2016年度 第96(111)回 9月 2days walking

2017年4月補遺

三重県の古代を巡る


近そうで遠い三重県、ここは神話時代の伊勢神宮があり、ヤマトとの関係が深く、また縄文時代からの遺跡も処々方々に存在し

ます。やはり二日では周りきれないところですが、できるだけ効率よく回ってみるつもりで出かけところ、粥見井尻遺跡の小さ

な標識を見逃してしまった時間ロスと、にわか雨の降る中であぜ道のようなところでレンタカーを脱輪させてしまい、レンタカ

ー屋がジャッキのある所を知らず、1時間以上のロスと「猪突猛進型」の私の悪いところばかりが出てしまい、皆さんにはご迷

惑をおかけしましたが、走っている以外の時間は奇跡的に雨も降らず、なんとか周り終えることができました。



伊勢神宮参道沿いの五十鈴川のみそぎ場所(増水のため使用禁止でした)


粥見井尻縄文遺跡

約12000〜10000年前・縄文草創期の遺跡で、竪穴住居4棟と日本最古級の土偶(三重県埋蔵文化財センター所有)・土器・石器類が出土しました。竪穴式住居は2〜3度建て替えられたようで、狩猟生活から定着した暮らしに移行したと考えられています。発掘された矢の先端にはサヌカイトが使われ、讃岐岩は大阪府二上山で採集され三重県まで伝播していました。集落としては大きくなくて遺跡公園もかわいらしく、田んぼのあぜ道のようなところを入っていくとありますので、脱輪や通り過ぎてしまうようなところでしたが、近くに住む・杉坂さんのご親切でやっとたどり着くことができました。


日本最古の土偶(まだ顔も手足もない状態)・定着生活が始まると精神文化もより求められるようになりました
(三重県観光連盟の案内よりコピー)




















現代の橋の下に竪穴住居がありました


宝塚古墳の大きな船型埴輪(松阪市文化財センター)

1928年の調査では確実なもの26基、不確かなものを含めて88基の古墳が確認され花岡古墳群と呼ばれましたが、様々な開発のおかげで2006年現存しているのはたった基のみ、いずれも前方後円墳で1932年に国の史跡に指定。1号墳は全長111m伊勢地方最大で5世紀初頭のころの首長墓と考えられています。
土橋の西側より出土した船型埴輪は日本最大かつ独特の装飾によって第1級の埴輪資料として、他の出土物と合わせて2006年に国の重要文化財に指定。当時を想定した埴輪の模型を並べるなどして、宝塚古墳公園が一般公開されています。
そして出土品は松阪市文化財センターに見事に修復されて、初めて見る大きさと精巧さに度肝をぬかしました。なお古墳そのものは、標識が小さく曲がり切れずかつ時間都合もあってパスしました。



粉々になって出土し見事に修復された日本最大の船型埴輪・L・140CmXH・90CmXW・25Cm 船首側に首長の太刀、後ろは蓋
(きぬがさ)貴人の日傘、中の二本は首長の威杖、首長の業績を称えるためか、御霊を送り出す船と考えられているそうです



















   

左:松阪市文化財センター・旧鐘紡の綿糸工場倉庫を使っています・松阪市有形文化財登録 右:宝塚古墳の埴輪のレプリカ群



全長111mの宝塚古墳第1号墳の在りし日の姿、宝塚とは色んな宝物が出てきたのでつけられた名前だそうです



1号墳の張り出し部(造出部)の埴輪の並べ方



志摩湯快リゾートHにて・右奥は初参加でお元気な85歳のKさん


二日目・鳥羽水族館


ミキモト真珠島を訪れる人々を対象に1955年に開設された私設の水族館ですが、入場者は毎年100万人、飼育する水族の数・日本一と日本を代表する水族館です。人魚伝説のジュゴン・生きている化石のオウムガイヤカブトガニなどなど12のゾーンにわけられ、どこへでも自由に行ける平面的な3階建になっています。しばし海中散歩をお楽しみください。



エントランスホールに見る大水槽の一部





アジアアロワナ:アロワナは東南アジア・オーストラリア・南米・アフリカに7種類が知られ、化石はヨーロッパを
除く全世界の中生代(1億数千年前)の地層から出土しています。彼らのように海を渡れない淡水魚が現在の各大陸
に分布しているのは、かって全ての大陸が地続きであった証拠の一つと考えられています。



アリゲーター・ガー(ミシシッピー河水系):現在は北米〜中米に7種類がいますが、化石はユーラシア北部・北米・インド・
アフリカなどの白亜紀(恐竜がまだいたころ)から始新世の地層に見つかり、世界に広く繁栄していました。
化石と現存種が形態的に非常に似ており数千万年生き延びてきました。


魚類は生きている限り成長を続けます、したがって乱獲や環境汚染がなければもっと巨大魚に会えることになります。上のアリゲーターガーの通常は体長1m体重9〜16Kg程度ですが、2011年に確認されたのは体長2.5m体重146Kg、推定94才でした。
かわいい金魚のギネスブックによる世界記録は体長47Cmでした。(ナショナル・ジオグラフ2016年8月号より抜粋)



ペステル(チョウザメの仲間):「キャビア」を効率よく得るために、ペステルは高温に強く成熟が早い
コチョウザメと成長の早いオウチョウザメを交配して、双方の特徴を備えています。



オウムガイ:イカやタコと同じ頭足類、イカタコが一対の鰓と退化した内殻製の殻をもつのに対し
オウムガイ類は二対の鰓と外殻性の殻をもつことからより原始的なオウムガイ亜種に分類されます。
彼らの歴史は約5億年前(ガンブリア末期)までさかのぼり、化石で有名なアンモナイトより古いと
考えられています。南西太平洋からオーストラリア南西岸のサンゴ礁域の100〜500mの深海に住み
エビやカニなどを夜間に食べています。


















やっぱり伊勢エビですね、右はウツボの鬼面


最後にタコ3題:食べたいですか?(ミズタコ・北海道)

タコという生物:七色にきらめく力強い触手、カモフラージュの名人、ゴムのような弾力と優雅さをもつ、狭い空間に体を押し込める、四組の腕を生やした頭はくちばしをもち、優れた知性を備えている。…(パトリシア・コーンウェル「儀式」より抜粋・講談社文庫)





伊勢神宮内宮ほか

日本人の根源的な宗教である自然崇拝を具象化し、太陽を神格化したのが天照大神、説話はいろいろですが、出雲の大国を国譲りによって統一したヤマト王朝がそもそもの始まりでしょう。

これがいつ頃のことかとなると、古墳時代(3世紀中〜
7世紀末)を含めてそれ以前のこととなり、ちょうど中国の史書「魏志倭人伝」の伝える邪馬台国の卑弥呼(175247)女王の時代であり、次に現れる倭国のことは東晋時代「晋書」に413年に倭王が貢物をもたらしたとある、倭の五王の古墳時代以前であったことは想像がつきます。

元来、倭王家の中で大国主と共に祀られていた神を、外へ出したのは崇神大王のとき疫病で大量の人々が死に、大国主命を大和神社に移すなどして(最終的に大和大三輪神社)平安を得てのち、垂仁大王の時に天照大神を伊勢の地に奉安することで、国の態勢も整いました。これらの施策の多くは託宣によって施行されていたものでしょう。これらの時代はBC1世紀〜3世紀のことですから、変動の多い時代だったと思われます。

神宮には外宮が内宮創建より500年後天照大神の食事を司る神「豊受大神」が祀られ、内宮には天照大神とこのはなさくや媛大神(アマテラスの孫ニニギノミコトの妻)が祀られています。


お伊勢参り:お蔭参りは、江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣。お蔭詣で(おかげもうで)とも。数百万人規模のものが、およそ60年周期(「おかげ年」と言う)に3回起こった。お伊勢参りで抜け参りともいう。

お蔭参りの最大の特徴として、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣したことにある。これが、お蔭参りが抜け参りとも呼ばれるゆえんである。大金を持たなくても信心の旅ということで沿道の施しを受けることができた時期でもあった。

江戸からは片道15日間、大坂からでも5日間、名古屋からでも3日間、東北地方からも、九州からも参宮者は歩いて参拝した。陸奥国釜石(岩手県)からは100日かかったと言われる。(この項:ウイキペディアよりコピー)

現代では、元日だけで35万人、年間600万人が伊勢神宮を訪れるそうです。大阪からは近鉄電車が12月31日に終夜運転でお伊勢さんに参詣者を運んでいますが、何百年と続く習慣は消えることなく続くのですね。



宇治橋を渡っていよいよ聖域へ



伊勢神宮内宮(ここからは撮影禁止です)



こちらは天照大神の荒祭宮

「あらまつりのみや」は内宮の境内別宮、 祭神は天照坐皇大御神荒御魂(あまてらしますすめおおみかみのあらみたま)。第62回神宮式年遷宮(2013年)では、他の別宮に先駆けて遷御が行われました。

荒魂とは:荒魂、和魂(にきたま)とは、神道における概念で、神の霊魂が持つ二つの側面のことであり、荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きである。神の祟りは荒魂の表れである。(ただし、勇猛果断、義侠強忍を等に関する妙用ととらえられることもあり、必ずしも悪い意味で解釈されるわけではない)、これに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れである。
荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、皇大神宮の正宮と荒祭宮といったように、別に祀られていたりすることもある。人々は神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきた。この神の御魂の極端な二面性が、神道の信仰の源となっている。(この項ウイキペディアより抄訳)



宮殿の雰囲気は内宮と似て素朴であり、大神神社や出雲大社のような豪壮さがないのは、神様が女神さま(?)のせいですかね。



内宮を出たところにある「おかげ横丁」江戸時代もこんな雰囲気だったのでしょう


斎宮歴史博物館


私はこの博物館を見るために行ったわけではありません、粥見井尻縄文遺跡の日本最古の土偶が博物館に隣接する三重県埋蔵文化財センターで展示されているというインターネット案内を見ていったのですが、伊勢はどこもかしこもアマテラス大神一辺倒で、所在を聞くと展示は取りやめになり収蔵庫で眠っているとの答えに失望しました、斎宮はときに歴史上に現れますが
別に確たる文化的意義を知ることなく、立派な建物のなかに子供だましのような展示があるだけでした。
斎宮・斎王とは:斎王または斎皇女(いつきのみこ)は、伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王または女王厳密には内親王の場合は「斎内親王」、女王の場合は「斎女王」といったが、両者を総称して「斎王」と呼んでいる。

伊勢神宮の斎王は特に斎宮(さいぐう)、賀茂神社の斎王は特に斎院(さいいん)と呼ばれた。斎宮の歴史は古く、『日本書紀』によれば崇神朝にその嚆矢が認められるが、制度的に整ったものが確認できるのは上代の天武朝からで鎌倉時代を通じて徐々に衰退し、建武新政の崩壊をもって断絶するに至った。(この項目ウイキペディアより抜粋)

斎王一覧:伝承時代・豊鍬入姫(崇神・垂仁)〜酢香手姫(用明−推古)
飛鳥時代673〜686年・大来姫・天武の娘〜鎌倉・南北朝1333〜?・祥子姫(後醍醐天皇の娘)
王朝文学に出てくる斎王:伊勢物語−平安時代、大和物語−平安時代、源氏物語−平安時代、更級日記−平安時代、栄華物語−平安時代、大鏡−平安時代、とばずがたり−鎌倉時代

次の歌は「伊勢物語」の在原業平と第31代の恬子内親王(やすこないしんのう)と推測されています。

斎王                    、
君やこし我や行きけむおもほえず 夢か現(うつつ)か寝てかさめてか  

                      
かきくらす心の闇にまどひにき 夢うつつとはこよひ定めよ 
 



平安時代の斎宮はこんなもの



斎宮の全体模型

これで三重県の古代を終わります、いずれ伊賀神戸のあたりを通れば古代遺跡に立ち寄り、本稿に加えたいと思いますBye
2017年4月補遺
2017年4月中旬に三重県の名桜を訪ねた折に、昨年行けなかったところを回りましたのでレポートします。

伊勢国府政庁跡

JR関西本線・井田川駅(鈴鹿市)の北北東2Kmのところに畑の中の小さな森に政庁跡の看板だけが立っています、森の中を歩いてみましたが、ただただ草深いところで基壇は残っていましたが、礎石は持ち去られたのかわかりませんでした。




伊勢国分寺跡

関西本線・河曲駅の北方1.5Km(石薬師時の東北東1.5Km)に広大な敷地が、金堂・講堂・食堂・回廊などの多くの基壇と礎石を残して保存されています。やまと王朝と伊勢国は天照大神の伊勢への転居(?)など親密な間柄でしたから、国分寺もそれなりに他の地方より大きなお寺だったのでしょう、、色々な地方で国分寺跡を回りましたがここが一番広大な土地を占めているように思いました。


広大な敷地のど真ん中に立っています



講堂跡・礎石も残っています


歩いて回るのに約1時間かかった広さです、創建当時の壮大さを想像してみてください

鈴鹿市考古博物館

古代・伊勢国の中心地は現在の津市ではなく鈴鹿市にあったことはわかりました、国分寺跡の南端に考古博物館が優雅な姿で立っています。展示品はやまとの近くですから、これといった特徴はありませんが、伊勢国の豊かさを感じさせてくれます。


鈴鹿市国古博物館



磐城山遺跡の三重県第二の竪穴住居:床面積100u以上、四本の柱で屋根が支えられていました、中央に炉跡



寺谷古墳群は円墳(首長墓)を中心に周囲を方墳が巡っておりいずれも埴輪があります、5〜6世紀



展示品はよく整備され親しめるミュージアムでした


表紙に戻る