第114(129)回 5月コダイ・ウォーキング レポート


青葉若葉と花の旅-京都山科


4月に続いて花の旅を企画し、ゴールデンウイークの人ごみが終わった静かな京都東山の山麓を歩きました。適度に陽が差した快適なウォーキング日和に、山科の古い寺々と家々にはいろんな花が競い合っていました、京都市内といってもこの辺りは滋賀県境との東山山麓に位置し、ここに造営した寺々は十分すぎる土地に、借景までも取り入れて心安らぐことでした。



境地市営地下鉄東西線「小野」駅:この辺は小野郷といわれ小野妹子につながる小野一族が栄えた処でした


勧修寺

AC900年に醍醐天皇によって創建された門跡寺院、周囲の山々を借景にした「氷室の池」を中心にした庭園は広々として美しいところでした。平安時代には毎年1月2日にこの池に張る氷を宮中に献上し、その氷の厚さでその年の五穀の豊凶を占ったそうです。



京都市指定名勝庭園と書いてあります



手前の低木は樹齢800年のハイビャクシンで一本の幹が広がります、灯篭は徳川光圀(黄門)寄贈、向こうは観音堂



氷室の池は満開の花々



宸殿:江戸時代初期に明正天皇の御殿を下賜されました

宸殿とは:皇室関係者が代々住職を務めてきた門跡寺院特有の建物で、格式高いのが特徴です。


隋心院


当寺は真言宗善通寺派の大本山、弘法大師の八代目・仁海僧正が991年に建立、宮中の帰依深く七堂伽藍は応仁の乱にてすべて灰になりましたが、1599年に本堂が再建された以後、九条・二条宮家より門跡が入山して再建が整いました。
ここには平安時代小野小町作と伝わる「小町文張り地蔵尊」、鎌倉時代・恵心僧都作の「卒塔婆小町座像」、室町時代の三十六歌仙・「小野小町歌仙初」などが伝わっています。
小野小町:彼女は小野篁(834年遣唐副使等)の孫にあたり、出羽の国司・小野良実の娘とあると「群書類従正編」に記載されています。小町の生涯は判然としていませんが、平安初期815年頃生まれ、70才を越して小野の郷にて没したようです。というのも生誕地や墓所が全国に散らばってあり、これは彼女の名声に基づくものでしょう。
名声とは一つには絶世の美人であったこと、二つに和歌の六歌仙・三十六歌仙の一人であったこと、仁明天皇が皇太子時代から仕えて寵幸を受け、崩御後30才を過ぎて小野の郷に引きこもったようです。しかしながら、彼女の墓地と云われるものは秋田県から山口県まで16ヶ所に及びます。

世阿弥の創作になる「百夜通い」に出てくる深草少将は実在の人物で、小町を愛し文を送り続け、百夜通えば結婚しましょうとの言葉によって、百夜目を迎えて少将は雪と病によって死んでしまう悲恋の伝説ですが、この少将や当時の貴公子が送った恋文が隋心院に文塚として残っています。当時の書家として有名な小野道風は彼女の従兄に当たります。

彼女の歌で好きなものは(古今集より)

「花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」

「秋風にあふたのみこそ悲しけれ わが身むなしくなりぬと思えば」

「色見えで移ろうものは世の中の 人の心の花にぞありける」



総門にて



表書院より本堂へと続く中庭



本堂より大玄関・薬医門





































歌碑と小町庵


醍醐寺(下)


874年空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が醍醐天皇の勅願で醍醐山上(標高450m)に本尊薬師如来を伴って創建、現在の下醍醐寺から上醍醐寺までは約1時間以上の登山が必要で、総面積200万坪の広大な場所に広がっています。

聖宝は87416才で出家し、長く三論宗を中心に南都諸宗学びましたが、壮年期以降本格的に受法して真言密教正嫡となり、宇多天皇の帰依のもと東寺の僧正に昇り、役小角に私淑して吉野の金峯山で山岳修行を行いながら、参詣道の整備や仏像造立など金峯山の発展に尽力し、修験道の中興の祖とする伝承が生まれました。

ここは真言宗醍醐派の総本山で建物だけで国宝が6件重文が5件(すべての国宝69420点、重文6521点)があり、明治の蛮人政府による廃仏毀釈により寺領は国に奪われましたが、一山に伝わる一切の宝物は流出をふさぎ切りました、1994年には文化遺産に登録されました。

理源大師は醍醐・朱雀・村上天皇の帰依により長い歴史の始まりを守り通してきたのですが、その後も、足利尊氏・義満の帰依に続いて豊臣秀吉の庇護により仁王門の再建、金堂(国宝)の紀州からの移設など一山の興隆が図られ、江戸時代には修験行者3000名を伴って大峯山入峰をなして修験道の興隆が図られました。



醍醐寺総門に入る


三宝院は1115年に創建され醍醐寺座主の居住する本坊となりましたが、豊臣秀吉が1598年に「醍醐の花見」を契機に整備され、太閤自ら設計した庭園は、国の特別史跡・名勝に指定されています。



三宝院唐門(国宝)



庭 園



三宝院大玄関(庭園への入り口・重文)



総門より西大門(仁王門)を望む



醍醐寺西大門(仁王門)



金 堂(国宝・本尊=薬師如来坐像・重文)和歌山県湯浅から創建より400年後に移築され、秀吉の逝去後秀頼が完成させました








































国宝・五重塔(醍醐天皇の菩提を弔うためその子・朱雀天皇が起工(931年)し、完成はその子・村上天皇の代951年完成


下醍醐寺は応仁の乱(1467~1477年)などにより度々焼失の憂き目に遭いましたが、この五重塔だけは平安時代の姿で健在に生き残り、初重内部の壁画も平安時代の絵画として両界曼荼羅などが個別に国宝になっています。(塔高38m)



清滝宮(重文・室町時代1599年再建) 醍醐寺の総鎮守・清滝権現を祀るようですが看板には本尊が准胝・如意輪観音となっている


次に行ったのは善願寺で、真言宗のお寺ばかり多い地では珍しく天台宗で、創建は光明皇后(701~760年)の発願によって行基さんが建てられた古寺ですから楽しみにしていたのですが、着いてみると無人で予約がないと入れないとか入れないこともあるとか、インターネットではわからない寺でした、この地方にはお地蔵さんが多いのですが、ここには小さなお堂の中に最古の腹帯地蔵が2.68mの大きさだそうですが秘仏で見ることはできず、1000年を超える榧(かや)の木を見るのが500円とは呆れたお寺でした。


一言寺(金剛王院)


大原寂光院の建礼門院に仕えた阿波の内侍(藤原信西の娘)の開基と伝えられ、1973年の発掘調査で鎌倉時代の庭園などが発見されています。創建後次第に衰えましたが、1874年(明8)に醍醐寺の塔頭・金剛王院が移されて復興しました。
本尊は千手観音(一言観音)で「ただたのめ 仏にうそは なきものぞ 二言とはいわぬ 一言寺かな」という御詠歌で知られているそうで、大坂商人の信仰を集めました。



一言寺山門



本堂(本尊の一言観音は秘仏)



ヤマモモの巨樹(樹高9.2m・幹回り3.28m・樹齢400年以上 京都市天然記念物)



幹は空洞になっているが樹勢には影響していない



ヤマモモの実



今日の昼は醍醐寺の精進料理、夜は江戸川うなぎ京都店でウナギ等々、滅多にない贅沢な反省会


「京都雑感」京都の寺々へきて思うことは、何故こんなにも贅を尽くしているのかということです、平安時代は私のウォーキングにはほとんど入っていないのは、法隆寺や薬師寺など飛鳥から天平時代の寺々は、仏教の研鑽の地であり、民衆への教化などその目的が新しい文化への尊崇の心から造営されていることです。従ってそこには庭園にお金をかけるような様子はありません。

平安時代になると、仏教への一途の思いは消え失せ、宗派が生まれ宗派間の優劣を競うために、あらゆるものがお金のかかったものへと移行し、お釈迦様の華美を追うなという教えなど忘れられてしまうのです。
そこには坊主の精神が堕落していった姿が見られるゆえに、その端くれに存在する自分の姿もまた恥ずかしいことで、京都の地へは足が向かないのです。

そして、今度行った寺の多くは真言宗の各派に属しており金剛峯寺の弘法大師空海を祖師と仰いでいます、空海は井戸や温泉を掘りあて、出身地の香川県の満濃池を改修したりと多くの事績残していますが、これは高野山に真言密教の道場を構えた空海の下で修行して、各地へと遊行の旅をした多くの高野聖と称する人たちが、残した功績が空海の名のもとに民衆に伝えつがれたものです。

3月のウォーキングで行った天野山金剛寺も女人高野と呼ばれていますが、他にも奈良県の室生寺・和歌山県の慈尊院などがあり、なぜ空海ほどの僧侶が男女の差別を設けて高野山一帯を女人禁制にしたのか(明治5年政府によって女人の入山が可能になりました)、「お釈迦さまの生きとし生きるすべてのものは平等である」という精神を捨ててしまったのか、私には大きな疑問として残っています。

同時期の比叡山・延暦寺の伝法大師最澄と比較するとき、真言宗以外の日本の仏教諸宗の開祖を生んだ最澄と、真言宗をはじめ諸宗がが多くの派閥を生んで今日に至っているのを見るとき、人の心は際限なく欲望のとりこになっていることに思い当たります。
最後に最澄語録より
「道 人を弘め 人 道を弘む 道心の中に衣食あり 衣食の中に道心なし」

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