第2(18)コダイ・ウォーキングレポート

山の辺の道−1


るるぶ情報版「奈良大和路」より転載

山の辺の道は大和川の支流初瀬川沿いの海石榴市(つばいち)を発し、三輪山の麓から奈良盆地の山並みの西麓を北上し、天理市の石上(いそのかみ)神社を通って、藤原京時代の上津道に合し、平城京の東端をかすめて木津川へ達する古代からの道を言います。

海石榴市の南を東西に走る街道は横大路と呼ばれ西は二上山の北と南を峠で越えて河内平野へと続き、東すれば墨坂峠を越えて榛原・伊賀から東国へと続く、古代から重要な道でした。

その基点の海石榴市は当時は最も豊かな市場であったと想像されます、雄略天皇の宮がその近く泊瀬(ハツセ・現桜井市・・三輪山の東南麓、初瀬川右岸)の朝倉にあったことも河内からようやく大和に進出し、彼らは478年に倭王武として中国の宋国へ朝貢してきたと「倭国伝」記されているように、5世紀後半の天皇族の在りし日の姿を、思い浮かべられるようです。

私たちはどんよりと曇った日和の下で、満開の梅に迎えられて海石榴市から山の辺の道へと歩き始めました、途中でコースの順番を間違えて逆戻りすることもありましたが、ようやく山容を霧の中から現した三輪山やホケノ古墳から見る大和のたたずまいなど、忘れられない古道ではありました。

これから3〜4度にわたって山の辺の道を歩きますが、必ずしも古代の年代順ではなく、その土地に花の名所があればその時節に訪れるようしてゆきます。
仏教伝来


ここ初瀬川(泊瀬とも)のほとりは古代大和王朝の中心地でした、大和川を遡ってきた船の終着地、外国からの使節が発着する都の外港でした。
「日本書紀」に書かれた、538年10月百済聖明王の仏教使節が上陸し、すぐ南方の磯城嶋(しきしま)金刺宮に向かったのも、608年8月3日遣隋使・小野妹子が隋使・裴世清を伴って帰国し飛鳥京に入るとき、飾り馬75頭をもって迎えられたのも、この港でした。正にここは日本文化を生み出す源流の地だったのです。今ではその面影はこの記念碑だけとなっています。



















海石榴市観音堂                                  金屋の石仏
海石榴市観音:十一面観音が祀られています、飛鳥時代にはこの辺りで歌垣が行われ、その夜は男女の交歓は自由であったといわれ、おおらかな性の時代が偲ばれます。

金屋の石仏:元は大神神社近くの平等寺にありましたが、明治の廃仏毀釈で寺とともに破壊されるところを、村人が移して守り伝えている釈迦如来と弥勒菩薩像、鎌倉あるいは天平末期の作といわれています。


金屋の石仏





















上:平等寺、聖徳太子創建といわれる古刹です、明治の廃仏毀釈ですべて灰燼に帰しましたが、1977年に再建されました。

右:「青嵐や 無一物中 無尽蔵」と仏教の無所有の心を表わした句ですが、作者が誰か私には読めません、教えてください。


日本最古の大神(おおみわ)神社

       

見えるお社は拝殿、ご神体は三輪山そのもの、自然崇拝の形が今に生きています。三輪山は大和を代表する山であり神でもあります。弥生時代には大和だけでなく出雲・吉備・北九州・尾張・毛野(茨城県霞ヶ浦)などに国が成立しており、徐々に勢力に優劣ができて、3世紀には邪馬台国の卑弥呼女王が大勢力を持ち、239年に中国の魏へ使いを送って朝貢していることは、「魏志倭人伝」の伝えるところです。
その後、大和王朝は大阪平野(河内・和泉)の豪族に取って代わられたというのが通説ですが、新しい勢力が天皇族と物部・大伴などの豪族であり、勢力は変わってもその土地の神のたたりを恐れて、連綿と三輪山を祀ってきたのですね。
                                       狭井(さい)神社








































大神神社の境内にあり、ご神体は狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわあらみたま)という怖ーい名前の厄除けの神様、ここの井戸の水はご神水として有名です。春以降になると井戸の周りの石垣の間には生卵がたくさん差し込まれます、これは三輪山の神の象徴である蛇に差し上げるものです。冬は冬眠中ですから卵は見かけませんでしたが、今年のように暖かいと出てこられるかもしれませんね。
玄賓庵



















                                                          楽しい昼餉のひととき

今から1100年前の平安時代初期・7世紀初頭に生涯清貧を貫かれた玄賓僧都が隠棲しておられたというところです、重文の不動明王があります。謡曲「三輪」の舞台として有名らしいですが、この方のことは鴨長明の「発心集」(現代語訳)に詳しく出ています。




















檜原神社と巻向川の上流を望む、いかにも神さびた情景です


ホケノ山古墳



















左:古墳の頂上から三輪山を望む 右:石室のあった位置、木棺と壷が出てきました・壷の年代測定3世紀後半の中


箸 墓


箸墓を巡る
3世紀後半〜4世紀の築造で全長272m・最高部22m、前方後円墳の中では最古の1つ、倭迹迹日百襲姫命(やまと ととひ ももそひめ)の墓だとか邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓ではないか、あるいは二人は同一人であるとか百家争鳴の有様です。この古墳とその北にある崇神天皇陵(240m)景行天皇陵(310m)の三つが4世紀のビッグ・スリーですが、この他にも100mを越える古墳が南北7Kmの間に集まっており、その副葬品がすばらしく、後漢時代の銅鏡などが出土しており4世紀には三輪山地域を基盤とする豪族たちが大和国を造っていたようです。1998年の毎日新聞から見てみましょう。

このような重要な考古学資料を、実在すると確定されない人物の陵墓として宮内庁はいたるところで指定し、学究の妨げになっています。


巨大前方後円墳のルーツは箸墓「周濠、外堤の存在証明」

平成10年9月11日毎日新聞掲載

 邪馬台国の女王、卑弥呼の墓とする説があり、最古の巨大前方後円墳とされる奈良県桜井市の箸墓古墳が、周濠と外堤に囲まれ、墳丘と外堤をつなぐ「渡り堤」も持っていたことが分かった。10日発表した同市教委によると、周濠や外堤、渡り堤は、後の大王墓(天皇陵)に代表される巨大前方後円墳にあり、その原形が箸墓古墳で既に整っていたことになる。「大和政権の権力の象徴」とされる前方後円墳のルーツだったことをうかがわせるもので、邪馬台国から大和政権へと続く古代国家成立の過程を考えるうえで重要な資料となる。
 同古墳は宮内庁が倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)墓として陵墓指定し、発掘調査はできない。今回は後円部に隣接する民家の建て替え工事に伴い、約170uを調査した。
 箸墓古墳では過去2回にわたって前方部付近の発掘調査が行われ、幅10m前後の周濠などが確認されており、今回の調査と合わせ、同市教委は前方後円の形に添って周濠や外堤が完全に巡らされていたと判断。箸墓より古いとされる纒向遺跡(桜井市)内にある全長100m級の古墳群には完全には備わっていないことなどから、同市教委は「景行天皇陵(渋谷向山古墳、天理市)など巨大前方後円墳のルーツが箸墓古墳であることが確認された」としている。
周濠の底などからは「布留0式」と呼ばれる土器が出土。製造年代は、卑弥呼の没年(248年ごろ)に近い3世紀半ばと見る研究者もいるが、同市教委は「土器が作られた時期に、古墳全体がまとめて築造されたのは間違いないが、土器の年代自体が未確定」とし、古墳の築造年代について具体的な言及はしなかった。
 確認、意義深い(都出比呂志・大阪大学教授(考古学)の話)
 祟神天皇陵(行燈山古墳、天理市)や景行天皇陵など後の巨大前方後円墳に見られる重要な要素が、古墳時代の最初の段階に既に備わっていたことが確認されたことは意義深い。最初の巨大前方後円墳として箸墓が造られたことが、大和政権の成立につながると考えてもいい。


 大神神社の大鳥居よりようやく晴れ間の出た三輪山を望む

箸墓から私たちは引き返して桜井市埋蔵文化センターへ行き、桜井市での石器時代からの出土品の数々を見学しました。
                 
           
                         「桜井市埋蔵文化センターへ入る」                                  
かくて、「山の辺の道」シリーズ−1を終わります、縄文から稲作の弥生となり、豊かになることで人々は勢力争いを始めます、古墳時代の巨大な陵墓はまさしく力の誇示にほかなりません。しかし人は必ず死んでしまいますから、そこには常にむなしい思いがしてなりません。歴史は繰り返すといわれますが、そこからわれわれは何を汲み取って、どう生きてゆくべきなのか、古代人は現代を見てどう思っているのでしょうか、ますます面白くなる古代への旅を続けましょうBye


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