番外編コダイ・ウォーキング   
            
 古代の吉備路を尋ねる

岡山県にその規模が日本の第4位にあたる造山(つくりやま)古墳があることを知ったときから、私は吉備地方に関心を寄せるようになりました。
吉備と大和の関係はどんなものであったのか、それは歴史書をひもとけばわかることですが、実際のところは自分の目で確かめなくては古代を探るウォーキングにはなりません。
そこで08年1月に二日間をかけて吉備路ウォーキングをしてきました、結果としてこの地方にも旧石器時代から連綿と人々の営みがあり、やがて弥生期には大きな権力をもつ国が誕生し、巨大古墳が造られて行きます。それは古代日本の姿を物語っており、近年歴史でも考古学的にも大きな進歩を生みつつあることが分かりました、ここにはいつものように駆け足の吉備路ですが、訪ねた順に少しご紹介してゆきましょう。


なお吉備津彦神社〜総社古墳群をつなぐ約35Kmを自転車専用道路が整備されています、お楽しみください。




陶棺の復元・美咲町(美作)出土・岡山県古代吉備文化財センターにて


古代吉備の成り立ち
約5万年前の旧石器時代、瀬戸内海は海ではなく平原であり人々は狩猟・採集の生活を営んでいましたが、約1万年前には海が生まれ人々は沖積平野へと移ってゆき、土器や弓矢が造られて縄文時代となり、約3千年前縄文後期には稲作が普及していたことが分かりました。

約2300年前には本格的な農業が始まり、銅・鉄などが朝鮮半島から伝えられて生産も始められ、弥生時代へと移ってゆきますが、この地には下道(しもつみち)・上道・賀陽(かや)・三野・笠などの豪族たちがいて吉備氏と総称され吉備国を形成し、吉備津彦を共通の祖先としていました。

3世紀前半、卑弥呼の活躍した時代の吉備には窯業技術も伝わり、270年前後に作られた総社市の宮山古墳は大和朝廷と僻遠の地でありながら纏向(まきむく)型前方後円墳であり、その頃には大和と吉備が互いの影響下にあったことが分かっています。

5世紀初めには吉備氏の統率の下に造山・作山古墳などが造られ、製塩と鉄器の生産が始まり、大和王朝と肩を並べるまでに大きく飛躍するのですが、「日本書紀」が記すように5世紀末に吉備氏は倭王・武(雄略天皇)と戦いを始めて破れ、吉備地方の古墳は小型化してゆきます。

飛鳥時代には大和が日本を統一し、吉備地方も備前(美作)・備中・備後に分離し、仏教伝来とともに寺院の建立が始まり平城京が生まれ、岡山にも国分寺・国文尼寺が造られます、この辺までが古代吉備の歴史だろうと思います。

吉備津神社と吉備津彦神社
JR総社駅の北方8Kmの辺りに「鬼ノ城」という朝鮮式山城があり、ここには伝説があって、大和王朝が吉備津彦を派遣して、温羅(うら)を首領とする渡来人一族を平定して、吉備文化の基礎をつくった故事から、桃太郎伝説のモデルとなり、いまなお岡山のお土産は「きびだんご」という人も多いのではないでしょうか。
吉備津彦は吉備国の大祖神として5世紀前半に創建の吉備津神社で崇められ、大化の改新以後に吉備国が分離してから備前の守り神として一宮・吉備津彦神社が建てられました。二つの社は距離にして2Kmも離れていませんが、いずれも堂々とした大社で、出雲大社に並ぶ、吉備国の名にふさわしいところでした。
残念ながら国宝の吉備津神社の本殿と拝殿は修復中で、その概容すらうかがえませんでしたが、両社の一端をご覧ください。


社の立ち並ぶ吉備津彦神社


吉備津神社



吉備津造りの本殿と拝殿(国宝・1425年再建)パンフレットよりスキャン


本殿より南随神門(重文)を経て末社をつなぐ360mの廻廊


















廻廊と吉備の酒々

岡山県古代吉備文化財センター
前記の神社とこのセンターはJR吉備線の一宮駅と吉備津駅そして山陽新幹線に挟まれた丘陵地にあり、中山茶臼山古墳(古墳時代前期の3世紀後半〜4世紀頃築造・全長は約120m・宮内庁は吉備津彦陵に比定)・尾上車山古墳そして黒住教本部(江戸時代1814年に開かれた、同じ江戸末期の天理教・金光教と共に日本三大新宗教の一つ)などが点在します。


縄文前期・岡山市出土


縄文後期(倉敷市出土)とバックは貝塚の断層写真



















現代の備前焼のルーツ





































  左:足のある蛇体とは? 右:刺青をしてアクセサリーをつけて女性は美しく…ね

吉備の古墳群 ここをクリック

吉備の古墳群は著名なものだけで18ヵ所を数えられますが、残念なことにその多くが古代からの広葉樹・落葉樹が伐採され二次林・三次林になっており、近畿地方に比べて古墳なのか丘なのか区別がつきにくい状況になっています。
ここでは時間の許す範囲で廻った古墳を別のページにまとめました。

備中国分寺と国分尼寺
741年平城京時代、国状の不安を鎮撫するために、聖武天皇によって全国に建てられた国分寺で、現存するのは67カ寺、尼寺は15カ寺にのぼります。国分寺の正式名は「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」、総本山はご承知の東大寺と法華寺です。
岡山県には備前(赤磐市)・美作(津山市)と総社市にありますが備中国分尼寺は礎石のみ残っています、備中国分寺はその名で今も現存していますが、中世に廃寺になっていたものを江戸時代後期1821年から20数年かけて再建されたもので、宗派は真言宗になっています。
特に備中国分寺は岡山県・吉備路の観光のシンボルとして存在し、どこから眺めても五重塔が素晴らしい景観をもたらしてくれます。

夕映えにそびえる五重塔




















左:五重塔の三階までは総ケヤキ、四・五層と心柱は松材

上:現在の境内

下:いつまでも心に残った美しい姿









よく整備された備中国分尼寺跡



1267年前・金堂の礎石


その後の吉備

吉備一族の中心である下道(しもつ)家より唐への留学生として真備(まきび)が717年四隻の船に557人が乗り込み難波港より出航しました。






吉備真備を祀る吉備寺山門


簡単ですが吉備王国を訪ねました、地方で残す国々は出雲と北九州です、大和政権より古くから成立していた国々を、番外編としてご紹介できる日を楽しみにしていますBye


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