3月 New コダイ・ウォーキング レポート


大阪城をめぐる歴史と自然と

今月は『森ノ宮遺跡」から始まり「大阪城」に至る歴史散歩のプランだったのですが、「森ノ宮貝塚」として知られるビルの底の貝塚は、教育委員会の都合がつかず案内していただけないことになり、2009年12月に行った「難波宮跡」の調査資料室は3月末まで整備中で、古代には縁のない「大阪城」だけのウォーキングになりましたので、梅園と共に城内をくまなく歩くことにしました。その前に「大阪の古代から現代まで」をいろいろに考えてみましょう

「おおさかの歴史の始まり」

12万年前の間氷期の大阪平野は上町海という大きな湾になっていました、上町海が縮小を始めて涼しくなってきた中期旧石器時代の10万年前の大阪にはナウマンゾウやオオツノジカが群れをなしており、氷期に変わってゆく7万年前には上町海が退いて古大阪平野がが広がりはじめました。

23000~20000年前の極寒期には平均気温が今より6~8度低く、海面が現在より100mも低くなり、瀬戸内海は陸地となっていました。最終氷期が終わって気温が上がりだし、12000年前頃には海面は現在の大阪駅辺りまで進み、縄文草創期の陸地を古河内平野というそうです。

その後、約9000年前の縄文時代早期には縄文海進によって、海岸線は生駒山地西麓・高槻市付近・八尾市南部にまで進み、リアス式海岸の河内湾になりました。再び縄文中期の約5000年前には海退に伴って、淀川と大和川の土砂によって河内湾を埋立てていき、約2000年前弥生時代中頃には、海と隔てられて淡水の河内湖を形成しました。

このような陸地の変遷を経験しながらナウマンゾウやオオツノジカと暮らした旧石器時代以来の人々は、地球温暖化時代や氷河期を克服して、大陸との交流を発展させ、豊かな暮らしをしていたことが考古学上の発掘によって知られるようになりました。


「森ノ宮遺跡」

現在の大阪市平野区長原地区(弥生時代の遺跡が多い)から「上町台地」と呼ばれる、北に伸びる半島の先端に近いところにあった森ノ宮は「森ノ宮貝塚」とも呼ばれ5000年前縄文・弥生時代を経て江戸時代までの人々の暮らしの「ゴミ捨て場」、ここ大阪はかって河内湾と呼ばれる海でしたが、縄文海進の海の後退によって、河内湖として汽水湖となり淡水湖となった時代相の生活の様子が、食べられた貝殻の種類によって層をなすなど目の当たりに偲ぶことができます。


「現在の大阪市の公園と世界の公園」

市内で一番大きい「大阪城公園」は南北1.2Km東西1.35Km・面積1.62㎢あります、大阪はすべて商業地区にして公園面積は世界的に最小であるとのマスコミ一般のばかばかしい説を信じさせられてきましたが、大阪は淀川公園など含めた公園の広さでは、ニューヨークのセントラルパークの3分の2、ロンドンのハイドパークの1.3倍の規模があり、大阪市民は認識を新たにしなければなりません。

現在の大阪城公園は江戸城の2分の1の規模ですが、豊臣秀吉の造った大坂城は2㎞四方・4㎢ありましたから、江戸城に匹敵する規模があったことになります。これはどちらも武家屋敷も含めた面積で、大阪の場合この屋敷跡を商業地域に転化したわけで、江戸城はいまだ一般市民の入れないエリアですから、緑化地域としては有効ですが、誰でも入れる公園化地域では東京23区は大阪より少ないことを知らなければなりません。


それでは世界的に一人当たりの公園面積はどうかというと、キャンベル(豪州)77.9㎡・ニューヨーク29.3・ベルリン27.4・ロンドン26.9・パリ11.8(平成9年)そして日本は全国平均8.9・仙台12.55・東京23区2.9(平成16年)と全くお寒い限りです(仙台市役所の調査結果による)。ところで大阪市は3.54・東京23区3.04(平成26年度大阪市役所調べ)となっており、どんぐりの背比べみたいですが、日本は人口が多すぎるのですね。

私たち大都市に住む人間は、周囲を見渡すときいかに子供の遊び場がなく,子供の姿を見かけないか、なんで休み中も勉強させるために宿題を出すのか、物質的には豊かであっても、心は貧しい人間に育ってしまっていることを反省し、次代の子供たちのためにどうあらねばならないか、政治家や役所任せでなく、一人ひとり考え直さなくてはいけないのではないでしょうか。



大阪城天守閣(1931年・昭6建造)・京橋口付近より

「大阪城の歴史」

戦国・末~安土桃山時代、この地には浄土真宗の第8世・蓮如上人が(浄土真宗中興の祖・親鸞以降没落し天台宗・青蓮院の末寺だった)造営した石山本願寺があり、信長との10年戦争に耐えるだけの防御的な濠などを巡らせた寺内町が形成されていた。信長はここに一大城郭を造るつもりでいたが本能寺の変で夢となってしまった。
そこに豊臣秀吉が、1585年天守閣完成、天下一の城郭となったが、徳川との戦いによって1615年落城・焼失し30年の命であった。

西国の守りの要として大坂は直轄地となり、徳川二代将軍・秀忠により再建、1626年天守閣完成、工事では豊臣時代の城郭が地下に埋まるほどの地上げが行われ、壮大な大坂城が完成したが、39年後・1665年落雷によって天守閣を焼失した。

その後も落雷によって大手口・多聞櫓、大門などを焼失し、幕末には大坂の豪商に命じ城内の全面修復・多聞櫓が復興したが、1868年戊辰戦争によって城中大火災となり多くが焼失。太平洋戦争の空襲によっても二の丸内の櫓などが焼失した。

1928(昭3)年、大阪市議会が天守閣復興を決定し、市民の寄付によって1931年に鉄筋コンクリート製の天守閣が完成した、1945年の空襲によって京橋口・多聞櫓、伏見櫓など焼失、その後1995年に平成の大修復によって現在の大阪城公園が形成され、現在は7100000㎡が国の特別史跡になっている。

「大阪城天守閣」
三代目の天守は鉄筋コンクリート造り、中にはエレベーターが一般用と身障者用に2基あり人を驚かす、外観は5層であるが、内部は8層になり博物館「大阪城天守閣」として使用されている。これは当時として画期的な建築と構造で、その後の各地の天守閣復興に大きな功績があった。
現在はNHK大河ドラマ「真田丸」にちなんで、真田一党と秀吉の手紙などが展示されている。太平等戦争では敗戦前日の8月14日の大阪大空襲によって、1トン爆弾が多数投下され、多くの建物が破壊されたが天守閣は損壊を免れた。

なお平成の修復時に、淡路阪神大震災に耐えられる補強が行われ、同時に5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴(絵図では白鷺)の絵が描かれて、豊臣時代の天守閣を部分的ではあるが再現している。

「この天守閣は昭和3年に当時の関 一市長が、秀吉時代の天守閣を復興したいと提案し市会は全会一致で可決、ところがこの地は陸軍用地であったため、そちらとの調整が難航し結局、後ろに書くように第4師団司令部の新庁舎を建てることを条件に承諾せしめた。
これを設計したのは大阪市建築課嘱託・古川重春氏で、各地の城郭の特徴・構造を研究・調査して設計図を完成して、1931年(昭6)に竣工したが、古川氏は竣工前に、鯱の復元案が大阪市に容れられず、江戸時代のものとしか思えない姿になったので、職を辞してしまった、それほどまでに秀吉の天守閣復興に情熱を傾けられたのである」(この項参考:朝日新聞3/26「匠の美」豊臣の城をめざして」より)。
先に書いたように5層目に豊臣時代風に再現され、少しは古川氏の供養になったと思える


大阪城を歩く



城内図(「大阪城を極める」中井 均著・サンライズ出版よりコピー)



青屋口櫓門より本丸(1966年古材にて再建)



梅園にて(60%は萎んでました)




















それぞれのお城



京橋口付近・馬酔木の花



西の丸・乾櫓 L字型、1層2層が同寸法で珍しい 1620年最古の櫓(重要文化財)



西の丸・焔硝蔵 1685年製(重要文化財)


「焔硝蔵ものがたり」
元々は青屋口にあり、大量の武器・火薬(82ton)を保管していたが、1660年に落雷によって大爆発、青屋口の石垣の大石が本丸を飛び越えて大手門近くに落下、青屋口の門扉がなんと642mの生駒山最高峰を越えて、14Km離れた455mの暗峠に飛来、市中の民家1481軒が倒壊の大惨事となった。為に、1685年西の丸に壁厚さ2.4m天井も石積みにし、壁の隙間を漆喰で埋める蔵として再建。



大手口千貫櫓・1620年 この名前は大坂本願寺時代からあったそうです(重要文化財)櫓台石垣高さは24m本丸東面に次ぐ高さ、
画像のお濠の右奥は空堀となっています、これはお城の南側が高いため、ここからは水を導入できませんでした。



お城への正面入り口 大手口枡形櫓門と続櫓(1848年再建)
枡形とはそれぞれの門の出入り口に設けられた枡形の石囲いで門を挟んで入り枡と出枡(青屋口のみ)がある、

敵が侵入してきても一気に攻め上れないように入り口・出口を狭くしてある


「当時の大阪商人」
多聞櫓は1783年に落雷焼失、1848年に城内の総修復の折、徳川幕府は大坂・堺・西宮・兵庫の町人に1555千両御用金を課し、
大手口は再建されましたが、多聞櫓は再建されずに終わりました。当時の1両は現在の10万円強に当たるそうで1550億円も
お金になりますが、当時の豪商のはぶりの良さを偲ばせてくれます(この項参考:朝日新聞3/19「匠の美」大坂城大手門より)



大坂城の前進・石山本願寺の推定地 二の丸・六番櫓付近



金蔵 1625年製 1740年に4000両盗まれ、犯人は磔、役職者は島流しお役御免など



天守閣第2層展望台より金のしゃちほこ 下左は1931(昭6)年・第四師団司令部庁舎、戦後・(元)大阪市立博物館
今は空っぽ


「師団司令部」とは
明治政府は1871年(明4)に兵制を成立し1888年(明21年)まで置かれた日本陸軍の編成単位で、鎮台(ちんだい)と呼ばれ、仙台・東京・名古屋・大阪・広島・熊本に置かれた、以後師団司令部と呼ばれることとなった。この欧州の城を模した建物も大阪市民の寄付によって建てられ、寄付総額は当時のお金で127万円、このうち天守閣は47万円かかった。



約5.5時間、15000歩のウォーキングでした



本丸に入る桜門 1887(明20)年(重要文化財)



桜門と左右の龍虎石


大阪城の巨石



















左:第1位・36畳敷の蛸石 重量130トン・桜門  右正面:第2位・肥後石・京橋口 香川県小豆島より切出し 厚さは大体50㎝




















左:京橋口の枡形巨石群  右:おまけ 巨石を前に 大阪市役所製



反省会はイタリア料理店


私たち大阪人の誇りである「太閤さんのお城」は、道を間違えた玉造口を除いて、JR森ノ宮駅からぐるりと反時計回りにあるきました、目下私は入院中で、土日は暇ですからちょっと家に帰ってホームページを仕上げています。端折ったところも多いですが大阪城の概要をお分かりになりましたでしょうか? 4月は京都へ椿の花を愛でに行きます、お天気はどんなもんでしょうかね…Bye


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