第5(21)回 コダイ・ウォーキング レポート


山の辺の道−2


山の辺の道は大和川の支流初瀬川沿いの海石榴市(つばいち)を発し、三輪山の麓から奈良盆地の山並みの西麓を北上し、天理市の石上(いそのかみ)神社を通って、藤原京時代の上津道に合し、平城京の東端をかすめて木津川へ達する古代からの道を言います。
今年の2月には桜井市の海石榴市(つばいち)から箸墓までを歩きました、今回は天理市の石上神宮(いそのかみ)まで、初夏の陽光と心地よい若葉風に吹かれながら、途中の長岳寺でいろんな花を楽しむことができました。
                 
  山の辺の道概略図  


 神籬(ひもろぎ)より渋谷向山陵(景行天皇陵)を見る















  東海自然歩道を行くとこんな看板が見えて
  きました、神籬とはそもそも何なのか分か
  らないままに、そばへ行ってみると石が大
  事そうに祀られていました




神籬(ひもろぎ)とは:
古来、日本人は自然の山や岩・木・滝・海などに神が宿っているとして信仰の対象としてきました。古代の神道では神社を建てて社殿の中に神を祭るのではなく、祭の時はその時々に神を招いてとり行うために、巨木や岩などの周囲に玉垣をめぐらして注連縄で囲うことで神聖を保ち、その場所を神籬と呼びました。その後仏教の影響で次第に神社が建てられ、祭りも社殿で行われるようになったようです。

(参考:フリー百科事典「ウイキペデイア」)




薫風を受けながら:1時間歩いたところに藤棚ときれいなトイレがありました





















         ↑ 櫛山古墳より行燈山古墳

         → 自生の藤の花とつつじ


行燈山古墳は、第10代崇神天皇陵とされていますが、この古墳は4世紀半ばに造られた前期古墳を代表する前方後円墳で全長240m、崇神は実在した王らしいですが、亡くなったのが西暦258年、古墳とは1世紀のずれがあります。
少し南にある箸墓は卑弥呼(248年没)の陵墓とすると、崇神は同時代の人で卑弥呼の弟王だったのではないかという説もあります。
なお、櫛山古墳は古墳前期の後半に属し、墳形が双方中円墳という特異な形で、香川・岡山県に同例があるそうです。



5月を彩る花々
(サムネイル:タテの画面はもう一度クリックするとさらに大画面が出ます)


みかん

野バラ

矢車草



うつぎ(五月梅)


長 岳 寺

824年に淳和天皇の勅願により弘法大師によって開かれましたが、戦国時代に焼失し、1602年徳川家康によって復興されました。本尊は日本最初の玉眼を持った阿弥陀三尊像で藤原末期の作(重文)、関西花の寺第19番でつつじ・かきつばたが特に有名ですが、行ったときにはつつじが終わかけて、かきつばたが満開でした。

創建当時唯一残る「鐘楼門」(重文)



この寺は大和(おおやまと)神社の神宮寺として建てられたので「しめなわ」があります




長岳寺庭園(上左は本堂)





海 宇(カラー)


長岳寺あれこれ(サムネイル)


池より本堂



古い石仏

麗しい鐘の音

素麺と昼食

つつじ


黒塚古墳

3世紀末〜4世紀前半、全長130mの前方後円墳、1999年の発掘調査で三角縁(ぶち)神獣鏡が過去最多の33枚が出土して有名になりました、この鏡は卑弥呼が279年に中国の魏国より与えられた百枚の鏡の一部です。邪馬台国畿内説の有力な根拠となり、古代国家成立の課程を解明する超一級の資料とされています。
古墳は公園化され、近くに資料館が設けられ鏡のレプリカ、横穴式の石室の復元などが見られます。
























↑ 壕がとりまいています


→ 発掘当初の石室内部


↓ 三角縁神獣鏡








衾田(ふすまだ)陵
現在、宮内庁によって衾田陵には大和古墳群中最大の西殿塚古墳(全長234m)が当てられています、この決定は1882年(明15)頃のものですが、この古墳は考古学的知識では古墳時代前期の箸墓古墳に続く、3世紀末〜4世紀初めの前方後円墳であり、とても6世紀前半の継体天皇の皇后・手白香皇女の墓とは言えず、指定は間違っています、これまでも度々、時代と合わない指定があることを指摘しています、宮内庁は一つ間違いを訂正すればことごとく現・天皇家と関係のない古墳が多くなることを恐れているのではないでしょうか。歴史をゆがめているとしか言いようがありません。
この古墳には時間の関係で行けませんでしたが、山の麓・丘陵地に築造された典型的な古墳です。



丘陵地に築造の衾田陵を望む



大和(おおやまと)神社
祭神の大和大国魂は天照大神と並ぶ神威があるそうで、崇神天皇の代に疫病を退散させるために、宮中から現在地へ移されたそうです。広大な神域は深閑として古社らしい雰囲気はありますが、戦艦大和がこの神社から命名されたというに及んで、しらけた気持ちになりました。
崇神天皇とは、古事記による没年はAC318年か258年、日本書紀による神武天皇が畿内で即位後は畿内周辺の狭い領域のことしか出てこなく、崇神天皇の代になって初めて、日本の広範囲の出来事の記述が出てくることから、神武天皇から開化天皇までは畿内の地方政権の域を出ず、崇神天皇の代になって初めて日本全国規模の政権になったのではと考える説もあり、また、欠史八代の葛城王朝から崇神天皇に始まる三輪王朝への王朝交代説もあります。いずれの説も崇神天皇を実在の人物としている点では共通しています。
(参考:フリー百科事典「ウイキペデイア」・Googleなど)





石上(いそのかみ)神宮

現在の天理市東方・布留山の西北麓にあります、飛鳥時代に軍事氏族だった物部氏が祭祀し、大和政権の武器庫としての役割も考えられています。
4世紀半ばに造られて百済の肖古王より倭王の讃(応神または履中)に贈られた七枝刀・拝殿などが国宝に指定されていますが宝物殿などはなく、蘇我氏に打たれて滅亡した一族を物語っているようでした。



拝 殿(国宝)鎌倉1300年頃建築、内山永久寺(廃寺)より1914年に移築




































                   昼なお暗い神宮門前                     蹴爪を上げて攻撃態勢の東天紅鶏



第1回からご参加・同窓生・檀家・飛び入りの方等とご一緒


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