第3(19)コダイ・ウォーキングレポート

葛城古道を行く


金剛・葛城そして二上山をみるとき、はるかな郷愁を身に覚えますが、これは私たちの祖先がそこに暮らしていたことを知るがゆえに、起こってくる感情なのでしょう。
今回は3月18日(日)に新しいメンバー4人を加えて、いつも頂上を仰ぎながら山懐を歩いてきました、暑くもなく寒くもなく、照ったり雪が舞ったり絶好のウォーキング日和で楽しい一日でした。
ちょっと残念だったのは、いつものことながら道を取り違えて鴨氏の故里である高鴨神社へ行けず、船宿寺に変更したことですが、このお寺から眺める葛城古道とその嶺々は、はるか歩いてきた道を一望にして、よい思い出になりました。


葛城古道全図(「るるぶ」奈良・大和路よりコピー)

葛城古道とは

奈良県と大阪府をへだてる葛城山(959.2m)と金剛山(1125m)の東側の麓を縫って南北に連なる古くからの道を云います、この辺は5世紀に栄えた豪族・葛城氏の本拠地で、4世紀末から5世紀にかけて葛城襲津彦(そつひこ)は朝鮮との交渉に活動したことが古事記・日本書紀に出ています。

彼の娘・磐之媛(いわのひめ)が河内王朝の仁徳天皇(当時天皇の呼称はなかったけれども、一応天皇を使います)の皇后となり、その子たちが履中(*讃)・反正(*珍)・允恭(*済)天皇となり、允恭の子が安康(*興)・雄略天皇(*武、その子が清寧天皇)、また襲津彦の子・葦田宿禰の娘が履中天皇の皇后となって、その孫が仁賢・顕宗天皇になるなど5世紀に絶大な力を持っていました、その後天皇家の跡目争いで力を失ったものの6世紀後半には591年新羅討伐の大将軍になり、用明天皇の后が出るなど再び葛城氏の名前が歴史に現れてきます。

ともあれ、河内王朝の天皇家と葛城氏が葛城川から大和川へ経て水運で大阪平野に、葛城・金剛のはざ間を通る陸路(水越峠)を介して協調することで、4世紀には成立していた三輪山麓を中心にした倭国の大和王朝と対抗し後にはその権力を奪ってしまうのです。この大和王朝の前には葛城王朝が栄えていたという伝説も存在します。

(*印の名前は中国の外交史「宋書」「梁書」などに記された倭国の王からの貢献と任官の記事中の王の名前、この中国史は正確で、古事記・日本書紀(以下「記紀」と記す)の5世紀(雄略天皇以前)までの記事は信用できないものと最近の歴史学の通説になっているようです。
各天皇の中国名にも諸説あるようですが、ここには「倭の五王」藤間生大著 岩波新書 1970年版 藤間説に従っています)


葛城山麓より大和三山を望む

葛城の神々

「つぎふねや 山代川を 宮のぼり わがのぼれば あおによし 奈良をすぎ をだて 大和をすぎ わが身がほし国は
葛城高宮 吾家のあたり」「記紀」によれば磐之媛が難波より山代川(淀川・木津川)遡って平城山を越えて、故郷を望んで詠んだ歌となっています、もちろん実作ではなく民間にうたわれていた歌を編者が利用したものだそうですが、河内の王朝は大和へ入る道は北の方から入る以外に道はなかったのですね。

つまりメインルートの大和川は倭国すなわち大和王朝が独占していました、かって氏族ごとに国を形成していた時代には
他の国に入るためにはその国の氏神さまを懇ろに祀らなければならない習慣で、無視して他国に入ることは侵略とみなされていたのでしょう。

葛城川に沿って祭られた神様は、世界に共通して蛇神さま・雷神さまでした、そしてこの神々は託宣を下す神様でした、
日本人は神様が大好きですから、いまでも結婚式は大安吉日とか地鎮祭とか、江戸時代までは旅行に出る日も神様に決めてもらっていたほどですから、古代には生活百般すべて神様が頼りだったのですね、神様のお考えを下す霊媒には女性が多いのですが、倭国の女王卑弥呼もそのような人だったのでしょう。

そして神様はたたることでも知られており、他国へ峠を越えるところには道祖神さまが祀られおり、旅の道中の安全をお願いし感謝をささげることは、日本の風習として今もなお残っています、では葛城古道のいろんな神様にお祈りをささげて歩いてゆきましょう。


すりへってしまった六地蔵尊、いよいよここから出発です


奈良時代の行基さんが開き、弘法大師が中興の九品寺(くぼんじ)へお参り



































    「番水の時計」灌漑用水を仲良く振り分けるための時計台          「九品寺の石仏」南北朝の戦いで亡くなった南朝兵を弔っています



































「我が身がほし葛城高丘」葛城氏の跡、この天皇は実在しないでしょう          葛城の里を見下ろしています


葛城坐一言主(かつらぎにいますひとことぬし)神社

この地の大神さまで、「古事記」によると雄略天皇が葛城山中で出会ったとき天皇に先に名乗らせた上「我は悪いことも一言、良いことも一言で云う神ぞ」といって、ともに狩猟を楽しんだとありますが、葛城氏が天皇の先祖・河内の王と肩を並べる力があったことを物語っています。その後に作られた「日本書紀」ではその立場がまったく逆転しているところに、天皇氏の王権が大きくなったことが分かります。現在では一言の願いなら何でもかなえてくれる「いちごんさん」として親しまれているところも面白いですね。

一言主神社本殿



境内にある1200年を経た大銀杏
































左:気根をたらして…、拝めば母乳が良く出るとか

右:左方、梅の木の下に万葉仮名の句碑があります





葛城襲津彦の御陵と伝えられる宮山古墳(室の大墓)
全長238m最高25m古墳中期(5世紀前半)、バスの時間都合で近くへは行けませんでした


橋 本 院
行基さんが開いた高天寺の後身で、背後に広がる台地は天照大神が治めた高天原と伝えられますが、高天原はあっちこっちにありますね、でもここから眺める吉野・大峰山そして奈良盆地の雄大な景観は、古代の世界への想像を駆り立ててくれます。

















梅の香りに囲まれて昼ごはん      橋本院の庭園から葛城山             



初めて見る「みつまた」の花・枝が三つに分かれています、樹皮が和紙の原料


高天彦神社
高天原の奥にひっそりと葛城氏の祖神・高皇産霊(たかみむすび)の神が3世紀頃からしずもっておられます。
ここにあった御所ライオンズクラブの案内板には
「…葛城族は大和王朝に先行する葛城王朝を築き、亡びた後も平群(へぐり)・巨勢(こせ)・蘇我の豪族として栄えた…」と書いてありました。


高天彦神社



高天原より吉野・大峰の山並みを望む


船 宿 寺

ここも行基さんの開基といわれる古刹、関西花の寺22番、つつじやさつきの名所とのことで参道や境内の木々がきれいに刈り込まれていました。道を間違ったおかげで豪族・鴨氏の高鴨神社へ行けませんでしたが、ここから来し方・葛城金剛を眺めていると、来てよかったという思いが胸いっぱいに膨らみました。

船宿寺山門



桜のつぼみとバックは金剛山


次回のコダイ・ウォーキングは4月11日(水)に奈良市近郊・佐紀楯列(さきたたなみ)の古墳群と不退寺・興福院(こんぶいん)の桜・椿・れんぎょうなどのの花を訪ねたあと、若草山頂上の鶯塚古墳へと向かいます。詳しいことは月末に発表します。


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