第16回ブッダ・ウォーキングレポート


古市古墳群と古い寺々


大阪府の東南部、奈良県西部と接するところには古市古墳群といわれる6基もの巨大な前方後円墳をはじめとして123基もの古墳がいずれも5世紀に築かれていています。
この地方は渡来氏族の多く集まったところで、天平時代には氏族ごとに寺を建立し今もなお存続しています、今回は雨の中を古墳時代から天平時代を偲びながら歩いてきました。


日本の古墳群

日本における古墳群は4世紀に奈良県桜井市の飛鳥北方の三輪山を神として祭る豪族によるもので、いずれも前方後円墳の長径が100mを超えており、そのうち景行陵は310m箸墓は278m崇神陵は240mと4世紀のビッグ3を独占しており、これらの古墳群から出土する鏡は多く中国の後漢時代(西暦1世紀)のものを輸入されていることから、この地が大きな政治権力の中心として、大和・河内などの豪族を従える古代国家を形成していたと考えられています。

なお景行・崇神というのは天皇の名前ですが、日本に文字のなかった時代を語る「古事記」や「日本書紀」は信用できませんし、その頃「天皇」がいた筈もありません、天皇という名前が現れるのは7世紀以後のことですから、それまでは中国の(420〜479年までの晋朝を倒した)宋王朝の劉祐の歴史書「宋書」に倭(日本のこと)の五王が貢献したとありますが、これを後世になって履中・反正・允恭・安康・雄略天皇と称しているわけで、正確な記述となるのは漢字が日本語と結びついた欽明〜推古天皇以後のことです。

これらの古墳群は前期古墳群と言われていますが、その後5世紀になって新しい勢力が摂津・河内におこり彼らが三輪の豪族を打ち破って、大和朝を形成してゆき古市古墳群は彼らの象徴であったと考えられています。
その後、古墳や寺院の建設が国家管理となって、古墳造営が衰退するのは「大化の改新」後の646年孝徳天皇の時代からでした。

参考図書:いづれも岩波新書・川崎庸之著「天武天皇」、直木幸次郎著「奈良」、藤間生大著「倭の五王」


古墳の造営
藤井寺市立図書館:ここでは当時の人々が古墳を作り上げてゆく様子が、模型を通じてよくわかるように展示されています、その画像を数点見ていただいて古代の暮らしを偲んで下さい。





















土を盛り上げてゆきその周りを石で囲みます、下の写真は「修羅」に載せた大岩を運んでいるところです、古墳はピラミッド型で木は生えてないし、当時の船の大きさや住居の形が面白いですね。

「修羅」とは:1978年4月に藤井寺市道明寺の三ッ塚古墳の周濠を発掘調査していたときに濠底の地下水に漬かった状態でV字型の重量物運搬具シュラが発見されました、大シュラは8.75mH末口幅1.85mWアカガシ亜属の巨木、小シュラは6.24mH末口幅0.73mWクヌギで作られ、てこ棒はアカガシ製で6.24mL直径0.12mでした、

1500年ぶりに陽光にさらされ続けると変形やひび割れあるいは粉末状になるため、木質に含まれる水分を11〜14年かけてポリエチレングリコール(PEG)に置き換える作業がされ、小シュラは当館に、大シュラは大阪府近つ飛鳥博物館に重要文化財として展示されています。下の写真は当館の小シュラと大シュラの実物模型を写しています。

これらがいつ頃使われたかとなると、5世紀この三ッ塚古墳説と横穴式石室に巨石が使われだした7世紀説があるそうです。



















藤井寺市生涯学習センター・アイセルシュラホール:シュラと古代の船をモチーフにした外観がすばらしい当館の2階には歴史展示室があって、古墳からの出土品や埋葬施設の模型など興味深い展示品がおおくありました。



















アイセルシュラホール                          古代の船の埴輪
古代のよろい                           日本最大の水鳥の埴輪































そして古墳を見る:

雨にけぶる仲哀天皇陵(5世紀末・全長242m)
     
  最も小さいと思われる割塚古墳           駐車場の向こうの小山のような応神陵(5世紀前半・425m)



















葛井寺(ふじいでら)
河内の文化は飛鳥時代より奈良時代にかけて発展し、百済の王族「辰孫王」の子孫王氏一族の「葛井給子」が聖武天皇の仏教興隆によって創建しました。 
2Km四方の七堂伽藍の建立で金堂・講堂・東西両塔をそなえた薬師寺式の伽藍配置を整えていたそうです。古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺ともいう)の勅号を貰い、その落慶法要には天皇自ら行幸されたという。 
その聖武天皇が春日仏師・稽文会(けいもんえ)・稽首勲親子)に命じて十一面千手千眼観世音菩薩を彫らせ、725年3月18日に入仏開眼供養のため藤原朝臣房前卿を勅使に、行基菩薩を導師として勤められました。
現在は西国三十三ヶ所観音霊場の第5番、天平時代の本尊千手観音坐像(国宝)は毎月18日のみ開扇です。



葛井寺・近鉄「藤井寺駅」のすぐ近く、この門は豊臣秀頼寄進の四脚門(重文)


端正な境内

弥生時代の大阪湾は河内潟となってその半島の東岸に現在のJR環状線「森之宮」付近が位置していました、右下の地図で淀川と大和川に続く黒色の部分が現在の大阪平野の海岸線です、さらに詳しいことは「古代大阪を駆け足で見る」を覗いてみてください。




































野中寺(やちゅうじ)
徳太子と蘇我馬子の建立と伝えられ「中の太子」と呼ばれています。創建当時は野中寺独特の伽藍(がらん)配置の大寺院でした。現在では境内に塔跡や金堂跡などの飛鳥時代の伽藍の一部が残っており国指定の史跡になっています。白鳳期の弥勒菩薩像(重文)鎌倉期の地蔵菩薩像(重文)のほか、ヒチンジョ池西古墳石棺、お染・久松の墓などがあります。


山門より境内を見る

 金堂跡の礎石                          ヒチンジョ池西古墳石棺



















1950年(昭和25)国宝の指定が全面的に改められました


西淋寺

古市の古い家並の狭い道をたどり西淋寺に着きます、この寺は昔、応神天皇に仕えた王仁文学博士の後裔、河内の船氏の造営になり、度々の兵火に遇いようやく再建されました。
「船氏墓誌、国宝の瑠璃碗共に、この寺の宝物はどんな事情か知りませんが今はありません。寺の門の左側に五重塔の心礎があり、石の重さなんと28トンもあります。
この石はここへ戻るまで水利記念碑の台石として石川左岸堤防にあったそうです、この石の隣りに五輪塔五基があります、この塔も高屋城の土塁下より見つかり復元されたそうで、中央の大きいのは西大寺叡尊(1201〜90年・西大寺中興の祖)の墓だそうです。



欽明・桓武天皇勅願の碑が立つ山門

五重塔の芯礎石                            五輪塔と本堂

















 
道明寺

もと土師(はじ)寺といい土師氏の氏寺として7世紀に七堂伽藍を建立、土師氏は埴輪や陵墓造営に従事し、奈良市に住むようになって菅原姓を名のり平安時代に菅原道真がでました。
戦国時代に入り、高屋の兵乱に当寺も焼失しましたが、織田信長、豊臣秀吉、徳川代々の将軍家等の屁護によって復興されてゆきました。
明治の神仏分離まで道明寺天満宮と一体でしたが、現在は平安時代からの尼寺として静かです。本尊は道真が彫ったといわれる木造十一面観音立像(国宝・毎月18・25日開扇)



箒の目も清々しい境内

ちょっと変わった山門                         端正な本堂(1919・大正8年建造)



















尼寺にふさわしい観音石像


はや来る年の準備・道明寺天満宮(12月13日)


こうして雨の中を古墳時代より飛鳥にかけて、ビチョビチョと歩いてきましたが、藤井寺市立図書館やアイセルシュラホールで見る古墳時代の展示は大変参考になり、その古墳を目の当たりにした心楽しいウォーキングになりました。

12月23日から1月21日まで大阪府和泉市の府立弥生文化博物館では「発掘された日本列島2006−新発見考古速報展」が開催、全国の48遺跡から730点が展示されます。
また、大阪府南河内郡の府立近つ飛鳥博物館では12月23日から2月12日まで「河内湖周辺に定着した渡来人」という地域展が開かれます。

これらの展示を見ることでいっそう古代への理解が深まることでしょう、ブッダ・ウォーキングの一環として来年にこれらを訪問して、皆さんにご紹介したいと思っています。
年の瀬も押し寄せてまいりました、どうぞ良いお年をお迎えください。    12月22日       風来坊主


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