第101(116)回 2月 コダイ・ウォーキング レポート


早春の泉州古墳群


梅が咲き、朝晩の冷え込みも少なくなりました。泉州の古墳というと先ずは仁徳天皇陵が思い浮かぶことでしょうが、今月は24日にJR阪和線に沿った和泉市・岸和田市近在の古墳群を、灌漑用水をあちこち渡り歩きながら訪ねてきました。
この辺は大昔さながらに道が狭くたくさんの辻があって曲がっていて、目的地の方角はわかっていてもたどり着くまでに、何度も道を間違えたり、人に教えられたりして、地図上では10Kmのはずがなんと15Kmも歩くはめになった苦労した一日でした。

この時撮った写真は編集のさなかに手違いで一枚残らず消してしまい、仕方なく24日に撮り直しに行きましたが、今回は車で行ったので、どこも行きどまりの道だったりして、どの家にも軽自動車が置いてある理由がわかりました。何かの祟りに遭ったようなウォーキングとはなりましたが、最後に行った反省会のフランス料理店ではそんなことも忘れた楽しい夕食となりました。

等乃伎(とのき)神社
創建は『続日本紀』に(天平・752年)「中臣殿来連竹田売」と記載されています。ここにみえる中臣氏の一族である殿来連が祖先神である天児屋根命を当神社に奉祀し、その年に太政大臣・藤原武智麻呂、その子の大納言・恵美押勝(藤原仲麻呂)が相次いでこの里に居住したと伝えられています。また縄文海進ではこの辺りが渚であり、楠の巨木が立ち並んでいたようで、丸木船を造るのに利用され、いまも神社内に巨木が残っています。またお守りの数の多いことでも有名な神社です。「とのき」JRの駅は「富木」ですが全て当て字で、その由来を探しましたがわかりませんでした。神社の入り口にこんな看板が立っていました。また、祭神は「天児屋根命」(あめのこやねのみこと)でアマテラスが岩屋に隠れたとき美声でもっておびき出した神だそうです。
































左:お守りの種類がいっぱい  右:本殿


黄金山古墳


信太山丘陵の北西端に位置する二段築成と推定される墳丘をもつ前方後円墳で、全長約94m・後円部径約57m・高さ約9m、前方部幅推定約42m、高さ約6.5m。2008年に国の史跡に指定されました。古墳時代前期末(4世紀後半頃)の築造と考えられ、棺の内外から多数の重要文化財(東京国立博物館蔵)が出てくるので黄金塚と呼ばれたそうです、そしてはにわ類も出土しています。被葬者はわかっていません。



頂陵部を仰ぐ



遠く二上山・葛城・金剛山を望む























左:前方後円墳とわかります  右:土を取られたり掘り返された跡がいっぱい


摩湯山古墳


墳丘の長さ約200メートル、前方部の長さ約100メートル、高さ14メートル、後円部直径約100メートル、高さ20メートルの丘陵部の先端に築造された全国34位の巨大前方後円墳。墳丘からは家形埴輪、円筒埴輪、蓋型埴輪などの埴輪類が、後円部墳頂からは土師器高杯が出土し、埴輪の形態の特徴から、古墳時代前期(4世紀後半頃)の築造と考えられています。1956年に国の史跡に指定されました。被葬者は当時大和と対峙していた河内の盟主と考えられます。この古墳も一部の周濠を除いて丘陵と畑と住宅地に代わってしまい、どこかに登り口があるはずですが古墳内を楽しめるようにななっていません。


古墳の下に葺石が見えますからこの周濠はため池として後から造られたのでしょう






















左:裏から見た古墳  右:向こうは岸和田市街


久米田寺とその周辺

久米田寺:橘諸兄と行基さんが開削指導した大阪府最大のため池である久米田池を維持管理するため(天平10年)738年行基菩薩によって創建されたと伝えられています、織田信長によって焼き打ち、1674年に再建されました。久米田池は桜の名所としても有名です。現在の久米田寺は可愛いお堂が林立しているだけで、見るべきものはありませんが古代の面影が残っています。

また、岸和田十月祭礼(だんじり祭り)の際、行基さんへの感謝の意をこめて、八木地区の全町と山直地区の田治米町・今木町の計13台のだんじりが境内に乗り入れ、行基堂前に集合します。


山門より境内を見る、左は多宝塔(仏舎利が祀られている)、右は金堂(本尊・釈迦如来)



開山堂(行基さんの木像が祀られている)













































左:お釈迦さまの仏舎利を収めてあります  右:何度も戦争被害を受けながら蘇ってきました(現在・高野山真言宗)


周辺の塚と古


貝吹山古墳:久米田古墳群中(現存7基)の最大古墳、久米田寺のすぐ隣に位置しています。そのことにより貝吹山古墳は橘諸兄の墓ではないかという古くからの伝承があり、諸兄塚とも呼ばれます。全長約130m、最長部は標高44m、比高8mで前方が北西に向けている前方後円墳です。1560年・中世代には三好実休の陣所として利用され貝吹山城ともいわれます。

久米田寺の華厳院の奥には光明皇后の遺髪塚がひっそりとたたずんでいます、皇后は聖武天皇の奥さんで、橘諸兄と異父妹に当たります。もちろん久米田池・久米田寺を造ったのは、聖武天が許されてのことですから、この地にゆかり深い方々です。



元々は直径約25〜30mの円墳であったと推定されています


光明皇后:701〜760年7月27日、奈良時代の聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養橘三千代の女子で、聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉。聖武天皇の皇太子時代に結婚し、718年、阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を出産。

仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられる。また貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行った。夫の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創設された。さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。

書をよくし、奈良時代の能書家として聖武天皇とともに有名であり、作品には『楽毅論』(がっきろん)や『杜家立成雑書要略』がある。ともに正倉院に蔵されている。 (ウイキペリアより抜粋)光明皇后をえがいた本は数多あります。
「楽毅論」とは:楽 毅は、中国戦国時代の燕国の武将、燕の昭王を助けて斉を滅亡寸前まで追い込んだ。昌国君または望諸君とも呼ばれる。

楽毅により大打撃を与えられた斉は復興はしたものの国力を大幅に消耗し、東の斉、西の秦の二強国時代から秦一強時代へと移行し、これ以降の戦国時代は秦による統一へと収束していく。

紀元前279年、そんな最中に燕で昭王が死に太子の恵王が即位した。恵王は楽毅の事を太子時代から良く思っておらず、楽毅は趙へ亡命した。

息子の楽間も燕の恵王、武成王、孝王と3代の王に重用されたが、孝王の死後に後を継いだ太子喜(燕王喜)に疎まれ、父と同じ運命を背負い趙へ亡命してしまった。その後、楽毅の子孫は趙に移り住んでいたが、義侠に生きた楽毅を崇敬していた劉邦により、楽毅の孫の楽叔を見つけ出し楽郷に封じ、華成君とした。

楽毅は史書の中でいったん評価が下がったものの、三国時代魏の夏侯玄が『楽毅論』を著し再評価された。その後、書家の王羲之がかの名書体で写し有名になっている。光明皇后がこれを臨書したのは745年44才のときでした。

橘諸兄:(天武天皇代)684年〜 757年、奈良時代の政治家、敏達天皇の後裔で元の名前を葛城王、737年天然痘の流行によって藤原武智麻呂をはじめとする四兄弟や多くの議政官が死去してしまい、これ以降、国政は橘諸兄が吉備真備などを重用し、聖武天皇を補佐することになりました。万葉集に7首を残しています。
             
         あぢさゐの八重咲くごとく()つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ(万20-4448)



諸兄塚:全長130m・後円部径75mの前方後円墳・4世紀後半、墳丘には埴輪が並んでいた。また、
周濠がありその痕跡の一部が住宅地の中に山田池、ねんど池、どじょう池になっている。



無名塚古墳


久米田池


世界灌漑施設遺産、725〜738年築造、貯水量157万トン、広さ45.6u、周囲2.6Km、大阪府最大のため池(日本最大は愛知県犬山市・入鹿池(貯水量1500万トン)



久米田寺前より東方を見る


このホームページをご覧いただく皆様へ:風来坊主よりお願い
昨年11月からのアクセスは平均336件(11月363・12月297・1月417・2月269)、2月の地域別アクセスは北海道・群馬・東京・神奈川・静岡・愛知・三重・京都・大阪・広島・熊本の方々で、北海道から沖縄まで継続してご覧いただいています。つたない画文集ですがご支援ありがとうございます、いつもFC2アクセス解析を見て、励まされるとともに、間違いのない歴史や地域・人などを網羅すべく努力しています。
私の書いた文章の基本は数種の百科事典に依っていますが、いつも正確なのかどうか自信があるわけではありません、何かお気づきのことがあれば、「風来坊主の広場」またはメールでご指摘くだされば幸甚に存じます。宜しくお願い致しますBye


表紙に戻る