特別番外編 ・ 岩手と宮城の縄文時代

台風19号によるご被害、お見舞い申し上げます。15号による復旧もままならないときの再来には言葉も出ない有様です。

私は若い時に鹿児島にいて、幾度も床上浸水を経験しましたので、瞬時の増水・後始末等の煩雑さに襲われた皆様には、

心からの同情とくじけない心で事態に対処されんことを祈っています。


これは2019年9月3〜7日に訪ねた縄文遺跡の記録です、6月に北海道から新潟までの縄文の旅で行けなかった、東北の地域をつぶさに訪ねました。いずれの県も以前には部分的に訪ねた記録が、「風来坊主のおおさか物語」にUpされていますが、全体像にほど遠く、強くひかれる地域でしたから、大腸がんの切除のための入院をずらして、仙台からレンタカーを借りての旅となりました。


岩手県埋蔵文化財センター















左:岩手県埋蔵文化財センター  右:二階の作業所の一角

ここでは先の地震による災害で、修復した土器類が破壊されてしまい、それの再修復で他には手が付けられない状況とうかがいました。
 














左:修復後破損しました  右:ここはきれいに整頓されて埋文随一とお見掛けしました
 
岩手県の土器を見る (縄文草創期より古墳時代へ)
 






























































花巻市博物館
当初は行く予定にはなかったのですが、ここでは「発掘された日本列島2019」展が開催中と聞き、長らく関西に来ていないので久しぶりに見学することにしました。 白神山地の遺跡よりの出土品をご覧いただきます。
 































白神山地東麓・岩木川右岸段丘上の縄文全期にわたる遺跡群より






大変な美人に会えました

 
大清水(おおすず)上遺跡と郷土資料館

この遺跡は奥州市胆沢(いさわ)にある約5000年前(縄文前期後半)の集落跡で、胆沢川の河岸段丘(280m)に中央広場を囲んで長さ10mを超える大型の竪穴住居が放射状に配置された環状集落です。この住居は頻繁に建て替えや拡張された跡があり、何世代にもわたって定住生活が続けられたようで、たくさんの土器や石器が見つかっています。環状集落の全体像が確認できる遺跡として、国の史跡に指定されています。

 
大清水上遺跡の案内板



広大な遺跡(約4588m2)の一部


胆沢(いさわ)郷土資料館



よく整備された資料館


アケボノ象:
胆沢川には250〜70万年前の比較的温暖な気候のもとに象が闊歩していました、この象はアケボノ象と呼ばれる象類の中で最も小さな象で、現在のアジアゾウと比べても2分の1程度の可愛らしさ、岩手県南部から九州まで住んでいました。 



右:人面付深鉢型土器(縄文後期)


以前に行ったところ 2013/3
:  岩手県立博物館    御所野縄文遺跡


宮城県山王囲遺跡

宮城県の北方の栗原市にある縄文晩期の層は、地下水の水位が高く泥炭層と呼ばれる多量の水分を含む地層によって、埋まっているものが空気に触れなかったので、通常では腐ってしまう植物や動物の骨などが保存されています。栗原市の埋文(山王ロマン館)ではこれらの植物に特化した展示がみられて大変興味深いものでした。
この泥炭層より出土するところは青森県・亀ヶ岡、是川、福井県・鳥浜遺跡などへ私たちは行きました。















山王ロマン館と山王囲遺跡 



縄文人のファッション

 
現代と変わらない土偶による髪型



県北・栗原市を流れる一迫(いちはさま)川付近の遺跡分布、旧石器〜縄文時代の多さにご注意



籃胎(らんたい)漆器:植物で編んだカゴに漆を塗り赤漆で模様を描いています、その左は文様復元図


中沢目貝塚・他


中沢目は大崎市にある貝塚で、この近辺には貝塚や縄文遺跡がたくさんあります、あまり多いのといずれも埋め戻されていてただ草ぼうぼうの有様ですからほとんど歩きながら眺めるだけになりました。



遮光器土偶が全長36cmほぼ完全な形で出土した珍しい土偶です















貝塚の色々


里浜貝塚と歴史資料館

この貝塚は松島湾宮戸島にある日本最大級の貝塚です。奥松島縄文村を形成し、歴史資料館などを完備しています、宮城県の古代への注力は見事なものでどこの遺跡に行くにも迷うようなことはありませんでした。 
















 




   






         

  右上:さとはま貝塚跡、この北方沖に多島海としての松島が広がっています
  右下:さとはま貝塚貝層観察館





春のアサリ・フグ・縄文土器・製塩土器などの層があります



さとはま貝塚より見つかった土器類


奥松島の地震と津波

JR千石線「野蒜駅」より南下すると先にご覧いただいた奥松島縄文村と里浜貝塚跡へと続きます、この野蒜駅を中心にした東松島一帯は2011年3月に発生した史上最大のマグニチュード9.0の太平洋沖地震により、震源域が南北500Km東西200Km、岩手県から茨城県に及び、地震に伴う大津波によって約26000人の人命が失われました。私は旧野蒜駅の前に建てられた慰霊碑にしめやかな読経を捧げましたが、自然災害に対する無力な人間の営みと、さらには福島原子力発電所による放射能汚染など、行きすぎてしまった近代科学と一万数千年つづいた平和な縄文時代との較差の大きさに、ただ呆然とするばかりです。こんな危険な近代科学を未来の子供たちに残してよいものかどうか、止めようのない地球上の人の営みにある意味絶望感を覚える日々です。

ロバート・ゴダード「日輪の果て(下)」(Out of the Sun)文春文庫より:「ヒロシマとナガサキは、科学の探求が人類にもたらす結果はつねに予測不能であること、その結果は科学者が予測するほど好ましいものではないことの、実に明白な証明でした。・・・・・彼は人類の知識と倫理的成熟とのあいだの落差が広がってゆくのを恐れていました。その落差が縮まなければ、たいへんな惨禍が招来されることを・・・・・」
















線路も曲がってしまった旧「野蒜駅」と水没した水位3.7mを表す新「野蒜駅」



野蒜駅前の慰霊碑(左右に亡くなった方々のお名前が刻まれています)


松島・瑞巌寺五大堂 807年坂之上田村麻呂が創建、現在の建物は1604年に伊達政宗が造営、重要文化財















大木囲(だいきかこい)貝塚

松島湾を左に見ながら多賀城市・仙台方面に65Km走ると松島湾を西より囲む半島が七里ヶ浜町です、この半島には縄文時代の貝塚が4ケ所ありますが、その代表が縄文前期前半から後期初頭にかけての国の史跡「大木囲貝塚」であり、七ケ浜町歴史資料館で出土品を見ることができます。。
ここは長く古代文化の象徴であった津軽海峡文化圏としての秋田県・岩手県北部及び青森県以北北海道の「円筒土器」を除く、東北地方に広く分布した「大木式土器」の発祥の地として知られています、これらは互いに文様などに影響を与えながら、長い縄文時代を継承してゆきました。
松島湾の沿岸には約70ヶ所もの貝塚が残されているのは、松島湾の環境に大きな変化がなかったことによるのでしょう。






大木囲貝塚跡

七ヶ浜町資料館

 











 
資料館と各種の道具類

































装身具と大木式土器の文様

 


貝層のはぎとり標本



大木式土器の「なみなみ ギザギザ ぐるぐる」文様、青森などの円筒土器の文様とは違いますね

多賀城跡

多賀城は縄文時代とはかけ離れていますが、709年:坂上田村麻呂10万人の兵をもって、アテルイ軍に勝利、724年:国府「多賀城」を建設しました。この件については2016年の「5月 花のみちのく」第7回最終編・宮城県「東北歴史博物館とみちのく略史」をご覧ください。


















以上で岩手・宮城両県の縄文時代への旅を終わります、縄文時代から奈良時代にへの変遷なども興味深いものですが、あまり長くなるので弥生時代以降は割愛しました。旅行の途中で現地の方々に色々とご親切に接していただき、厚く御礼申し上げます。
9月のレポートが今日になりましたのは、この旅から帰って間もなく大腸がんの切除手術に半月あまり入院した結果ですが、退院したものの未だ元通りの体調に復せずにいますので、すべてがのびのびになっています。

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