第99(114)回 12月 コダイ・ウォーキング レポート


自転車の歴史と棟方志功展そして忘年会


年の瀬を迎え何となくあわただしい気持ちですが、12月のウォーキングは趣向を変えて、何度も前を通りながら一度

は行ってみたかった、堺市の仁徳天皇陵など多くの古墳を持つ広大な大仙公園内のサイクルセンターと青森県が生ん

だ世界的板画家・棟方志功展を楽しんだのち、恒例の忘年会へと繰り出しました。

今年のウォーキングも私たちの会の特徴である、歩くことに主体制を置かないで、平安時代以前の古代文化を訪ねる

企画は、三重県の古代2daysをはじめ、平穏無事に一年間を終えることができました、これは必ずしも古代に特別の

興味も持たない方々も永年にわたってご参加いただくと共に、毎月300人前後の方がこのレポートをご覧いただいてい

るのは、このウォーキングが何らかの意義あるものとして3月の117回目で12年間も続けてこれたのでしょう、改めて

御礼申し上げます。

今回はあまり画像はありませんので短いレポートになりました、皆さまよいお年をお迎えください。


冬木立・堺市大仙公園


堺市・自転車博物館・サイクルセンター


この博物館は1992年4月に、世界的な自転車変速器メーカー(釣り竿も、年間売上3500億円内外)・KKシマノが公益財団法人シマノ・サイクル開発センターとして開館運営している自転車の総合博物館です。
私たちにとって最も身近な乗り物である自転車の歴史と現代までの発展段階をつぶさに知ることができ、またクラシック自転車に乗ることもできて大人も子供も楽しめます。ではちょっと中を覗いてみましょう。



世界最古の自転車ドライネージュ(木製)・1818年ドイツのカール・フォン・ドライスが発明(複製品)
ペダルはありませんが、身長に合わせてサドルとひじ掛けが調節でき、ブレーキも付いています、
37Kmの距離を時速15Kmの速度で走った記録があるそうです、特許を取りヨーロッパで大流行しました



1861年フランスのミショー親子が前輪にペダルの付いた自転車を発明、年間販売数1000台

2015年の世界での生産台数 約1億台、日本 100万台(減少化著しい)


1818年・ドイツのカール・フォン・ドライスが発明
1861年・フランスのミショー親子が前輪にペダルの付いた自転車を発明
1869年・世界初のロードレースがパリ〜ルーアン123Kmで開催
1870年・日本で「自転車」という名前が東京府・竹内寅次郎が製造販売願書に記載される
1870年頃・オーディナリー型が流行、スピードを出すため前輪が大きくなった、日本に輸入されるようになる
1876年・現存する最古の自転車が福島県で製造される
1885年・前後輪が同じサイズのセーフティー自転車が発明される



オーディナリー型・より速く走るため前輪が大きくなった、産業革命によりイギリスで大量生産される
高いため不安定で道路の凸凹などで危険な乗り物でした



1879年にイギリスのローソンがチェーンにより後輪を回すことを発明、1885年にイギリスのスターレーが
前後の車輪を同じ大きさにして誰も乗りやすいものになり、現在の自転車の原型となりました



現代究極のバイク・すべてコンピューター制御で手動は不要・漕ぐことによって発電し、
自動変速・自動サスペンション・オートライト、ディスプレイに走行記録を表示


アラカルト



ミルク運搬車・日本ではリヤカーでしたね









































左&右上:ツールド・フランスなどで活躍するロードレーサー
右下:マウンテンバイク



















  左:寝転んで走る
  右:全天候型・80万円




クラシックバイクを楽しむ





















実際の車輪を回すのでなく小さなゴムタイヤで走るのはちょっと不満でしたが…



クラシック自転車試乗会場にて


棟方志功展アベノハルカス・近鉄百貨店



              いずれの板画も日本図書センター刊「棟方志功 わだばゴッホになる」2003年版よりスキャン

略年譜:

1903(明36)年青森市に生まれれ、13才に小学校を卒業し家業の鍛冶屋を手伝い、17才の時青森地方裁判所の給仕に雇われ、勤務の合い間に早朝に写生をして絵の勉強をする。

1921年18才のとき青森在住の洋画家・小野忠明に会って、雑誌「白樺」のゴッホの絵に感銘を受ける、友人と4人で「清光画社」という洋画の会をつくり、第一回展覧会を日赤青森支部で開催。

1924(大正13)年に上京し、種々の内職を続けながら帝展に出品、以後昭和3年まで落選を続ける。
1928(昭3)年に帝展に初入選、板画家・平塚運一を紹介される、1930年赤城チヤ」と結婚、国画会展に板画4点を出品し、板画家としてスタートする。

1932年板画12点を集めた板画集「星座の花嫁」を初出版、1935年第10回国画会展に「万朶譜…」出品、会友に推される。
1936年国画会展に「大和し美し板画巻」を出品、日本民芸館に買い上げられる、それを機に柳宗悦、浜田庄司、河井寛次郎の知遇を受ける。

1940年第15回国画会展に「釈迦十大弟子」を出品、1945年富山県に疎開したが、」東京空襲で大半の板木が灰となる。
1952年第2回国際版画展・スイスで優秀賞を受賞、1955年サンパウロ。ビエンナーレに「釈迦十大弟子」などを出品、版画部門最高賞を受賞、1956年にヴェニス・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞。

1959年渡米、ニューヨーク・ボストンその他各地の大学で版画の講義をして回りその間ヨーロッパに旅行、翌年より眼疾が進み左眼ほとんど失明。

1970年文化勲章受章、前年に青森市名誉市民第一号となる。

1973年インド旅行、1975年東京の自宅で死去、青森市民葬、青森市に棟方志功記念館が開館。












































「釈迦十大弟子」より1939(昭14)年



門世の柵 昭和43年

ひとこと:
棟方志功の板画が北斎・写楽・歌麿などと並び称されるのは日本の画壇ではありません、彼は1952(昭27)年に日本版画協会を脱会して日本版画院を創立しました、日本では門閥があり彼のように小学校しか卒業しないで、美術学校どころか誰の弟子でもない人間は認めようとしない風潮があり、彼を認めて応援してくれたのは陶芸家の柳宗悦、浜田庄司、河井寛次郎などの諸氏でした。
そしてヨーロッパやアメリカでにおいて超一流の版画家として認めらるのでした。
彼の女性像はいずれもふっくらとしていますが、これは明らかに奥さんをモデルにしたものとわかるのが、今回の近鉄での板画展でした。

おまけ:博物館にはこんな陳列もありました

鉄砲の筒の作り方


表紙に戻る