2018-4 特別番外編 富士山麓の縄文時代



残雪の富士山


今回の旅には二つの目的があり、一つは富士宮市郊外の源頼朝が駒をつないだという800年の桜の古木を見ることと、もう一つは同じく富士宮市の縄文前期末から後期前半にかけてのストーンサークルで知られる千居(せんご)遺跡と、縄文草創期からの大鹿窪遺跡を訪ねることでした。
桜のほうは今年の気候異変で2週間も早く咲き、すでに葉桜になり終えていました、また富士山は二日目に雲が多いながらそれなりに、連日雨も降ることなく広ーい富士山麓を楽しみ、富士山本宮浅間大社に詣でたのち、静岡県埋蔵文化財センターで発掘品を見学して、夜行バスに飛び乗って始めた二泊三日の旅を終えました。


白糸の滝




滝の全景 (1936年国の名勝・天然記念物に指定 水温13℃・1.5ton/S 役行者・富士講などの修行の場)


狩宿の下馬桜・アカハシロヤマサクラ



国特別天然記念物 樹齢800年 かっては東西22m南北16mの巨木が台風などでかなり損傷しました




















千居遺跡


富士山の標高約400mにある繩文時代中期(55004500年前)の集落跡および配石遺構を主体とする遺跡。集落跡は径約50mの大環状をなす20余棟の円形竪穴住居跡からなり、住居跡は径7.3m~3mの大きさ。
配石遺構は人頭大の石を運んで構築し、長さ約40mの直線状および弧状の帯状組石があり、この内外に環状配石、主体配石等が配置され、一部に石棒等も用いられている。この遺跡はいわゆる配石遺構のうちでも大規模なものであり、学問的にも貴重なものである。(文化庁より抜粋・加筆)
この遺跡は発掘調査後住居跡などは埋め戻され、配石遺構はその上に並べてありましたが、鉄条網に囲われてその外から覗き見るだけとなっています、秋田県の大湯環状列石青森県の小牧野遺跡のように、誰でも列石に腰かけて当時を偲べる配慮は何もないのが、遠い地方からわざわざ訪ねて来た者にとって不都合なものだったのが残念でした。



縄文中期の遺跡 持ち去ってしまったのか配石の数が少ないように思えました

  千居遺跡の配石図


ちょっと一休み:昼食に入った蕎麦屋さんの壁にはえべっさんの笊が飾られていましたので、関西のえびす神社がこの辺りまで進出しているのを、帰阪して調べると、えべっさんだけを祭っているのは富士宮市の蛭子(えびす)神社があり、他の神様と一緒に祀られているところは大変多いことがわかりました。


富士山の五合目まで登る自動車道は3本あるようですが、富士宮市からも富士山スカイラインで登ってゆけます、午後になると天気が思わしくなく、1200mにある西臼塚展望台までで登るのをやめましたが、スカイライン道は晴れていれば素晴らしいところだったでしょう。それでもこの辺りでは桜が満開で、なんども停車して桜を楽しむことができました。



富士と桜とカラシナと














































大鹿窪遺跡

富士宮市にある縄文時代草創期(1500010000年前)の遺跡のひとつ。この時代より古い遺跡は数多くありますが、定住集落跡の例としては、日本最古級であるとされています。14基の竪穴状遺構が半円形に配置され、また集石遺構、配石遺構なども見つかっています。遺物としては2万点以上の石器・土器が発見されました。





すべて埋め戻されていますが富士山を遥拝できる場所です

富士山本宮浅間(せんげん)大社

富士山は幾度も大爆発をしているようですが、その結果住民は離散し荒れ果てた土地だったのを、垂仁天皇が紀元前27年に木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと=別称:浅間大神(あさまのおおかみ)をこの大社に祀ったのが始まりとされています。もとはここより北6Kmのところのあったものを、806年坂上田村麻呂が平城天皇の勅命により、この神水の湧く地へと遷座しました。
「日本(ひのもと)の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも」と万葉の歌人高橋蟲麻呂が詠んだ、富士山の噴火を鎮めた神への信仰はあつく、1300社余りの全国の浅間神社の総本宮です。
平安時代には都良香(834~879年)が著した「富士山記」によると山頂の様子が詳しく書かれ、古くから富士登山が行われたことがわかり、また役小角(634~701年・飛鳥時代)が山頂を極めたとの伝説も残っています。
朝廷の尊崇から始まり、源頼朝・北条義時・武田信玄勝頼親子・徳川家康(本殿・拝殿など多数)など武家の尊崇と寄進を受けてきました。


浅間大社本殿(浅間造・二階建)を仰ぐ


湧玉池 雪解水が溶岩の間から湧出るもので水温13℃・湧水量3.6Kl/S 富士道者はこの水で身を清めて富士に向かいます



富士山は高さと山体の大きさで日本最大の活火山であり、最近10万年で急速に大きくなったと考えられており、その意味では「若い火山」に分類される。現在見えている山の外観は約1万年前から噴火活動を開始した新富士火山で、その下に約70万年前から活動していた小御岳(こみたけ)火山と約1万年前に噴火した古富士火山があります。(ウイキペディア百科事典より抜粋)


静岡県埋蔵文化財センター


埋文静岡は2011年に設立され、2016年10月にここ旧清水市(現清水区)蒲原(かんばら)の高校の廃校に移転しました。子供たちも親しめる展示法と体験学習室の充実ぶりには大変好感が持てました。

富士山を基準に東西の歴史と生活習慣を受けた多くの遺跡と出土品は、最近の考古ブームと相まって、とても少数の人々では整理しきれるものではないと、関西でのアルバイト学生や近隣のおばさん方の力を借りての作業を思い浮かべながら、思ったことでした。

館内には主として旧石器時代から平安時代までの展示がなされ、その解説書がカラー版で要所要所に用意されているのには、これまた感銘を受けました。ここの埋文は正に考古博物館としての役割を十分に意図したものであり、今後一層の充実を期待しています。























上:埋文センター


   右:環状瓶 飛鳥時代 浜松市窯跡より出土


体験学習室



部屋には本物の土器・石器が置かれていて各机は好みの製作ができます



















左:本物の土器類  右:火をおこしてみる

































左:勾玉を作る  右:布を織る



ペンダントを作る



駿河の大型壺 弥生時代 沼津市出土

縄文土器




弥生土器



現在静岡県の縄文遺跡は13ケ所を数え、去年7月に行った浜松市の蜆塚遺跡をはじめ伊豆半島にもありますが、地理的にみていると、静岡県の北方には長野県の南方に八が岳山麓・茅野市の尖石大遺跡群があり、古来よりこの地方には多くの人々が高い文化をもって暮らしていました。

これらの遺跡は縄文中期に属していますが、これだけの人口があったことは旧石器時代にも人々が暮らしていたに違いないと思い調べたところ、静岡県でもっと古い遺跡は、富士山の南方にある愛鷹山山麓(あしたかさん 富士市に属する愛鷹連峰で最高峰は越前岳1504.2m最南方の愛鷹山は1187.5m)にある愛鷹遺跡で、旧石器時代に属し、約31000年前には一時的に直径1m深さ2mの企画性のある落とし穴が列をなしており、追い込み猟か集団の領域を示したのだろうといわれています。

ここの人たちの使った石器には海を隔てた神津島や長野県からの黒曜石製が発見されています。16000年前に旧石器人が定住生活を始める前から、狩猟と採集の生活をしながらある程度一つの場所で祭祀をしたのだろうと想像されます。

東北地方の縄文時代と比べることはできませんが、新潟県の火炎土器まで続くこの中央部は、古代日本文化の根幹をなす場所といって過言ではないでしょう。二日間での駆け足旅行でしたが、充実した古代への旅だったと思います。(この項は埋文静岡のパンフレットその他百科事典より構成しました)

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