、武光誠「古代日本誕生の謎」、岩波文庫・直木孝次郎
「奈良」、川崎庸之「天武天皇」、藤間生大「倭の五王」など)


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