108(123) 11 コダイ・ウォーキング レポート

 岐阜県の古代と紅葉を訪ねる 2 days walking

岐阜県は東海地方では最も大和に近く多くの古代遺跡を残していますが、海のない山国、平野部は名古屋に連なっていますから、美濃と尾張は不可分の付き合いであったでしょう。

「古事記・日本書紀」によれば第12代景行天皇はこの地方の豪族、祟神天皇の皇子・八坂入彦の子八坂入姫を妃にして第13代成務天皇を生んでいるということですが、景行自身の存在も疑われている時代ですから、神話としておき、史実としては壬申の乱(672年)では大海人皇子がこの国を拠点にして関が原へ向かったことはご存知のとおりです。

30000年前の旧石器時代から濃尾平野北辺部の段丘上や台地(日野遺跡・寺田遺跡・椿洞遺跡=いずれも長良川の本流・支流)に人々が活動していた遺跡が確認されているそうですから、興味深い地方です。では古代へと旅立ちましょう。この度は大阪よりレンタカーを運転してゆきましたが、参加が4人でしたから気楽なものでした。
荒尾南遺跡(大垣市):名神・養老JCより北へ東海環状道を大垣西IC作るときにその付近で発掘調査が行われ、東海地方最大の弥生時代遺跡600件以上の家屋ぐんやそれに伴ういろんな様式の墓群、多数の土器・石器・木製品、特に82本の櫂を持つ大型船などを描いた線刻絵画土器が見つかっています。これらの遺品は岐阜県博物館に収納されていますが、この線刻土器は、めったなことでは出品しないと聞いてがっかりしましたね。
この遺跡は大垣西ICのループなどですべて道路の下となり、すべて埋め戻されていますから立ち寄りませんでした。



「80本の櫂を持つ大型船」線刻絵画土器の展示写真を一部見やすくしました 大垣市歴史民俗資料館
下は原画 

美濃国分寺跡(大垣市)

741年(天平13年)、聖武天皇により美濃国府中青野ヶ原(現大垣市)に建立される。775年に暴風雨で破損したという記録があり、887年火災で焼失。本尊などは運び出されたが、南北朝時代の1338年青野原の戦いなどの戦乱で焼失し、本尊も行方不明となりました。現在史跡公園として伽藍配置通りに整備されています。















左:天平時代の国分寺、七重塔にご注目
右:講堂跡と国分寺一帯、200m四方ありました




大垣市歴史民俗資料館 ここでは美濃国分寺と次に行く昼飯大塚古墳の資料を展示しています
































































人物埴輪と家型石棺

















左:墳丘墓出土の葬送用土器
右:日常使用の須恵器


昼飯(ひるい)大塚古墳

東海地方最大の前方後円墳、全長150m、葺石と埴輪、古墳時代前期末(3世紀後半〜5世紀初)


 
正面は完全に復元された部分













左:古墳の全体像  右:後円部より前方部を見る


横蔵寺(揖斐川町谷汲神原)

平安時代、最澄が803年頃創建、信長の兵火に焼失し江戸時代再建、美濃の正倉院と云われるほど重要文化財が多いそうです、最澄作といわれる本尊の十一面観音は秘仏です。


真っ赤な橋に紅葉もびっくり
































 
   広大な寺域なのに本堂は質素でした

   雨が降り、人はまばら、紅葉もパラパラ、写真はピンボケ、
  














谷汲山
 華厳寺(揖斐川町谷汲徳積)

798年(平安時代初期)創建、西国三十三番札止めの霊場、毘沙門天立像は重要文化財、本尊・十一面観音立像は秘仏。さすが
白装束の方々もおられて、賑わいと立ち並ぶお土産物店にはおどろきました。こんな離れて辺鄙なところが終着駅とは、でも紅葉の美しさには堪能しました。 

 
大阪から一番遠いのは那智の青岸渡寺、二番目がここの華厳寺ですかね



長ーい参道は紅葉のトンネル


堂々とした山門


華厳寺の山門より

 
本堂へ

閑 話
昨夜は関市のホテルに泊まったのですが、一番のお目当ては関のウナギ、ここには二・三軒の老舗がありますが、一番古いのは150年前創業、店の構えも江戸や明治に飛び込んだような雰囲気、味の方はウナギはウナギですが、生きてるのをさいて直火で焼きますから、皮が香ばしくおいしかったです。昼時とか休日の夜などは店の前に並んで待つそうですから、こっちの人は名古屋のひつまぶし店に並ぶように、ウナギ好きでまた並ぶのも好きなんでしょう。大阪人はそんなとこへはよう行きまへんやろ…。


塚原縄文遺跡(関市)

縄文早期よりの生活跡、中期の竪穴住居群、古墳などがある総合公園と展示館があります、展示館は祝日の翌日で休館でした。

この遺跡は縄文早期に人が住み、その後2500年見捨てられ、また中期に人が住み、さらにまた2500年隔てて古墳時代後期にそこに古墳が造られるという、時系列のつながらない、各世代がかってここに先祖が住んでいたことを知らない人々が住んでいたという歴史があります。発掘作業のご苦労が偲ばれます。


この地は墓地が多いところでした













縄文
から弥生時代へとそして古墳時代へ

















弥勒寺官衙(かんが)遺跡群と弥勒寺跡(関市)


壬申の乱で大海人皇子に与した豪族から美濃は発展し、律令制のもとに建設された官衙のうち、郡衙の施設(群庁院・正倉院・館・厨など)がすべて把握できる全国的に類例のない遺跡、弥勒寺公園一帯に集まっていますが弥勒寺は1920年に数百体の円空佛と共に焼失してしまいました、現在は新しいお堂が建っています。



官衙跡 古代びとが歩いているところを思い浮かべましょう


とてつもなく広い官衙群跡


新しい弥勒寺前にて

圓空のこと:円空(1632-1695)は江戸時代前期の修験僧(廻国僧)・仏師・歌人。各地に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで知られる。
(岐阜県羽島市で生まれ、その後活躍の場を関市に移しました、円空館が晩年を過ごした弥勒寺の跡公園の西、800mのところにあります=風来坊主)。
円空は一説に生涯に約12万体の仏像を彫ったと推定され、現在までに約5,300体以上の像が発見されている。円空仏は全国に所在し、北海道・青森、から三重県、奈良県までにおよぶ。多くは寺社、個人所蔵がほとんどである。また、北海道、東北に残るものは初期像が多く、岐阜県飛騨地方には後期像が多い。円空仏以外にも、和歌や大般若経の扉絵なども残されている。(ウイキペディア百科事典より抜粋・加筆)


















薬師如来立像」東京博物館よりコピー
上:関市にある円空館

弥勒寺跡の林を抜けて行くと円空館に着きます、だがこの日は祝日明けの休館でした、ここでは30体の円空仏を拝めるそうですが残念でした。





岐阜県立博物館(関市・百年公園内)

人文展示室−1「きょうどのあけぼの」には岐阜県下の古代遺物が所狭しと展示されていました。百年公園は関市の高台にあり、歩いて数分の坂には本格的なケーブルカー、そして美しい建物がありました。
今回ここでは、山奥の方の徳山遺跡の出土品を特集して展示しているようで、その土器類の芸術性の高さにに縄文時代の奥の深さに感銘を受けました。










































徳山村は閉村して30年


縄文15000年のDNAが芸術性を継承してゆきましたね


主役はライトが当たりすぎてこれ以上修正がききません



徐々にこんなにシンプルになったのでしょうか



   







      左:木造 阿弥陀如来立像(レプリカ)
     原資 御嵩町 願興寺蔵 重要文化財 平安後期12世紀


     最後は飛騨の匠と思われる阿弥陀さんに締めてもらい
     岐阜県の古代を終わります。岐阜の古代にはそんなに
     期待していなかったのですが、そこには様々な感動が
     待っていました。

     古代のなんという芸術性のある暮らしと、中国文化を
     吸収しようという強い意志と創造してゆく日々の充実
     が迫ってきます。

     それに比して現代は、太平洋戦争敗戦後の再建の槌音、
     神戸や東北の天災後の復興の速さ、これらの活力は失
     われていませんが、「ものつくり」の分野では停滞を
     余儀なくされ、これからは中国やインドを越えてアフ
     リカの時代といわれるようになってきました。

     もはやその時代には生きておれませんが、戦争や神戸
     を体験し、高度経済成長の渦中に先進国の技術導入の
     一端を担い活動しえたことは、目くるめく時代相に生
     きてきた感慨がありがたいことだったと思っています。



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