北海道・東北 縄文時代への旅


6月3日~25日・2000Kmのバイク・ツーリング

1 : 北海道編


青森県の縄文遺跡などは近県を含めて都合4回訪れていますが、北海道南部の遺跡訪問を始めとして今回は東北全域を巡る計画で、周り易いようにバイクを買い、キャンピングも覚悟で出立しました。その計画はいろいろなトラブルの結果、宮城・岩手県を除く全県を尋ねることはできましたが、何度も挫折の憂き目を見ながらの苦労の多い旅となりました。

何故こうなったかというと、自転車(マウンテンバイク)で中国やチベット圏を駆け巡った経験はあるものの、原付自転車(ホンダ・スーパーカブ110㏄)でのツーリングは初めての経験であり、キャンピング装備など積み込んだ荷物が過大すぎて、低速走行時の安定を欠きフラフラフラ挙句は転倒を繰り返し、最初の上陸地点「小樽」での転倒時、自分一人で起こそうと(カブ100Kg・荷20Kg)頑張った結果、腰椎の圧迫骨折(帰神後病院で判明)で座った姿勢から立ち上がるのに何分もかかる始末、さらに伊達市では転倒した拍子に右肩を強打し鎖骨を折り、右腕が上がらなくなりました。この負傷の結果は今なお続いており、寝返りを打つのが簡単ではありません。函館で荷物の多すぎることに気付き、減量を二度してやっと安定走行ができるようになりました。

当然、北海道でお医者に行くべきですが、ドクターストップがかかっては、むなしい結果になりますから、何とか出発しましたが、秋田市まで来て、いったん帰ってやり直そうと秋田港へ行くと(日曜日ごとに寄港します)、雨風の天候で今日は車を乗せられないし、新潟には寄らずに敦賀まで直行するとのこととなり、これは何かのご縁、新潟まで山形・福島を通って、日曜日のフェリーに間に合わせようと再計画を立てて豪雨の中を出発しました。

こんなわけで、宮城県はカットせざるをえない結果となり、(宮城と岩手の一部は仙台までLCCで往復し、後はレンタカーで周ることにしました)、いやはや、登山やツーリングに数多い経験を積んではいますが、今回のような出立早々から、身体の不調で困難に立ち向かったことはなかったですね。ま、徐々には良くなっていますからご心配は無用です。では旅のつれづれをお楽しみください。

   2000Kmの軌跡

6月3日(月):午後神戸を出発、一路京都市京北町の奥にある山小屋へ向かう。

4日(火
):小浜経由舞鶴港へ、「赤レンガ博物館」などで時間をつぶし、23:50小樽行き新日本海フェリー「はまなす」で出港。

5日(水):終日航海。20:45小樽港到着、ライダーハウスに投宿。

6日(木):バイクが転倒し起こそうとして腰椎の圧迫骨折。小樽市・「忍路(おしょろ)環状列石」、山道へ分け入ったおかげで転倒、バックミラー破損、参道には歩いて入ることに決める。バックミラー新替え後札幌市・「北海道博物館」、江別市・「北海道埋蔵文化財センター(以下・埋文)へ行き、バイカーハウスに泊まる。

7日(金):寒いので手袋をつける。江別市を経て千歳市・「キウス周提墓群」、支笏湖畔を過ぎてユースホステルに投宿、

8日(土):大阪のT元気おばさんに励まされて出発、伊達市で転倒し二度歩道に右肩から落ちて鎖骨を骨折。「北黄金貝塚公園と資料館」、洞爺湖を見たかったが肩の痛みに通り過ぎてしまう。スクーター旅行の人に民宿を教えてもらって投宿。

9日(日):内浦(噴火)湾沿いに、森町の「鷲の木遺跡」は資料館はしまっているしスマホや人に尋ねるが1時間近くうろうろして結局断念、「大船遺跡」の竪穴住居の深さに驚き、「函館市縄文文化交流センター」へ、そこで教えられた南茅部保養センタへ入る。荷物を整理し送り返してカブの安定性がよくなるように期待する。

10日(月):「垣ノ島遺跡」を探し探して着いてみると、そこは何と昨日の交流センターの裏てすぐ下にあった。教育委員会のKさんに色々お話を伺い、探し回ってきたかいがあった。函館港近くのドミトリーで2連泊、休養と荷の整理をする。

11日(火):近くの「北方民族資料館」そして函館市電に乗って「外人墓地」「湯の倉神社(祭神・大国主命とウサギ)。

12日(水):津軽海峡フェリー内で30枚のはがきを書く、と言っても船(ブルードルフィン2)のスタンプを押しただけ、でも3時間半の航海が瞬く間にすぎる。夜は青森で行きつけの「たか久」で夕食、いつもなら青森の銘酒を飲んでいたところだが、今回はノンアルビ-ル。

13日(木):新装なった「青森県立郷土館」へ行く、展示も館内の内装も一新され、旧知の主査に色々お話を伺う。弘前市では日本最北の五重塔のある「最勝院」へ行く。そのまま弘前の宿をキャンセルして北秋田市の鷹ノ巣まで走る。

14日(金)「伊勢堂岱遺跡と縄文館」、そして能代市の「杉野沢遺跡」には振り回される、農家の人に聞けば台風で看板もみんな飛んでしまったとのこと、一本の棒杭が遺跡であることを教えてくれる。ここから走りに走って8時間やっと秋田市内に入る。娘が予約してくれたところは何と畳の部屋!立ち上がろうにも立てない。だが、おじいちゃんおじいちゃんと呼んでくれて、なんともキャンセルしづらい。

15日(土):追分に逆戻りするためJRで能代市の「秋田県立博物館」へ行った。駅で三つ目14分、カブだと90分くらいか。いずこも同じ茶色の建物に展示方法もどこでも同じに思える。明日は港へ行き乗せてくれるならいったん帰神して傷を治して出直そうと決めたが、乗れないときのことも考えておいた。

16日(日):港へ行くと海が大荒れ、今日は乗船させられないとのことで、結局我慢して新潟まで走ることになった。ところが途中から初の暴風雨になり、停まるに停まれず、結局180Kmも走り続けて、山形県の天童市まで来てしまう。新潟港発は次の日曜日までないから、ペースを落とさなければならない。

17日(月):行基さんが開かれたという奈良時代の古刹で広大な境内を持つ「慈恩寺」と三つの古墳が復元されている「高瀬山古墳」でしばし古代を瞑想。

18日(火):高畠町のJR高畠駅は市街地から随分と離れたところにあるが、そのユニークな建物には温泉館とホテル・フォルクローロが混在している。「風土記の丘・うきたむ考古資料館」は県立だが「写真は撮るな」とか兎角役人風をふかして時代錯誤も甚だしく不愉快なところ、それに比べてちょっと東に建てられた「高畠町立郷土資料館」は懇切丁寧、風土記の丘自体はいい公園だが、考古資料館には入らないほうがいい、展示品は似たようなものだから。

19日(水)
:福島市内に入る、「宮畑遺跡」は福島市立史跡遺跡公園として素晴らしい景観を持っている。ここの「じょ―もぴあ宮畑・資料館」ではT主査に複式炉などの解説を丁寧にしていただいた。その後「和台遺跡」へ郵便局員のNさんの案内によって行ったが、ま、昔をしのぶだけの場所だった。

20日(木):猪苗代湖のほとりで半分隠れた磐梯山を眺めながら昼食、今回の旅で山が頂上まで見えたのはここが初めて、だがすぐに隠れてしまう。猪苗代のリゾート地の古い建物に入って、2泊することにした。

21日(金):温泉に入り、持ってきた食糧で賄っているが、粗食であるから今夜だけはホテルのレストランで食べる。

22日(土):会津若松市・「福島県立博物館」へ立ち寄る、大雨が降ったり晴れたりややこしい天気に困ってしまう。谷筋に雪を一杯残した多分飯豊山だとカメラを出そうとすると早やおじゃん。トンネルを二つこえると延々と新潟市へ向けて走り続け、「県立埋文」のことを忘れてしまって思い出した時には取り返しがつかなかった。駅前の安宿に入って、ほっと一息今回の旅の終わりを感じる。

23日(日):佐渡島をまじかに見ながら船は一路敦賀へと進む。この「ライラック」号のレストランの味は素晴らしい。

24日(月):早朝5時半に入港、また小浜経由で山小屋に向かう、夕方岩風呂に入って体を休めれば、はるか走ったものだと思える。

25日(火):ゆっくり支度をして京都付近で162号から171号線に入り西宮経由で帰宅したのは15:30。ちょうど2000キロの旅でした。


 北海道編 小樽~函館

小樽から函館までの間は東北の縄文文化が色濃く残るところです、それだけ丸木舟による交流があったことを物語っており、縄文人の活動範囲の広大さとバイタリティを知ることができました。
忍路環状列石
ここのストーンサークルは、小樽市の西方にあって、約3500年前縄文後期の遺跡。南北33m東西22mの楕円形に配石されています。このころ東日本では環状に配石したり、石を敷き詰めたりして聖域を造り、その文化と技術が北海道にも伝播して、葬送の儀式が行われたと考えられています。


ここでは配石に座ることはなかったようです


北海道立博物館



札幌市厚別区の森林公園内にあります、無反射ガラスなど行き届いた展示でした














左:マンモスの牙 右:ステラーカイギュウは1768年頃絶滅した大型の哺乳動物、ベーリング海の寒い地域に生息していました(ウイキペディア)



北海道の旧石器文化は本州やサハリンからもたらされ、3万数千年前から1万数千年前まで続きました、北海道は黒曜石の産地ですから良い石器がありました

 
縄文時代は1万5千年以上にわたって豊かな暮らしをもたらしました、弥生文化は北海道では受け入れられず、その間を擦文文化と呼ばれます。
擦文文化は土器の表面を縄文に代わり、木のへらなどで表面を滑らかにしていた時代をいいます

 
豊かな文化を表していますね(国・重文)



土偶は縄文人の心の表現 右:北海道初の国宝「中空土偶」



そして須恵器、10世紀に青森県五所川原で生産が始まりました

    須恵器は大阪府堺市・大阪狭山市・岸和田市にまたがる泉北丘陵にある陶邑窯跡群の発掘調査と研究により、少なくとも5世紀前半には、朝鮮半島
    から陶質土器が持ち込まれるのとほぼ同時期に生産技術が入ってきて、陶邑地域で須恵器の生産が始められたことがわかっています。


北海道立埋文 


埋文は上記博物館の北方・江別市側にあります、手前は黒曜石の原石  素晴らしい縄文文化の宝庫でした


翡翠は新潟県糸魚川の特産品ですから北海道との交易の盛んだったことがわかります

 
何を焼いた炉でしょうか

 キウス周提墓群

千歳市中央にある縄文後期後葉(BC1200年前)に構築された集団墓、周囲に丸く土を盛った中に遺体を埋葬しました。現在8基の周提墓があり、最大の墓は外形75m堤の高さは5mもあります、こんな規模の周提墓は例がなく、縄文時代最大級の記念物といわれています。1979年に国の史跡になりました。
キウスとはこの地区の呼び名で、アイヌ語で「キ・ウ
」 =カヤ・群生するところ、という意味らしいです、かってこの付近は湿地帯の近くでした



墓群中最大の第1号を取り囲む人々、外の輪は堤の上、中の輪は墓域で中央が盛り上がっています(現場の画像を撮影)


墓群は林の中にあります
 


周提の様子

 千歳市埋文

すばらしい資料館で、支笏湖の誕生から2万年前の石器そして近世アイヌ期を知ることができます





























左::赤彩注口土器(複製)  右:どんな心で造ったのでしょう



縄文前期~中期の土器



支笏湖と恵庭岳(1320m)


北黄金貝塚公園と情報センター



昭和新山(398m)と僕のバイク

内浦(噴火)湾へと下りてくると、そこは伊達市で黄金町に広大な貝塚があります、ここではシカ・オットセイ・魚・貝などすべての生き物の墓地であったことのわかる、縄文前期(7000~4500年前)の14基の墓があり貝塚とは単なるゴミ捨て場ではなく、神聖な場所とされていたことがわかります。



黄金塚貝塚の全貌、住居が5軒あったとのこと、素晴らしい環境がうらやましい

  


















いずれも祭祀に使われました、この資料館はここの出土品ばかりで、文化の高さがよくわかります

 
縄文早期より後期へ



暮らしの道具



縄文時代に使われていた石器の数々














鷲の木遺跡は結局何もなくて、榎本武揚の上陸地が幅を利かせていました
「鷲の木古墳」:縄文後期(4000年前)、ストーンサークル、竪穴墓域、配石遺構など北日本の墓制・祭祀・東北との交流に貴重な遺跡です.。
後で知ったことですが、現在調査中のため一般の見学はできないそうで、それゆえ道標も撤去されていたのですね。


大船遺跡

昭和新山を生んだ有珠山(737m)の下を内浦湾をぐるりと周ると長万部(おしゃまんべ)町・鷲の木古墳の森町を通って、北海道駒ケ岳を右においてJR室蘭本線と並んで走ると、函館市大船町に縄文前期~中期(6000~4000年前)の100基以上の竪穴住居と盛土、100基以上の土坑墓群があります 
盛土遺構とは:石器や土器、食べ物の残りや人骨を埋めて土を盛ったところを言います。単なるゴミ捨てでなくこれらの遺品の魂を送るところとかんがえられているのです。自然との共生が縄文人の魂のよりどころですから、現代人の精神風土とはずいぶんかけ離れていますね。



延べ600軒の竪穴住居とは一大団地でしたね



大船遺跡の竪穴住居



竪穴の深さにご注意、はしごや階段を使ったのでしょう、夏涼しくて冬温かい快適な暮らしでしたね



大船遺跡管理棟


氷河時代も縄文海進時代も人々は暮らしていました


垣ノ島遺跡


通り過ぎてしまった遺跡へ今日は逆戻り、交流センターの裏手が垣ノ島遺跡になっているのだが、そんなことがわからなくて、尋ね尋ねて1時間余り縄文早期~晩期(9000年前から6000年間)の複合遺跡、9000年まえの漆器が出たことで有名。ここでこの遺跡調査を担当しておられる函館市教育委員会のKさんに会い、いろんなお話を聞かせていただく。
広大な土地を埋め尽くすように青いシートがかぶせてある、みんな住居跡らしい。まだ手付かずのところに大きな木々が生い茂り、気の遠くなるような広さに驚く。


広大なブルーシートは竪穴住居の調査中、見渡せる限りが遺跡とのこと


函館市縄文文化交流センター

ここは国宝の中空土偶があることと世界最古の漆器があることで有名。ここで北海道の縄文遺跡とお別れ、北海道の縄文遺跡は完ぺきに遺跡公園として復活しているところと未だ手付かず状態が入り交じり大変新鮮な印象を受ける。北東北との交流は丸木舟を通じて、新潟の翡翠、秋田のアスファルトなどの交易が明らかにされ、津軽海峡(フェリーで3時間40分・新幹線約60分)をものともせず文化の交流が氷河時代から連綿と続いていることに、人間の知恵と勇気を思い知らされるようでした。

なおこの日の交流センターの展示品はもっとお見せしたいのですが、右肩の痛みと腕が思うように上がらず、多くの写真が失敗作になってしまいました、お詫び申し上げます。



道の駅も併設している函館市縄文文化交流センター



上:垣ノ島遺跡出土赤漆塗り注口土器(複製)

 
館内の様子

函館アラカルト

アイヌ民族にふれて:函館で2泊して休養をとることにしました。途中で白老町のアイヌ民族博物館へ行きたかったのですが、現在改装中で休館。ホテルの近くに「北方民族資料館」を見つけたので、そこへ行きました。
現在では多くの点で大和民族と同化してしまったとはいえ、アイヌ民族の方々の独自の文化を残そうとする心が表れた良い資料館でした。私にはアイヌ民族の文化と縄文人の文化とは年代こそ違え、全く同質なもののように感じられます(DNAでは縄文人との関連はアイヌ民族と沖縄人が50%、和人は30%)。刺青は共通した文化といえるでしょう。 

北方民族資料館にて




















民族衣装


 
どのような発想から生まれるのでしょうか
 


縄文人の文様(2019/9宮城県・山王ロマン館にて撮影)












左:生活用具  右:狩猟用具



北方圏という一つの文化地帯を形成していたのでしょう












函館港と市電(全・支線乗りました)












左:函館はレンガ倉庫の街  右:函館山(前日ロープウエイで上がりましたが何も見えなかった)


さてこれで北海道の縄文の旅を終わります、もっとたくさん写真はありますが長くなりすぎるのでこの辺でご辛抱を。次回は❷青森~新潟編をUpします。

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