第102(117)回 3月 コダイ・ウォーキング レポート


春の琵琶湖畔の古代を歩く


日本の古代における文化の飛躍的な発展は、大陸や朝鮮半島の文化の伝播を抜きにしてはありえないことは、これまでの古代の旅において、私たちの基本的な認識になっています。

さらに日本列島に人が住みついて10万年、最も古い出土品の石器や炉の跡が宮崎県で約6万年前の火山灰の下から出ています、氷河期には平均気温が8℃も下がり、海面も140m下がって大陸と地続きであり、北方の民族が温暖の地を求めて南方へと移動して日本民族となり、長ーい旧石器時代をマンモス・オオツノシカや野牛を追いながら、命を燃やしてきました。
13000年前頃には氷河期が終わり、海面の上昇によって日本列島になり、日本民族の誕生となったのでしょう。

そして弥生時代に入り大陸側の混乱により、再び民族移動が起こり渡来人によって日本の人口が飛躍的に増加するとともに、高い文化がもたらされ、鉄器の製作と稲作の伝播と共に日本民族の民度が上がり、飛鳥時代に国家の形成に至ります。

さらに、安土桃山時代以後、日本の焼き物技術は飛躍的に進歩しました。これは、陶工をはじめ多くの技術者たちが朝鮮半島から連れてこられ、全国各地に定着した結果です。さらには、江戸時代の学者や文化人たちが11度の朝鮮通信使の来日時に交流し、先進の学問や文化を修めたことは周知の事実です。

私は太平洋戦争の敗戦後、小学生の頃に鹿児島の大隅半島に居を移しましたが、近くの鹿屋市近郷に笠之原というところがあり、遠い時代に朝鮮半島から陶器の技術を持ってきた人たちの村だと聞かされて育ちました。これが薩摩焼のはじまりだったのかもしれませんね。

その後、少し調べたのですが、朝鮮の陶器技術者が最初は薩摩半島の現・日置市の苗代川端に移住して薩摩藩の庇護のもとに陶器を造っていました、その一部の人がそれまで原野であった笠之原において深井戸を掘る技術を生かして、農地開拓に従事したようです。苗代川焼は現在薩摩焼の「白もの」の豪華絢爛な焼き物として知られています。

(このように、日本列島に多大な影響を及ぼしてきた大陸や朝鮮半島との関係が、大きくくずれるのは近代に入ってからでした)。

移動してきた人々にとって九州・山陰・岡山・近畿と並んで琵琶湖湖畔は良い生活環境をもたらし、ところどころに豪族が生まれ、古墳が築かれ、倭(やまと)から日本へと発展したと思われます。

今回のウォーキングでは一豪族の住んだ湖西の「小野」氏の地を歩いて弥生〜古墳から飛鳥時代を偲ぶと共に、渡来人の足跡をたどりたいと思っています。


渡来人歴史館

冒頭に書いたように、琵琶湖西岸には多くの渡来人の住むところでした。渡来人の初めての来日は紀元前200〜紀元300年とされているようですが、飛躍的に民族移動があったのは、天智朝の頃に渡来人の入植があったことが知られています。7世紀の後半、朝鮮半島は未曾有の戦乱に見舞われました。国力を充実させた新羅は超大国の唐と連合して、660年に百済を滅ぼし、続いて668年に高句麗を滅亡させ、滅亡した百済と高句麗の遺民の多くの人々が渡来し、近江をはじめとして各地に配置されました。

天智天皇は都を大津に定めたため、多くの渡来人が琵琶湖周辺に配置され、天智4年(665)、百済の遺民400余人を、近江国の神崎郡に住まわせています。天智8年(669)には、百済の男女700余人を近江国蒲生郡に移住させています。

こうして、氏族もろともに来日した人々は、氏族ごとに集落を作りましたので、滋賀県下だけで志賀氏・穴太氏・秦氏など16氏族が数えられます。

このように高い文化をもって日本文化を高めた渡来人は、現在では日本人として同化してともに歴史を形成しています、倭朝を形成した人々も、もっと大昔に大陸・朝鮮半島・東南アジアから渡ってきた人たちであり、「日本原人」はいないことをよく理解して、明治以降に起こった誤った史観に基づいて他国人を蔑視するようなことは、自らを貶めていることを深く心しましょう。

渡来人歴史館は日本と朝鮮半島の歴史を再確認し、一層の理解のもとにかっての深い交流を取り戻すために造られています。展示構成は「文明のおこりと古代国家の成立」「古代国家から中世へ」「友好と侵略」「日本と朝鮮半島の関係史年表」その他、韓国併合や太平洋戦争後などの展示がありますが、中世から現代については、私たちの論ずる場ではありません。





大津市歴史博物館



大津歴史博物館



穴太遺跡(6世紀中〜7世紀前半) オンドル遺構がある














































左:現・大津市の古墳群  右:壬申の乱での朝廷軍と大海人皇子軍の移動図














































大津市・山ノ神遺跡:完全に復元できる鴟尾

小野神社





小野神社本殿・左奥は小野篁の社殿 小野道風・小野妹子神社はさらに南側に各々独立してあります


小野妹子:(推定580〜640年)和邇・春日氏の同族である小野氏は元々現在の京都市左京区上高野(旧・山城国愛宕郡)のあたりに広く住した氏族であり、小野氏の一部が志賀郡に移り住んだので現在の小野村の名前が付いたようです。彼ら一族は下級官吏として大王に直属していました(「遣隋使・小野妹子」志賀町編集発行による)。現在の上高野にも小野神社があります。

小野妹子は子供時代から、近隣の穴太・志賀里・南志賀の渡来人と深く親交を結んで、学問と世界情勢を学ぶことができました、結果として607年に聖徳太子の抜擢によって遣隋使の長として中国に渡り、国書を隋の皇帝に渡して、日本と中国が対等の関係で国交を開こうとしました。

その国書には「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す…」と記され、隋の煬帝は世界に一人しかいない天子を、倭王がかってに天子と名付けていることに不興を覚えましたが、隋は朝鮮の高句麗との戦いを準備中であり、且つ天子の徳を表すために、妹子の帰国の際に裴世清を隋使として送り出しました。

ここに倭の大王時代から続いた(BC200年〜AC400年末以後朝貢は途絶えていた)朝鮮の国々と同じ朝貢の枠を離れ、対等の外交関係を結ぶことができました。その時の隋の返書は倭国と同じように無礼な文言が使われていたと思うのですが、そのころの倭国は百済・高句麗と和を結び、これら二国は新羅と敵対しており、魏は新羅と和を結んでいた複雑な関係が、魏の返書でどのように書かれていたのか、大変興味深いことです。(この前後は私見による)妹子はこの返書を公式には失くしたことにしてしまい、一時は流刑にになるところを、聖徳太子と推古天皇はこの返書を読んでいたのでしょうか、不問にした挙句、608年にも再び隋に妹子を遣わしました。(この時昨年10月にご紹介した「南淵請安」先生が帰国する裴世清に同行しています)。

これら遣隋使の活躍によって、中国の進んだ文化や技術が日本に入ってくるようになりました。妹子はその活躍により上級官吏である大徳(タカキマエツキミ)に昇進し、小野村から大和へと同族の発展をもたらし、小野毛人(エミシ)・篁・道風・小町らが有名ですね。他にも大宰府や東国の長官、外国へ派遣された人など、小野妹子を祖として多くの外交官・学者など要職についています。全国に「小野」姓の人がいますが、いずれも山城国や小野村から散らばっていったのでしょう。



小野神社付近より雪深い比良山系を望む(中央は蓬莱山1173.9m)

旧竹林院

坂本の地はかって三塔・十六谷・三千坊といわれた比叡山・延暦寺(788年〜)の門前町として栄え、JR坂本から比叡山へ上るケーブル坂本へ至る道々には、代々の延暦寺座主や高僧の隠居所として構えられた里坊がたくさん残っており、一帯は国の重要伝統的建造物群保有地区に選定されています。旧竹林院もその一つで邸内には3300uに及ぶ国指定の名勝庭園が二棟の茶室と共に残されています。春まだきの庭園は雪・花・紅葉などがありませんので寂しいですが、それらの季節を想像しながらご覧ください。ここは日吉大社の北側の山すそにあります。



















































左:奥の高い山(八王子山)の上にある祠は日吉大社の奥宮で「山王祭」のとき神輿がここから勇壮に降りてきます







山王祭の今年のポスター

来月は2 days walkingで四国へ渡り徳島県の古代から現代を訪ねます、お楽しみにBye


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