第14回ブッダ・ウォーキングレポート


比叡山 延暦寺


10月下旬には飛鳥時代を一飛びして平安時代の比叡山延暦寺へ行きました、そのときの多くの写真はデジカメの設定不良のため使いものにならず、11月初旬に再撮影に行ってきました。

延暦寺は良くも悪くも日本仏教の揺り籠で、そこからあらゆる宗派が巣立ってゆきました、私のブッダ・ウオーキングの旅は、最澄(767~822年)の天台宗と空海(774~835年)の真言宗をもって終わります、その後の日本仏教は釈迦の教えを逸脱しつづけながらも今もなお生きつづけているからです。

このホームページでは現在約50ヶ寺を歩いていますが、今しばらく日本仏教の生まれた時代の寺々を訪ねるつもりです、これから徐々に遠くなりますので毎月定期的には行けなくなりそうです、しかし奈良時代までのお寺はくまなく巡るつもりですから、これからもご覧くだされば幸いです。

延暦寺総本堂・根本中堂(国宝)

788年最澄が創建、この建物は1642年徳川家光が再建、本尊は最澄作の薬師如来(秘仏)本尊前には
創建以来不滅の法灯が1200年護られている


最澄と天台宗
767~822年、日本天台宗の開創者、12歳で近江国分寺へ入り14歳で得度、19歳に東大寺で受戒して公式の僧(* 参照)となり、故郷に帰って比叡山寺を建てて禅、華厳を学んだのち天台に転向した。

宮中の道場に奉仕する僧(=内供奉・ナイグブ)となり、桓武天皇の庇護によって、804年遣唐使とともに還学生(1年間の派遣)として中国に渡り、天台の禅・律・密教・浄土などを収めて翌年帰国し、天台宗が南都六宗についで公認された。

最澄は密教修得の不十分さを知り一時的に空海に弟子入りしたが、天台密教(台蜜)は弟子の円仁・円珍の中国留学によって完成された。

比叡山に大乗戒壇を設け、12年間比叡に籠もり修行させる授戒制度が822年最澄の没後に認可、翌年延暦寺の字号が下賜され、ここに現代の日本仏教の主要な宗派が空海の日本真言宗を除いて全て生まれることとなりました。


* 官僧=天皇の勅許を受けて僧となることで、毎年10人+αと決まっていた、一定の修行期間を経て試経を受けて受戒し、官度を授けられて公式の僧となれた、戒壇は当時東大寺と福岡県の観世音寺、栃木県の薬師寺にあり、これらの官度は法相宗に準拠して修行本位な小乗仏教色が強く、最澄の天台戒壇は「悉有仏性」を本質として、真に大乗仏教といえます。

延暦寺
日本天台宗の総本山、788年に最澄が比叡山に一乗止観院を建てたことから始まる。円珍が薬師堂を改修して根本中堂として東塔と称し、円仁が北峰の横川(ヨカワ)を開き、中間に西塔と呼ばれる最澄の廟堂浄土院などが置かれて三塔が成立し後には独立行政になり、最盛時には三塔十六谷に三千坊があったといわれます。

ことに興福寺と延暦寺の僧は南都北嶺と並称される僧兵が権力をふるい、滋賀県坂本を中心とする琵琶湖の交易権を握り、近江全体に広大な荘園を持つ一大領主であったがために、織田信長は京都・大阪・堺への西下を阻まれ、比叡山攻略こそ天下統一の鍵でした。

1571年9月ついに根本中堂を初めとする主要な堂塔が焼き払われて、延暦寺は大きな痛手を蒙りましたが、この焼き討ちは信長の家臣たちの批判にもさらされことは、後に豊臣秀吉や徳川家によって延暦寺の復興がなされたことからも明白です。


風来坊主の写真館 

ここからしばらく延暦寺を歩いてみましょう、広大な寺域は一日で歩き廻るのはちょっと酷です















坂本ケーブルは1927年(大正2)開通、日本最長の20.25Km、坂本駅と上の延暦寺駅舎は有形文化財


















  無動寺谷(ケーブル延暦寺駅より南へ約1Km下がる)

天台密教には「千日回峰行」という有名な修行がありますが、ここの明王堂が根本道場であり不動明王(重文)が祀られています。
その下には護摩堂や親鸞が修行したといわれる大乗院などがあります。
       
           
明王堂(創建865年)
           
無動寺への参道




東 塔



























     根本中堂と文殊楼(円仁が中国五台山にならって創建した山門、1668年焼失後再建)

















左:大講堂1964年移築 本尊は大日如来。本尊の両脇に叡山より出た各宗祖像が安置されている

右:阿弥陀堂(重文)1964年移築(右)と法華等持院東堂1980年再建(左)大日如来、仏舎利、法華経を安置

西 塔


転法輪堂(釈迦堂・重文)
現存する最古の建物、元々は園城寺の金堂(1347年)を太閤秀吉が1595年に無理やり移築させた、
本尊は釈迦如来立像(重文)















     にない堂の渡り廊下

    
浄土経と法華経の道場、円仁創建、常行堂より法華堂を見る






浄土院 822年56歳で入寂した最澄の廟、12年籠山の僧が今なお大師に奉仕している



ちょっと一休み(西塔と横川は約4Km離れています)
天台宗とは中国浙江省東部にある静かで景色のよいところとして知られる天台山脈に、智顗(チイィ:538~597年、湖南省」出身、梁・陳・隋代の人、中国仏教形成の第一人者とされる)が575年に入山して以来天台宗の根本道場になりました。

ここには最澄、円珍、重源(鎌倉時代に東大寺再建の勧進職)、栄西ら日本の学僧が訪れています。

天台宗の根本は法華経にありますが、智顗の著した「観無量寿経疏」があるように、遠く長安を離れた天台の地にあって、天台教学は華厳とともに中国仏教の二大思想であり、法華経に限らない全仏教学的存在でした、明代以降は禅や浄土教との融合が見られるのも不思議ではありません。

それゆえ、日本天台宗においても法華と浄土が調和した叡山浄土教が生まれるなど、あらゆる仏教学の集まるところだったのです。

そこから源信(恵心僧都)が浄土教を、栄西・道元が禅を、日蓮が法華を対象に道を究めることも必然的なことだっただろうと思われます。

叡山にはところどころに法然・親鸞・日蓮などの旧跡の碑が建っているのは、南都北嶺がともに法然一門を島流しにしたこととは矛盾していますが、今や観光地化した叡山では、旧敵もまた大事な観光資源となっているのでしょう。

誠に日本仏教のありようは、己さえ良ければいい様子を呈しているといわざるをえない有様で、釈迦の教えを逸脱し、最澄の求める仏教によりよい生き方を識るにはほど遠いものとなっているようです。


◇なぜ日本仏教は堕落したのか◇ 一つの見方
遠い昔のお寺とか僧侶というのは、言わずもがな教育者であり(江戸時代でも庶民が字を読み書きできたのは寺小屋教育でした)、芸術家であり、あらゆる相談事を解決してくれるところでありました。

平安時代に入ると南都北嶺の僧兵に見るように、仏教に背いた僧による殺人が横行し、高僧の中には不淫の戒律を破って子供をもうけるなど乱れた世相となり、これを悲観した僧たちは官僧の立場から離れて、新仏教集団が興る鎌倉時代へとつながってゆきます。

江戸時代には国内旅行の通行手形を発行し、村々の戸籍を預かるところとなり、村ごとにお寺が建てられ役所の役目を勤める寺へと変わってゆきました。この時点からいつしか御前様と呼ばれるような権力を坊主どもが持ち始め、僧侶の堕落が始まりました。

明治政府は神道を国教化する目的で、寺領没収、宮中での仏事廃止、僧侶の官位廃止、僧侶の肉食妻帯蓄髪の許可と俗姓設置が実施され、坊主が庶民の信望を失うように仕向けました。

それ以後、坊主は堕落の一方をたどり、葬式を司るか観光業を牛耳る「職業」となって、釈迦の戒律を根底から覆し、高僧といわれる立場の人が京・大阪のバーやお茶屋のオーナーになり、贅を尽くした暮らしをしています。

私もそれら坊主の一員ですから批判できる立場ではなく、もはや日本仏教は仏教の名を借りた似非集団になっていることを、皆さんに知ってもらいたいと思っています。

私がインドを初めとするお釈迦様の遺跡を訪ね、日本へ仏教が来た道を歩くことを一生の目的にしていることは、せめても精神的には釈迦の教えに近づきたいという贖罪の思いといっても信用する人はないでしょうね。



横 川


横川中堂 円仁創建、豊臣秀頼と淀君により再建されたが1942年雷火によって焼失、
1971年鉄筋コンクリートで再建された、本尊は無事で聖観音菩薩像がある




























       左:恵心院:源信(後記参照)を祀る 右:相輪橖(トウ・重文)820年最澄が創建、1895年(明28)改鋳




























           横川への道                             阪本で見た優しい心

源 信(恵心僧都):942~1017年 奈良県当麻(タイマ)に生まれ13歳で比叡に入り、15歳で村上天皇の前で「称讃浄土教」を講じて、褒美の品と僧都の位をもらった嬉しさに、当麻の母へその品を送りましたところ、送り返された中に
「のちの世を 渡す橋とぞ 思いしに 世渡る僧と なるぞ悲しき-まことの求道者になり給え」とありました。
その後、横川で精進を重ね、44歳で「往生要集」を著し浄土教への道をひたすら歩み、これが法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗へとつながっていきました。

天台系の高僧たち
  円 仁 :794~864年 天台宗山門派 (山門派第3代天台座主・慈覚大師)
  円 珍 :814~891年 天台宗寺門派(園城寺寺門派開祖・第5代天台座主・智証大師)
  良 源 :912~985年 天台宗中興の祖(第18代天台座主、慈慧・元三大師・山門寺門分裂の因をなす)

  空也上人:902~973年 天台宗空也派         恵心僧都:942~1017年  日本浄土教
  良忍大師:1072~1132年 融通念仏宗         法然上人:1133~1212年 浄土宗     
  栄西禅師:1141~1215年 臨済宗             親鸞聖人:1173~1262年 浄土真宗   
  道元禅師:1200~1253年 日本曹洞宗         日蓮上人:1222~1283年 日蓮宗 
  一遍聖人:1239~1289年 時 宗             真盛上人:1443~1495年 天台宗真盛派
       

かくして比叡山延暦寺を終わります、最澄(伝教大師)の日本仏教に果たした大きさは、他の仏教者を抜きん出て偉大としか言いようがありません。

最後に最澄の有名な言葉を列記しておきますが、これは全てお釈迦様の言葉と共通したものです、いかに広く深く学問した人であったか、改めて現代仏教の貧しさを思い知らされます。

「怨みを以て怨みに報ゆれば怨みは止まず、徳を以て怨みに報ゆれば怨みは即ち尽く」

「道 人を弘め、人 道を弘む。道心(どうしん)の中(うち)に衣食(えじき)あり、
 衣食の中に道心なし」

「悪事は己れに向かへ、好事は他に与へ、己れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり」


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