第112(127)回 3月コダイ・ウォーキング レポート

大阪の奥深く古寺と花の旅


梅が咲き、桜がちらほら、いよいよ春の到来です。今年の冬は寒暖の差が激しく花たちも花を咲かせるタイミングに困っていることでしょう。私たちは大阪の奥深く河内長野市の周辺に古代を求めてみましたが、期待に背かず素晴らしいところでした。
お天気は晴れたり雨が降ったりと今年の天候を象徴するような変化に富み、これもまたウォーキングを楽しくすることとなりました。

南朝の後村上天皇は六年間
この寺で政治を執り、北朝の三上皇と皇太子・直仁親王も当寺をご座所として、奇しくも南北朝が同座することになりましたが、このウォーキングでは南朝の行在所(あんざいしょ)が日・祝以外は閉まっていたので、5月早々に訪ねましたので追加で入れておきます。


ヘルボリス・プラムアイズ キンポウゲ科


すだれ(簾)を楽しむ
河内長野駅前からバスで20分くらいの天野山バス停(金剛寺)前に「すだれ資料館」はあります、ここは地元の天野すだれ(株)が日本文化の継承と、簾を世界のインテリアデザインとして普及する目的で開館されたものです。入場料なしでお土産に簾製のコースター(お土産屋ではいい値段で売っていました)までいただき、丁重なご説明によって、現代では家庭ではあまり利用されない簾の、多方面にわたる利用価値と、簾の歴史を十分に知ることができました。(今回は持って行ったレンズが不適切なもので見ずらい点はご辛抱ください、花はマイクロニッコールレンズを使用しました)



















井上すだれ本社・工場とすだれ資料館入口

「すだれの発祥と歴史」

簾は中国の文献記録「漢書」の文帝(紀元前180~157年頃)に簾の記録があり「盗人は廟の神殿入り口の簾を割り取り…祭器を盗んだ…」とあります。

簾の名は「簀(す)の子」から起こった説と、住むところの「巣」の出入り口に垂れ下げて風雨邪気をさけたのが起こりの二つの説があるそうです。

日本では崇神天皇(記紀によれば第10代天皇?)、たぶん3~4世紀にはあったと伝えられています。弥生時代には「荃(せん)」が漁猟に使われており、両者は技術的に酷似しているので、古墳時代には既に存在していたでしょう。記録的には7世紀中頃「万葉集」に「簾」の言葉が出てくるそうです。

額田王が天智天皇(在位669~671年)を想って作った和歌
「君待つと わが恋おれば わが屋戸の 簾動かし 秋の風吹く」と詠われています。

やがて、平安時代以降日本の建築様式に合わせて、貴族をはじめとする人々の住生活に欠かせないものとなってゆきました。源氏物語など平安時代の絵巻物にたくさん出てきますので、皆さんもご承知ですね。

鎌倉時代になっても宮殿・神社・寺院では立派な御簾(みす)が人と神仏を隔てるものとして使用され、江戸時代には美的感覚と涼風と採光面から、庶民の暮らしにも普及してきました。私の子供時代には、家じゅうに簾が使われていたことを思い出しています。(参考:資料館のパンフレット・その他インターネット)


























簾の原料竹(真竹・淡竹・孟宗竹・大名竹)と竹を小割にしてゆく機械群、仕上部分は今も熟練の技師の手によるそうです



簾の製品


































現代インテリアとしての作品とキルギス共和国のすだれ(材料の一本ごとに毛糸を巻き付けて編んであります)










































      上:百年以上前の精密な中国のすだれ
      右上:ふすまなど日本家屋のインテリア
      右下:竹の節を活かしたすだれ


    御簾(みす)は内側から見ると外がよく見え、外側からは見えにくくしてある
    との説明に、なるほどと感心してしまいました。
    最近はビニール製の簾まで見かけます、家庭でも一枚くらいインテリアとし
    て本物を使いたいものですが値段がね。



天野山金剛寺
奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が開創、弘法大師空海もここで修行したといわれています。平安末期に高野山の僧・阿観上人が金堂・御影堂などを建立して再興、南朝や北朝の行在所となり、「女人高野」といわれ、戦火に遭うことがなかったので国宝など貴重な文化財が多く残されています。四つの国宝では金堂の本尊・大日如来坐像をはじめ他2体など、建物の多くが重要文化財(37件)、境内は国の史跡に指定されています。
今回はもっと調べればよかったのですが、金堂が昭和の大修理の完成が迫っていて、3月30~4月1日に落慶祭が開かれるとのことで、国宝の仏さん方は拝むことができませんでした。いづれ再訪して金堂及び南朝の行在所をご紹介します。


















南大門と楼門


境内へ入るとエドヒガン桜が満開でした、左:多宝塔・右:大修理完成まじかの金堂(鎌倉時代)


金堂の木造大日如来坐像(平安時代)と左:隆三世明王・右:不動明王(いづれも鎌倉時代)2017年国宝に認定 
(小さなパンフレットより転写)



















平安時代建立の多宝塔と境内より見た楼門(鎌倉時代)



南大門より多宝塔(重文)(カメラ:Ricoh GXR 5/5)


金堂と鐘楼 梅と桃は咲いていますが真ん中の桜(ソメイヨシノ)だけは蕾でした

「金剛寺の小話」

河内長野市には京都・大阪・堺から高野街道が集まりその西側に天野山金剛寺があります、当時の高野山は女人堂より奥は女人禁制でしたから、高野山詣での途中に女性の立ち寄るところだったので「女人高野」と呼ばれるようになりました。

冒頭に書いたように、南朝と北朝の行在所(あんざいしょ)があった、そのいきさつは平安末期に阿観上人が本寺を再興したのですが、バックアップしてくれたのは、父・鳥羽天皇、兄に後白河天皇をもつ八条女院が父の所領の半分を受け継ぎ、時の権力者となります。阿観上人に帰依していた彼女が、高級官僚で付き人の(のちに出家)浄覚・覚阿姉妹を通じて金剛寺再建に尽力しました。この姉妹は上人亡き後、第二・三代の院主となります。

この八条女院の所領が南朝側に引き継がれた結果、金剛寺が京を追われた南朝の拠点となりました、ここで仮の御所として(1354~59年)政治を執ったのは後村上天皇(父:足利尊氏と共に鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇)でした。このとき北朝の三上皇(光厳・光明・崇光)をこの寺に幽閉しましたので、南北朝が同じ寺に住むこととなったのです。

このような経緯によって、金剛寺は栄華を極め、世が武家社会に変わっていっても、金剛寺は時の武将との強いつながりを保って生き抜いていきます、その原資となったのが僧房酒「天野酒」で、織田信長・豊臣秀吉がこの酒を愛し、秀頼は金堂の大修理を行いました。これらの生き抜くすべは、学問所としての本寺がアカデミックな活動によって、多方面にわたるスペシャリストを育成した結果によるものでした。



北朝行在所の庭園の一部



三上皇の行在所



休憩:次は花の文化園です(注意:北朝行在所へは写真の食堂(じきどう)の方向へ、入り口は別になります、共通券あり)


南朝の行在所(5月5日追加)

96代・後醍醐天皇(南朝第一代)の子であった後村上天皇は97代に当たりますが、これは南朝を正統と認めた明治政府(1911年)以降の歴史で、それ以前は皇統を争う時代が続いていたようです。その中で後村上天皇は処々方々へ(観心寺など)移動しながら、約20年も天野行宮を維持していました。これが金剛寺の一塔頭・摩尼院で、建築は1500年代末~1600年初です。(カメラ:Ricoh GXR)

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南朝行在所への道(建物は茅葺ですが敷地が狭すぎてカメラに入りませんでした)


後醍醐天皇の御座所(なぜか撮影禁止でしたから外から撮りました)



摩尼院庭園(北朝側と比べて手入れをしていないようでした)


文化園

「花そのものの美しさだけでなく、日本をはじめ多くの国で育まれてきた、花に関する様々な文化も楽しむことができる施設」といううたい文句で、鶴見緑地で行われた「花の万博」と同じころに、河内長野市に開館した大阪府立の植物園です。
雨が降ったりやんだりのお天気の中を、一応地図にあるところ見て回りましたが、花は少なく苗が植えられ育つのを待つといったガーデンが多く、丘を登るにつれガーデンならぬ雑木林が多くなり、何やら中途半端な植物園に思えました。
4~5月頃なら花も多くなり楽しめるだろうと思いますが、なんせ不便なところですから、イベントをやっている日をめがけて行かれるといいでしょう。ここでは咲いていた花の画を少しお目にかけます、片眼で見るとより立体的に見えます。(花の名前は間違いもあると思いますので、お知らせいただけると幸いです)    



花の文化園入口


































クリスマスローズの色々   白椿 ツバキ科


































白はスノウドロップ 青いのはムスカリ               梅園にて
 

大温室で


















君子ラン                     コチョウラン

















          キダチベコニア              シレリアナ ファレノプシス属 フィリッピン・ルソン島



梅園よりイベント広場





ミズバショウとツクシ(土筆)



みちばたの菜の花

かくして、簾と古寺と花の旅を終わります。4月は下旬ゴールデンウィークまでに、再び花の旅を続けたいと思っていますBye

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