第12回ブッダ・ウォーキングレポート


近江大津宮跡と廃寺跡を巡る


近江大津宮をにわかに興味深く思われる方は少ないでしょう、何故なら飛鳥の地から平城京も平安京もない時代に淡海の大津に都を移して、わずか5年で消滅した都でしたから、その都跡がどこにあるかということは江戸時代から研究されてきましたが、1974年(昭49)になってようやく都の中心が大津市内錦織(にしごおり)地区と特定されるに至りました。然しそこは住宅街の真ん中で空き地を掘り返すことだけで都の規模さえ定かではないようです。

聖徳太子にはじまる仏教を国政の中心においた大和朝廷では、都と寺院は切れない縁で結ばれこの都の四方を囲むように当時としては飛鳥寺や川原寺クラスの大寺が建立され、鎌倉時代まで存続した寺院もありましたが現在では園城寺(三井寺)を除いて全て廃寺となっています。

私たちは梅雨のさなかで雨を覚悟していましたが好天気に恵まれて、これら廃寺跡と大津宮跡をたどり古代日本の面影を偲ぶことができました。今回は美しい堂塔が並ぶ風景はありませんがものさびしい廃墟にご自分で飛鳥寺や法隆寺の堂塔を建ててみてください、きらめく琵琶湖と比叡の山並みの間の丘陵地に、きっと素晴らしい都の姿が浮かんでくることでしょう。

なぜ飛鳥から近江へ遷都したのか
琵琶湖は飛鳥の地から遠く離れていても、石山寺の門前には6500年前の縄文時代の貝塚があり、3000~2500年の大遺跡が京阪電車滋賀里駅付近に広がり、比叡山ろくには1400年前の古墳群が密集しているなど、この地は超古代から豊かな地であり、水運によって発達してきたことが分かります。

飛鳥と淡海が結ばれていたことは、遣隋使・小野妹子の出身地がJR湖西線の和邇駅と小野駅の間にある小野神社にあることからも推定できるのではないかと思っています。

ともあれ、推古天皇の次の舒明天皇とその妻の35代皇極天皇(同じく38代斎明天皇)の間に生まれた中大兄皇子は、藤原鎌足と謀って蘇我入鹿を討って大化の改新を果たしたことは前に書きました。彼は友好国である百済が唐と新羅に滅ぼされたので、斎明天皇と共に大和にいた百済の王子を立てて都を筑紫に移して百済再興を図りましたが、663年白村江の水軍戦で大敗してしまいました。

そこで、大和にいては唐の水軍が攻めてきては危ないと、北九州から瀬戸内海の要所の防備を固め大津に遷都したとの説があります、中大兄皇子は667年に遷都した翌年天智天皇となりましたが3年目に崩御、5年目には息子の大友皇子と叔父の大海人皇子が天皇の位を争った壬申(じんしん)の乱で叔父が勝利し、天武天皇として飛鳥浄御原宮へと帰って行きました。

このようにはかない大津宮ではありましたが、その後に平城京・平安京へと都が移っても、最澄が比叡山に延暦寺を開いて琵琶湖を中心にした物資の流通を掌握し仏教文化の花を咲かせたことで、華やかさではない実力を今なお保ち続けてることができたのでしょう。

では、そろそろJR比叡山坂本駅から近江大津宮を訪ねるウォーキングに出かけましょう。

西教寺

聖徳太子(574~622年)が恩師の高麗僧・慧慈、慧聡のために、大津市阪本の北方に創建し、久しく荒廃していましたが慈慧大師良源が復興して念仏道場としました、恵心僧都源信(法然上人の師)もここで修行したそうです。室町時代には1486年真盛上人が入寺して堂塔を整え不断念仏道場とし、天台真盛宗総本山として全国に末寺が400ヵ所あるそうです。

ここも織田信長に焼かれてしまいましたが、本堂(1739年・重文)は江戸時代を代表する建築、客殿は豊臣秀吉の伏見城から移築、桃山御殿と称されるとおり杮(こけら)葺きの屋根の質素なたたずまいの下に狩野派の見事な襖絵が各部屋を飾り、小堀遠州の庭園との調和は見事でした。賢人の間には秘仏薬師如来座像(鎌倉・重文)、収蔵庫には平安時代の木造聖観音像や梵鐘(いずれも重文)があります。



西教寺本堂(左奥に客殿が見える)



本堂から客殿へ


・・・ここらでお昼時となりました・・・



















上:280年の伝統の味 鶴来そば本店 上の看板には東宮殿下「賜 お買上げの栄」とあり大正天皇が皇太子のとき来られて明治天皇へのお土産にされたとか、右下には比叡山登り口の石柱が見えます。
右:ざくろの花


盛安寺の穴太(あのう)石組

1486年(室町)に建立されました、あとで訪ねる崇福寺伝来の十一面観音立像(重文)が今もって親しまれていますが、ここは石工穴太衆の出た地として知られ、この寺の石垣を見ると大阪城の城壁を見ているような気分になります。


盛安寺の石組


穴太百穴古墳群

比叡山系の東麓は阪本から錦織にかけて7世紀古墳時代後期の古墳の密集地帯で約30の古墳群があり、古墳の数は1000基以上といわれています、ここの古墳は他の地方の垂直式と異なり横穴がドーム状になっていて玄室に続いています、面白いことにミニチュアの炊飯具セットやかんざしが副葬されていたとか、これは朝鮮半島からの渡来人との関係を物語っているそうです。

この山の斜面に100余りの古墳が散在します


























お棺は石や木だったそうです               重い石を積み上げました

穴太廃寺跡

大津宮の北に位置して7~11世紀の存在した寺院で、大津宮の造営に伴い城郭的な役割を果たすべく再建されたことが発掘調査(1973・84・86年)で分かりました、この遺跡は現在はその存在は土地の古老か文献以外に知る方法はありません、なぜなら湖西高速道路の建設のため埋め戻されて跡形もなくなりました。
高松塚の壁画の粗末な扱い方を思うまでもなく、我々日本人の文化に対する認識の喪失は、これらの文化を築いてきた先祖に対する軽視に他なりません。拝金主義と幹部の汚職で冠たる中国においてさえこんな扱い方をみたことはありません。


土地の古老の記憶ではこのあたりが穴太寺の三重塔のあった所


崇福寺跡

668年天智天皇の勅願によって大津宮の西方・比叡山麓を登ったところに建立され、大津宮なきあとも歴代天皇によって重んじられましたが、鎌倉時代になくなってしまいました。
谷を挟んだ三つの尾根の広大な地域に散在する遺跡をたどるのは日中の暑いさなかには難行苦行ですが、その道すがら「志賀の大仏」と呼ばれる石造の阿弥陀如来に逢うことでその疲れも癒されます、ここは京から近江を結ぶ志賀の山越えの道として存在し、険しい山道を行く旅人が必ずその無事を祈ったことでしょう。
























    志賀の大仏さまと涼しげな滝             


東海自然歩道


崇福寺金堂・講堂跡


小金堂の礎石

南滋賀町廃寺跡(寺院の名前が記録されていないので、地名を付けているようです)

大津宮跡の直ぐ北方にある白鳳時代(629~707年)から平安末期まで続いた寺院跡です、大津宮の所在を調べるために昭和初期から発掘され、飛鳥の川原寺と同じ伽藍配置をとる壮大な寺院だと分かりました。
現在は住宅地の中の小公園としか思えませんが、川原寺の広大さを知っている私たちは遺跡を守り続けることの難しさを覚えずにはおれませんでした。
この場所から西方300mのところに、この寺院のために瓦を焼いた瓦窯群が見つかっているそうです。

南滋賀町廃寺跡より琵琶湖がかすんでいます



五重塔(?)の心礎だけが残っていました


近江大津宮錦織遺跡


天智天皇がいた内裏部分の大きさは、南北240m東西190mとかなりの規模だったことが分かっているそうです。内裏南門の巨大な建物の柱跡が見つかっていますが、その南側にあった政治の実務を司る部分は、もはや住宅が建てこんで調査などできないとうち捨てられています。
けだし、天皇が変わるたびにこんな広大な宮を造るということは、失業対策だったのでしょうか?それとも民からの搾取だったのでしょうか?現代の政治を見ても人間のすることは古代も今もさしたる変化はないようですね。

2車線の道路から写した第2地点内裏のあったところ


内裏の建物は左の道路の向こうまで達しています

天智天皇と天武天皇
宝塚歌劇団の公演に「あかねさす紫の花」という万葉ロマンがあったのを覚えている方もおいででしょう、これは大海人皇子と万葉歌人の額田王の恋を舞台にしていますが、大海人皇子(後の天武天皇)と兄の中大兄皇子(天智天皇)は異父兄弟とも言われ(母は皇極天皇)、良い仲ではなかったようです。

額田王は大海人皇子の妃でしたが、いつの頃にか中大兄皇子の妃になっていますから、兄が横取りしたのか額田王が多情な人だったのでしょう。天智天皇が死に際して我が子・大友皇子に天皇を譲ることにしたことをきっかけに壬申の乱(672年)によって大友皇子(天智と額田王の娘・十一皇女を妃とする)は死に追いやられてしまいますから、そこには恋心と権力争いのすさまじさを感じさせられますね。

とまれ、天智天皇が大津宮を出て668年に蒲生野(今の東近江市)に遊猟した折、この三人の三角関係が万葉歌として残っており、万葉を代表する相聞歌といわれています。


「紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆへにわれ恋ひめやも」  大海人皇子

「茜さす紫野ゆき標野ゆき野守りは見ずや君が袖ふる」     額田王


後記:梅雨のさなかに真夏のような炎天下を歩くのはつらいものですが、崇福寺へと登って行く道野辺の大仏や湧き水そして小滝など忘れがたいウオーキングでもありました。
あれこれとたどるうちに予定では園城寺(三井寺)までの工程でしたがJR大津駅に着いたときは5時近くになって、またの機会に三井寺や石山寺へ行きましょう。
琵琶湖西岸は京・大阪とちがってのんびりした環境が飛鳥地方にも似て、古代大和王朝を偲ぶには最適でした。まだまだ淡海の国には飛鳥時代の名残がたくさんあります、これからぼちぼちと訪ねてみましょう。

もちろん反省会は冷えたビールを思いっきり飲むことでした…次回は9月にお目にかかりますBye

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