コダイ・ウォーキング特別番外編


あおもり縄文まほろば展
大阪歴史博物館


青森県には国の特別史跡の三内丸山遺跡をはじめ是川遺跡、亀ヶ岡遺跡など縄文時代の各時期にわたる遺跡群が多くあります、県ではこれらを世界文化遺産に登録を目指していますが、今回2007年2月11日〜18日まで大阪歴史博物館で、県内に散在する博物館組織を挙げて、縄文時代の全容約700点を一堂に見学できるチャンスがありました、その間青森県の展示コーナーは殆ど空っぽ状態になるため、会期は8日間と短期でしたが、展示された数々の出土品はその芸術性の高さに驚くばかり、古代日本人を再認識することができました。
この展示会については「風来坊主の広場」でご紹介し、幾人かが行かれたようですがチャンスを失った方々に、主要な展示品をここにご紹介します。



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縄文時代とは(ウィキペディアフリー百科事典より抜粋・添削)


縄文時代の人々は、竪穴式住居に住み、弓矢での狩猟、貝塚に見られる漁労、植物の採集と調理、後には栽培など、多様な手段で糧を得た。保存と煮炊きに縄文式土器を用い、様々な用途に打製石器・磨製石器と骨角器をあて、丸木舟を用いた。人々の交流は広い範囲にわたり、時には環状列石、巨木工事のような大事業を起こした。

縄文人は、旧石器人を基調としつつ、旧石器時代末期に細石器文化を持って北方から日本列島に渡来した原モンゴロイドや南海から渡来したオーストロネシア語族、さらに中国の揚子江下流域から照葉樹林文化を携えて渡来した集団など幾派もの移住が重層して形成されたと考えられる。

 区分と主なできごと(青森県を含む)

草創期
約13000年前〜約10000年前
晩氷期の気候は、短期間に寒・暖がおこり、厳しい環境変化であった。小型の骨製U字型釣針、局部磨製石斧がつくられ、女性像を線刻した小礫がつくられる、呪術的なものか?槍・弓矢の製作・使用。狩猟とともに漁労が活発化し貝塚がつくられはじめる。縄文・撚糸文の尖底土器がつくられた。
早期
約1万〜6000年前
海水面高さ戻る。小型の土偶つくられる。数個の竪穴住居で一集落を構成する。組み合わせ式釣り針。網用の土錘・石錘。ヤス、銛。犬を人と一緒に埋葬する。屈葬。貝塚はこの時期の前半には、海が進入して出来た海岸地域につくられていた。人口2万100人。
前期
約6000年〜5000年前
この期を境に一気に増加し、形や機能も多様化し平底土器が一般化する。竪穴住居が広場を囲んで集落をつくる。気候温暖で栗・麻・ごぼう・瓢箪など植物の栽培が始まり、海面・気温上昇(縄文海進、海水面4〜5メートル高くなる)のため、現在の内陸部に貝塚つくられる。湖沼の発達により丸木船がつくられる。漁労活動開始。常緑照葉樹と落葉照葉樹。木器・土器・櫛などに漆を塗ることが始まる。環状列石がつくられる。土器は羽状縄文を施した繊維土器が盛んに作られる。耳飾り・勾玉・管玉などの装身具が交易用としても作られる。人口10万5500人。
中期
約5000年〜4000年前
立体的文様のある大型土器が流行する。集落の規模が大きくなる。海岸線ほぼ現在に近くなる。大型貝塚形成。石棒・土偶などの呪物が盛んにつくられる。石柱祭壇。抜歯の風習が始まる。気温低下始める。貝塚。26万1300人。
後期
約4000年〜3000年前
交易目的の漁労民発生。大型貝塚。製塩土器。製塩専業集団、塩媒介集団、塩消費集団。伸展葬。大湯環状列石(ストーンサークル)東北地方に集中。ウッドサークル(巨大木柱遺跡)。敷石住居址。内陸地域にも貝塚が出来ていた。村の一角に土器塚が出来る。人口16万300人。
晩期
約3000年〜2300年前
漁労の網。東北の太平洋側に銛漁開花。木製の太刀。頭部外科手術か?夜臼式土器。北九州・近畿でも縄文水田。気温2度前後低下。海面も低下。漁労活動壊滅的打撃受ける。人口7万5800人。

 
青森県内の遺跡年表(三内丸山遺跡パンフレットより)

さあ、青森の遺跡をまわりましょう(年代順に編集してあります)
T:土偶
土偶は人間ないしは精霊を模して作られたと考えられる土製品で、日本では縄文時代に製作され、古墳時代に製作された埴輪とは区別されます。
世界的には新石器時代の農耕社会において乳房や臀部を誇張した女性像が多く、多産や豊饒を祈る地母神崇拝のための土製人形と通常は解釈されています。
縄文時代早期に出現し、弥生時代には全く作られなくなります。縄文式土器と同様、土偶も出土地域や年代によってさまざまな様式のものがあり、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の調査によれば、日本全国の出土総数は15000体ほど、出土分布は東日本に偏っており西日本での出土はまれとのことです。  
                      

「その他の土偶を見る」 (サムネイルです、画像をクリックしてください)


遮光器土偶:亀ヶ岡遺跡

U:土器類
窯を使わないやや低温(600℃〜800℃)の酸化焼成のため、赤褐色系で比較的軟質。胎土は粗く、やや厚手、やや大型のものが多いが、用途や時期によっては薄手、小形品、精巧品も作られています。基本的な器形はバケツ状の深鉢形、時期が新しくなる程、多様な形態が登場し、後期以降の精巧な注口土器など芸術性の高いものがたくさんあります。
                                        

その他の土器類を見る  (サムネイルです、画像をクリックしてください)



晩期3〜2600年前・八戸市是川遺跡

V:縄文人の暮らし
三内丸山遺跡は縄文前期から中期・5500〜4000年前の大集落跡、約1000年前の平安時代の集落跡、約400年前の城館跡の一部などが見つかっています。
特に縄文時代の大集落跡からは、多くの竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、掘建柱建物跡、大量のゴミ捨て場(泥炭層)、大規模な盛土、大人そして子供の墓、土器作りのための粘土採掘穴などがありました。
ゴミ捨て場の谷は水分が多く空気がさえぎられていたおかげで土器・石器の他に、通常は残らない木製品・漆器・動物や魚の骨・ウロコ・植物の種や木の実・寄生虫の卵などが良好な状態で残っており、当時の自然環境や食生活を具体的に知ることができました。
さらに、ヒスイや琥珀・黒曜石は遠方との交易を、漆器は専門的な技術者がいたことを物語っています。
この貴重な遺跡は2000年に国の特別史跡になり、2003年には出土品1958点が重要文化財に指定されました、県では縄文時代の村を体験できるように下の写真のように公園として整備が進んでいます。

                                         
                                           三内丸山遺跡

縄文人の暮らしを見る


三内丸山遺跡の植生の移り変わり

青森の縄文時代はいかがでしたか?

三内丸山遺跡に代表される出土品の質の高さには圧倒される思いをされた方もおられたことでしょう、これらを見ていると関西の遺跡の出土品が随分と簡素なことがよくわかります。
政治の中枢となりえることと生活の質とは関係がないことなんでしょうか、ここにはありませんが展示会にはモミも展示されていましたから、縄文時代に稲作も入ってきたことがわかります。
これは稲の原生地・中国雲南省からはるばると揚子江沿いに倭国まで文化がつながっていたことを証明しています。

現在は考古学の発達で古代が次々と解明されています、関西の古代をはばんでいるものは宮内庁の天皇陵(年代的にありえない古墳にまで天皇やその一族の名前をつけて立ち入ることができません)、歴史の解明には陵墓以外にありませんから、早急な開放をお願いしたいものですBye


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