特別番外編 第4回 青森の縄文時代を訪ねる-2

  2017年11月13~17日

                  
ここでは青森市の三内丸山遺跡の南方にある「小牧野遺跡」と下北半島北東深くにある「大平(おおだい)山元遺跡」の初訪問レポートと、偶然知ることになったこれも下北半島北西の奥深くにある「五月女萢(そとめやち)」遺跡展をご紹介します。


「五月女萢(そとめやち)遺跡」展

この遺跡展は偶然に出会いました、今年の立佞武多はどんなかとたちねぶた館に立ち寄ったところ、案内の人がこちらも見るかと云われたので、何の展示かとのぞくことにしました、だって名前すら読めないのですから。しかし入ってみて驚いたり喜んだり、そこは縄文時代の遺跡展だったのです。

そこは縄文後期~晩期に亀ヶ岡文化と共に約1000年間にわたる遺跡で、2005~08年の発掘調査と2017年発掘調査中の報告展となっていました。
ここの遺跡からは大量の土器・石器・土製品の遺物が発掘され、環状に配置された土坑墓と7体分の人骨と犬、ゴミ捨て場など、縄文人を彷彿とさせる展示でした。今回の旅での最大の拾い物となりました。





























































上:左は実物、右はレプリカの人面
右:遮光器土器の人面型浅鉢







北海道系土器・堂林式 内から棒状工具で押圧して外面にこぶ状の突起を作ります、丸木舟で交流していたのですね。


小牧野遺跡の環状列石

青森市南東部、八甲田山西麓に広がる荒川と入内川に挟まれた、青森平野を一望できる標高80~160mの舌状台地上に立地する、縄文時代後期前葉(紀元前2,000年頃)の環状列石です。       (注:三内丸山遺跡の南方約10Kmにあります)

環状列石は、中央帯が直径2.5m、内帯が直径29m、外帯が直径35mの三重の環を描くように配置され、さらにその周りを囲むように直径4m前後の環状配石や一部四重となる列石などが配置されており、全体では直径55mにものぼります。環状列石の内帯や外帯は、平らな石を縦横に繰り返し、あたかも石垣を築くように並べられています。この縦横交互の列石は全国的にも珍しく、“小牧野式”配列(配石)とも呼ばれています。

環状列石のほか、竪穴建物跡(住居跡)や貯蔵穴、捨て場跡、湧水遺構など、生活に必要な遺構や、土坑墓群、土器棺墓などの墓制に関する遺構も発見されています。 また、環状列石に隣接する墓域や捨て場跡を中心に、土器や石器など日常的に使用されている道具のほか、土偶やミニチュア土器、動物形土製品、三角形岩版、円形岩版など、祭祀的要素の強い遺物が出土しています。特に三角形岩版は、400点以上も出土しており、環状列石などで何らかの儀式が行われたものと考えられます。

環状列石は、縄文時代の土木技術上、極めて先端的かつ完成度の高い遺構であり、日本列島にかつて独自の文化が存在したことを示すとともに、縄文時代の宗教的な思想のもと、人々の狩猟、漁労、採集による定住の在り方や自然との共生を示す顕著な物証の一つです。(青森市教育委員会資料より)


雪の降りはじめた環状列石

このサークルの外郭は付近の集落のの死者を葬るお墓になっていて、中心部ではお祭りや何らかの儀式がおかなわれていたそうです。このお祭りの場を設けるために共同作業で作り上げたようですが、そうすると労働力を組織する社会と豊富な生産力が縄文後期にはあったことがわかります。(この項は「日本人の起源」埴原和郎編・朝日新聞社を参考)


最大直径55mの三重の輪にいったいどれくらいの縄文人が集まったのでしょう



土坑墓



今年は今日でおしまいと鉄柵をを取っ払う方が云っておられました

ストーンサークルはいくつある?:秋田県74・北海道29・静岡県3・岐阜県2・愛知三重県 各1など179ヶ所。 岐阜・愛知・三重以西はありません、6000年前から造られ最盛期は約3000年前頃、上記小牧野の環状列石は縄文の終わりころ約2300年前ですから最も遅いでしょう。(「月と蛇と縄文人」大島直行著より抜粋・加筆)


小牧野遺跡保護センター

2015年に遺跡から1.5Km離れた,閉校の小学校を改修して大きな博物館に負けない立派な展示館ができました、身障者への配慮、子供たち向けの案内、英文解説、無反射ガラスの使用など、配慮が行き届いた保護センターは、全国的に調査してこられた竹中富之館長に負うところが大きいと思いました。考古学のお話をお聞かせいただき楽しい訪問となりました。またこの付近から発掘された展示品も素晴らしいものでした。


スペース十分の考古学空間











































赤彩・彩文土器(縄文中期~後期) 赤色原料はベンガラ(酸化第二鉄) 赤色は血や太陽色として生命を表す神聖な色でした


石棺墓の様子 


土器棺

この地方では、亡くなった人はいったん石棺甕(かめ)に収め、その後骨だけになったものを上の土器棺に入れて葬ったようです。
この風習は中国の雲南省の東の広西壮族自治区で、いったん土に埋めたのち、清明節(中国の先祖祭、毎年4月初旬頃、国の祝日)のときに、親族一同が集まって、お骨を海水又は川で洗い清めて再び埋葬します、私もこのお祭りに参加させていただきました(風来坊主の旅日誌をご参照ください)。
この風習は60年位前に九州の与論島へ行ったときにも続いており、防風林の中に甕棺に入れて、立ち並べてありました。青森の風習も縄文時代に中国からどう伝わってきたのか、あるいは偶然に同時発生した風習だったのでしょうか。

 
土偶の数々


鐸(たく)型と動物型などの土製品


アクセサリーの数々


素晴らしい展示の一部

大平(おおだい)山元遺跡

2009年10月3日の朝日新聞に「日本の土器、世界最古なの?」という記事が、東京・古代オリエント博物館で開かれていた、世界各地の古い土器など、約200点を集めた展覧会「世界の土器の始まりと造形――ドキドキ!土器って面白い!」に合わせて載っていました。

記事の中で同館研究員の津本英利さんが、大平山元遺跡の土器が放射性炭素年代から推定して約16000年前、遅くとも15000年前には日本列島では土器が使われている。ところが、他地域の最古の土器をみると、南アジア、西アジア、アフリカが約9千年前、ヨーロッパが約8500年前。でも、ロシアのグロマトゥーハ遺跡などでは、約1万5千年前と考えられる土器が見つかっています。日本だけが古いと言うより、東アジア全体で古い時期に土器が生まれた、とみるべきではないでしょうか」。

ちなみに現在、国内最古と考えられているのは模様のない「無文土器」。主に東日本で出土している。だが、約1万4500年前ごろになると、粘土ひもをはり付けた「隆線文土器」と呼ばれる土器が生まれ、全国へ広がる。

中央大(現)教授の小林謙一さんは「日本では、氷河期が終わりに近づいた約1万6千~1万5千年前、気温上昇にともない、亜寒帯的な森林から落葉樹も交じる森林へと変化した」。「その結果、ドングリなどの植物質の食料が入手しやすくなり、それらを食べるためのアク抜きに必要な容器として、土器が生まれたのではないでしょうか」と話しておられる。

古代オリエント博物館の石田恵子研究部長によれば、ロシアでは防寒や調理に使う「魚油」をとるために、魚を土器で煮ていた可能性が指摘されている。「土器使用の始まりには、漁撈(ぎょろう)も大きくかかわっているとにらんでいます」。

土器はある一カ所で誕生し、広がったのではなく、おそらく複数の場所で前後して発明された可能性が高い。

南九州縄文研究会代表の新東晃一さんは、「最古級の土器は東日本に多いが、遅くとも約1万3千年前ごろには鹿児島でも無文土器が使われていると思う。北と南で別個に土器が生まれ、それらが広がったと考えるべきだ」と、指摘される。

筑波大教授の常木晃さん(西アジア先史学)によれば、西アジアでは「土器の利用以前から、焼成された土製品は作られていた」という。「つまり、彼らは『粘土を焼くと硬くなる』ことを知っていたんです」 だが、実際に土器が使われ始めるのは9千年前。理由について「西アジアでは先土器新石器時代から小麦が主食。パンを焼くのに、土器を作る必然性はなかったのだと思います」と話す。

歴史発展のモデルは決して一つではない。「最古の土器」たちは、そのことを改めて教えてくれているのではなかろうか。(宮代栄一・記 本記事は抜粋してあります=風来坊主)
この記事を読んで、「日本の土器が世界で一番古いんや」と誰彼となく話したのを覚えている方も多いでしょう。そんなわけで、念願の大平山本遺跡へたどり着いたのです。
遺跡は青森駅から約1時間、下北半島(東側)の陸奥湾沿いに北上し(わかりにくいですがバイパス経由が近いです)、外ヶ浜町から西の方へ約11Km入ると大平山元に着きます、この道を雪を踏んで峠を越えると五月女萢のある十三湖へとたどり着きます。



世界最古級15000年前の土器片




可愛い展示館がありました






木を伐り獣を追いかけていた縄文人の暮らしが偲ばれます、石鏃(石製の矢じり)によりこの時代にすでに
弓矢が発明されていたことが明らかになりました


彫搔石器

後期旧石器時代に出現し、同時代を特徴づける縦長剥片で両側面を並行にする剥離技術のこと。これにより、同じ規格の石器の剥片の量産が可能となった。長さ5センチ、幅1.2センチ以上の剥片を石刃とした(ウィキペディア百科事典)



































復元縄文人の姿国立歴史民俗博物館 イラスト石井礼子氏
 



↑↓宇鉄遺跡の土器(縄文後期・約3000年前)


宇鉄遺跡とは
青森県北西部、津軽海峡に突き出した竜飛岬の南東、約六キロメートル、海抜二〇メートル前後に広がる海岸段丘上に立地、国宝1重要文化財599点を出土する。
特に有名なのは、1基の墓からヒスイ製の丸玉1点と、約350点の碧玉製の管玉が出土したことである、管玉は質感のある深い緑色で、丁寧に磨かれて光沢を持ち、長さ6~9ミリ、直径2~3ミリの細身のものが中心である。孔の大きさは1ミリ前後で、製作技術の高さには驚かされる。そして、東日本で1つの墓からこれだけ多くの管玉を出土した例はない。(陸奥新報より抜粋)
「ここの出土品の大半は青森県郷土館に保管されています」
縄文人とは-1:約1万5000年前(紀元前131世紀頃)から約2,300年前)紀元前4世紀頃)、世界史では中石器時代~新石器時代に相当する時代の日本に住んでいた人たちであり、旧石器時代以降、日本を中心に東アジアで始まった土器の出現、そして弓矢の発明、竪穴住居の普及、貝塚などに代表され、考古学的には日本よりむしろヨーロッパ世界で探求・考察されています。

これまで約10年以上かけて日本の所々の縄文時代をはじめとする古代遺跡を巡ってきましたが、そこで見る土器や土偶そして竪穴住居には10000年かけてもあまり変化しない姿をたびたび見てきました。なんと変化しない暮らしだろう、縄文人の心にはどんなDNAが継承されていったのだろうと、かねがね思うことはあっても、そこを深く掘り下げようとは思っていませんでしたが、これからの暮らしの時間を、関係書を読み、深く考えてみることとしました。

これからいろんな研究・著作を読み解きながら、縄文人の精神性における姿を、私なりに解釈してゆき、ご同好の方々のご意見・ご指導を得たいものと思っています。

縄文から弥生時代へは地域差があるものの、水田耕作を特徴とし、中国・朝鮮からの移民による大陸文化の伝播が、縄文人から新たな日本人へと変容させるとともに、大きな争いのなかった長い歴史が、身分制と戦争を引き起こすこととなりました。
縄文人の精神的な生活の基盤は、私たちのような科学至上主義の時代に生まれ育った者には、狩猟と果樹栽培と交易そして宗教以外になかった1万数千年にわたる暮らしの中心である精神性を単純に推察できるものではないと思います。

そこへ、踏み込んできたのはスイス人のカール・ユング(精神分析学)からルーマニアのミルチャ・エリアーデ(宗教学者)にうけつがれ、彼は人間が世界を認識するのは生理的機能ではなく、「呪術宗教的心性」によるものであり、イメージ・シンボル・シンボリズムを明らかにすれば歴史以前の人間をよく理解できるだろうといっています。

彼の象徴理論は、ドイツ人のネリー・ナウマン(1922~2000年、日本学・中国学・民族・民俗学・哲学)に受け継がれ、彼女はバイエルン国立図書館に勤めて、フランクフルト大学のカール・ヘンチェの著書の図像解析学の見識を深めました。

フライブルク大学で東洋学研究所日本科の教授を1985年まで12年間務め、膨大な業績の中でも「日本の記紀神話研究」が主題で、晩年は縄文文化でした。5度にわたる来日研究で、多くの遺跡や資料館を訪ねて収集したデータに基づき、これまで4冊の翻訳が出版されています。

絶筆は「生(いき)の緒-縄文時代の物質・精神文化」でした。彼女はエリアーデの象徴理論を基盤にして、時空を超えた資料の比較検討が徹底しており、人間にはるか離れた空間があっても、同時発生的に文化がうまれることを、縄文土器や土偶の型や文様が中国、古代中近東、アメリカ大陸と比較検証されています。
(ここまでは「月と蛇と縄文人」寿郎社・2014年・大島直行著=北海道考古学会長など考古学の大家)を参考にご紹介しました。
これでいったん第4回青森紀行を終わります、北海道と下北半島の宇鉄遺跡は同時に見ることで、両者の交流がよくわかるでしょう。次から次へと見るべき課題がふえて困りますね。では次は岐阜県でお会いしましょうBye

 おまけ=帰りの機内より


すんまへん、どこかわかりまへん



北アルプス


乗鞍岳

 
御 岳


表紙に戻る   第4回青森-1へ行く