第4(20)コダイ・ウォーキングレポート

佐紀楯列(たたなみ)古墳群より三笠山


佐紀楯列古墳群は三輪山麓一帯、葛城地方北部の馬見丘陵一帯と並ぶ大古墳群です、最も北に全長278mの神功(仲哀天皇の)皇后陵、南には垂仁天皇陵、三笠山(若草山)頂上には鶯塚古墳などいずれも前方後円墳、古墳時代前期から中期まで(4世紀後半から5世紀中葉)の築造です。
私たち一行8人は近鉄京都線の「平城」駅から東へと道をとり、高曇りの空の下、桜をはじめとする花々に迎えられて楽しいウォーキングとなりました。


出発:右は成務天皇・左は日葉酢媛陵



日葉酢媛陵の壕


佐紀楯列古墳群は誰が造ったのか
第2回ウォーキングレポート山之辺の道−1に書いたように、三輪山麓の古墳群が造られた
3〜4世紀には三輪山地域を基盤とする豪族たちが大和国を造っていましたが、佐紀楯列古墳群はそれより新しい4〜5世紀前半に造営されました、今の天皇につながる河内の豪族が大和の地に入ってきたのは5世紀中葉(457年雄略天皇)であり、河内の天皇族が造った古市・百舌鳥(仁徳・応神陵など)の古墳群より時代が古いですから、神功皇后・日葉酢媛・成務天皇陵などが、その時代に造られたことにはなりません。
では、誰が造ったかということは字のない時代ですから歴史を語るものは残されておらず、語り継がれてきたことだけですが、語り継ぐという事は自分に都合よく脚色されていってしまいます。
ただ云えるのは、この地には春日・和珥(わに)・小野・粟田氏などの有力豪族が住んでおり、この一族から応神〜敏達天皇までの7天皇に9人の后妃を入れていますから、彼らがこれらの古墳群の主であり、三輪山麓の大和王朝から春日・和珥を経て天皇族が大和王朝に移行したものと思われます。(参考:直木孝次郎著「奈良」岩波文庫)




































               磐之媛陵                                   こなべ古墳

磐之媛陵の話
「葛城古道」に書いたように、磐之媛は仁徳天皇の皇后になった葛城襲津彦(そつひこ)の娘ですが、なぜ離れ離れに葬られているのかということに「古事記」「日本書紀」の伝えるところでは、皇后が紀の国へ出かけている留守に天皇が八田若郎女(やたのわかいらつめ)を難波宮に呼び寄せて寵愛したので、怒った皇后はそれ以後京都府の筒木(現・綴喜郡)に入って天皇の和解に応じず、その後その地で死んでしまいます。
まさに、古代における女権の高さを、あとで出てくる聖武天皇と光明皇后の活躍ぶりからも物語っていますね。

不 退 寺


本堂:鎌倉後期・重要文化財
この寺には2005年11月にブッダ・ウォーキングで行きましたが、花の盛りの様子を見るべく立ち寄りました、奈良時代平城天皇の余生所を孫の在原業平が(847年)寺にしました、本尊の木造聖観音立像は藤原時代作で重文、本堂は室町時代の再建、花の寺としても知られ、椿やれんぎょうが境内を彩りますが少し時節が遅かったようです。秋の不退寺と比べてみるのも面白いです。

南大門:鎌倉末期(1317年)建造・重文

左:多宝塔:鎌倉中期・重文
中:咲き残っていた椿
下:狭い境内でも楽しいのは昼食
  




















興 福 院(こんぶいん)
佐保川の堤の桜並木を東に進むと北の方に本堂の優美な屋根が見えてきます、寺は奈良時代には近鉄尼ヶ辻駅付近にありましたが、1665年徳川時代に現在地に移転し、尼寺として再興されました。小堀遠州の作庭で美しい尼寺として知られていますが、この日は寺の法事があり予約ができなかったので、門前だけで終わりました。



































本 堂
                                    佐保川の堤
佐保川の堤、下長屋橋付近に明治31年に名古屋から奈良まで関西鉄道が開通し「大仏駅」という名前でした、多くの大仏詣ででにぎわいましたが、すぐに現在の「JR奈良」まで延長されたので、その記念として小公園が残されています。この車輪は当時の蒸気機関車の動輪ですが可愛い列車だったようですね。

右は聖武天皇陵の写真ですが、同じ御陵内に奥さんの光明皇后陵も並んであります、聖武天皇(701〜756年)は奈良時代に全国に国分寺をそして東大寺を建立した仏教に篤く帰依した人でした、皇后の光明子(701〜760年)は藤原不比等の娘、今の法華寺に皇后宮職を創立し、社会福祉に努める傍ら、正倉院や興福寺五重塔・新薬師寺を建立するなど、今もって尊崇深い女性です。























































いよいよ東大寺までたどり着きました、西から来て入るのは国宝の転害門(てがいもん)、まっすぐ進むと正倉院です、鎌倉時代に修復されたとはいえ、1180年平重衡、1567年三好・松永の戦火にもこの門だけは焼かれずに天平の姿をとどめています、東大寺の完成は758年、その柱をとっくと眺めてください。現在は野良猫の爪とぎの被害を受けているそうです。

下は大仏池より東大寺大仏殿、秋の写真と比べてください。




三笠山(若草山)鶯塚古墳


古墳前期・4世紀後半の造営、仁徳天皇の皇后磐之媛陵は、宮内庁によって前記のように比定されていますが、元々ヒシャゲ古墳は「平城(なら)天皇陵」とされていたようです。そして磐之媛陵=平城坂上墓(ならのさかのうえのはか)は「大和若艸山之頂字鶯陵」と記録され、若草山の山頂にある前方後円墳のことだといわれます。そのどちらも信じられませんが、若草山は元来三笠山と呼ばれ草原の山が三つ重なっており、その頂上まで鹿がやってきます、景色は360度見渡せるとっても美しいところです。
清少納言が「枕草子」第17段で「みささぎは うぐひすの みささぎ。かしはぎのみささぎ。あめのみささぎ。 」と書いている「うぐいすのみささぎ」がこことされています。
私たちは、今日のウオークで疲れた人たちを若草山の麓で待ってもらって古墳へと急ぎました。



















もうすぐ古墳                        鶯塚古墳



来し方の古墳群がかすんで見えています



下山道より三月堂を経て大仏殿を見る



奈良公園

奈良公園でのんびり組と再会し、いつもどおりに行きつけの店でヒリヒリの喉を潤し反省会を開きました、いつものことながら反省事項はなく、わいわいがやがやと楽しい時間をすごしました。ウオークの後は絶対に反省会ですね!
来月は5月16日(水)に「山之辺の道−2」を予定しています、一番の見所は長岳寺のつつじでしょうか、詳しいことは楽しめるところを探して4月下旬に発表します、楽しい一日をご期待くださいBye


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