第106(121)回 9月 コダイ・ウォーキング レポート


北河内の古代を訪ねる


生駒山の山並みが淀川へ沈んでゆくところは北河内と呼ばれていて、枚方市をはじめとして七つの市があります、生駒山

系の下を北流する古代の天野川流域は農耕と渡来民族による馬の生産、山麓地帯は養蚕と機織り技術集落で構成され、大

阪と京都、奈良、京都と高野山を結ぶ中継地点として発展してきました。

今月はこの地方の古墳群とさらに古代のお社・磐船神社などを訪ねて
古ーい大阪を偲びました。道々には古い灯篭が並

び立ち、石仏もたくさんあるそうで往年の繁栄ぶりが残っています。

出発の始まりは京阪電車の支線の交野(かたの)駅でしたが、一日に2本しかないバスに乗る予定が、出だしから間違った

バスに乗ってしまい、仕方なく走っていると今日の途中の目的地であるバス停を偶然発見、急遽下車して何とか全コース

をたどりました、一部はタクシーを利用して、結局1時間も時間がありあまりましたが、8人も行くとタクシーの利用も、

そんなに高くつかないことがわかりました。


このウォーキングは9月24日でしたが、25日から入院して10月3日の今日退院しましたので、レポートが遅れましたことをご了解
のほどお願いいたします。


交野市歴史民俗資料展示室


古代北河内の中心は現在の交野市の周辺だったようです、ここには多くの古墳があります。渡来人は好き好きに各地に分散したのではなく、当時の政府が指定したところに住み着きましたから、中国から養蚕・機織り技術を持ってきた人たちが、天野川流域で発展していったのです。周辺の歴史資料館では、歴史と発掘された資料を楽しむことができました。
この建物は1929(昭3)年に交野無尽金融(株)の本社屋として建てられた、鉄筋コンクリート製の中世欧州風で国の登録無形文化財になっています。































左:弥生時代の暮らし  右:南山遺跡の弥生時代の出土品



車塚古墳出土品





キリシタン御法度の高札


機物(はたもの)神社

1600年前漢より渡来した機織りを専業とする庄 員に与えられたこの地方は、その後、聖武天皇によって交野忌寸(かたのいむき)の姓を与えられ、開元寺を建立して庄員を祀っていましたが、平安時代にこの地に遊びに来た貴人の天体崇拝思想や文学趣味によっていつしか織女星(棚機姫)転じてしまいました。現在は七夕祭りの神社として有名です。
昔は広々としたお社だったのでしょうが今は細長ーく400m以上あります、七五三のお嬢ちゃんが可愛かったです。
機物神社のホームページをご覧ください。
七夕まつりの案内
youtube 七夕祭りの動画

「七夕」:中国・朝鮮・台湾・ベトナム・日本などで行われる節句で、日本では元来旧暦の7月7日に行われましたが、明治以降新暦の7月7日に落ち着いて、お盆とは関係がなくなりました。
中国で生まれた七夕は漢の時代に織女と牽牛の伝説が「古詩十九首」のなかに表われたのが始まりで、日本へは奈良時代に伝えられました。
「たなばた」の語源はいろいろありますが、牽牛・織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もあります。
私の子供時代には竹を伐ってきて、たくさんの色とりどりの短冊に絵や文字を書いてぶら下げて、軒端に出して楽しんだものでしたが、最近はほとんど見なくなりました。





















すくすくと育ってね!!

「蚕(かいこ)のはなし」西本願寺月刊誌「御堂さん」10月号「養蚕農家・糸井文雄氏(群馬県)の話より抜粋」

蚕の繭(まゆ)から糸を引き絹織物とした歴史は古く、古代中国から日本へは弥生時代に稲作とともに伝わったようです。蚕は何千年と人に飼われてきたので、自然界で生きることができず成虫(蛾)になって羽はあっても飛ぶことができません。
そんな昆虫を日本では「天」の「虫」で蚕と書き、「おかいこさま」と呼んで敬ってきました。

伝来以来長く中国からの輸入で需要を満たしていましたが、幕末期には技術開発が進み国内最大の輸出品となり、明治期には最新式の製糸機械が導入され、群馬県に世界遺産となった富岡製糸場が造られました。

現在では外国産の生糸や化学繊維にによって、生産量はピーク時の1%未満に落ち込みましたが、糸井文雄さんは40年にわたって独自の工夫をもって、卵から繭まで上質な生糸の生産を続けておられます。

蚕の卵=毛蚕(けご)は約1ヶ月かけて繭になります、現在の養蚕農家は三令に育った蚕を仕入れるので、年4回の出荷しかできませんが、糸井さんは毛蚕から育てるので年7回の出荷ができます。

出荷した繭は製糸工場で生糸となり、織物工場で反物になります。繭の中のサナギは製糸工場で乾燥させて殺してしまいます、成虫(蛾)は出てくるときに繭を破ってしまいます、一本のつながった糸でできた繭は1500mの長さがあります。

毛蚕の時はゴマ粒みたいで人工飼料を与え、サナギが繭を造り始めるまで桑の葉だけを食べます。夜も昼も大量に食べるので桑もたくさん必要で、桑の木は13年ごとに改植しなければならず、蚕が好むのは若木の肉厚でハリのある葉です。

現在桑畑の天敵は近くの野菜農家の若い世代が不注意に農薬を使うことであり、農薬の付いた葉を食べると蚕はすぐに死んでしまうことです。

着物一着分の絹織物を作るのに、繭が4.9Kg、そのため蚕が2700頭、桑の葉が98Kg必要となります。

倉治古墳群:この古墳は関西電力の変電所内に残された円墳が8基あり、周辺は古代には機織り集落があり、秦氏などの渡来系民族の墳墓と考えられています。普通は見学可能のはずですが、この日は日曜日で門が閉まっていて、守衛さんの姿も見えませんでした。


磐船神社


「天の磐船」とよばれる天野川を跨ぐように横たわる高さ約12メートル・長さ約12メートルの舟形巨岩を御神体として本殿はなく、巨岩の前に小さな拝殿があります。神社の起源は不明ですが、 饒速日命(にぎはやひのみこと)がアマテラスから十種の神宝を授かり天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨されたとの伝承が日本書紀にあるそうです。
交野に勢力を保っていた肩野物部氏という物部氏傍系一族の氏神であり、中世以降は、山岳信仰や住吉信仰の影響を受け、現在も境内には住吉大神の石仏や不動明王石仏を初め神仏習合の影響が色濃く残されています。うっそうとした森蔭にどこから来たのか巨石が横たわり、神秘的な雰囲気でした。ここの岩窟を巡る有料道がありますが、以前に事故があり現在は65才以上・10才以下の通行は禁じられています。





















禁野車塚古墳

4世紀末から5世紀初の大阪府内最古級前方後円墳古墳、全長110m、巻向の箸墓古墳と相似古墳。物部氏は西方から大阪湾より河内湖に入り、淀川→天野川を経て大和へ入ったと考えられています。傍系の肩野物部氏は天野川に定着したのでしょう。禁野とは当時の大王が狩猟のための土地として一般人の利用を禁じたことに由来しているそうです。




















百済寺跡

奈良時代(750年頃)に百済王敬福によって建立された大伽藍で、新羅の感恩寺と同形式であり、古代日本と朝鮮半島との交流関係を知る上で重要な遺跡です。国の特別史跡に指定され、全国初の史跡公園として1965年に整備されました。







広大な百済寺の回廊跡



講堂跡


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