特別番外編 南九州の古代

第2部 宮崎県


これは2015年11月13日より16日まで鹿児島県大隅半島の縄文時代をを北上し、宮崎県の縄文時代から西都原古墳群までの訪問レポートです。

これまで北は青森県から新潟県までの縄文時代を訪ねてきて、その文化の高さに驚き、縄文時代は東北地方を中心に栄えたものと認識しておりましたが、今回の旅によってその認識をあらためることとなりました。

一部の芸術性の高い土器(例:火炎土器そして漆工芸品)を除いて、その生活は距離にして2500Km以上隔てていても、均質的な文化の高さを示しており、日本の風土を一層誇らしいものとしてくれました。

第2部 宮崎県では、1912(大正元)年から日本で初めて本格的な学術調査が行われた「西都原古墳群」そしてこの地に考古学専門博物館として2004年に開館した「県立西都原考古博物館」「日向国分寺跡」そして宮崎市内の「生目古墳群」、宮崎県田野町の「本野原縄文遺跡」最後に宮崎県総合博物館内の宮崎埋蔵文化財センター」へ行って今回の旅を終えました。

更にさらに時間をかけてまわりたいところが山ほどありましたが、まだ雪のない東北地方・北海道や、最大の関東地方も残っています、命続く限り古代の旅を続けてゆきます。



西都原考古博物館より望む古墳群のある「風土記の丘」丸いのは円墳です


西都原考古博物館

大正元年から始められた日本初の考古学的発掘調査は6年間にわたっており、」遺跡の保護と「古事記」などの神話世界の史実性を明かす目的もありました、それから100年後に宮崎の地にも開発の波が押し寄せるにともない、埋蔵文化財保護の体制も確立され、2004年に当館が開設され、「常設展示」の概念を超えた「常新展示」を標榜し、年2回の(県内外の)特別展、県内の企画展、コレクションギャラリー展など活発な活動と、展示品が見学者と一体になって楽しめる点は、最近の博物館の展示方法に新しい方向性をもたらすものとして、「来てよかった」「また来たい」という魅力ある博物館です。



正面入り口

ここでは縄文時代から古墳時代までの展示品から私の興味を引いたものを中心にご紹介しておきます。



縄文時代の土器の数々



いつの時代も変わらないもの


「縄文から古墳時代へ」(独断と偏見)

南九州の旅のなかで目にしないもの、それは青銅器です。弥生時代の北九州では銅矛(どうほこ)などが盛んに生産されていましたが、こちらでは石器を使い青銅器が何故使われなかったのか?

この答えは土偶の少ないこととも関連しているようです、土偶には安産や生活への祈りが込められていると思いますが、豊かな環境にあった南九州では、生活のために祈る必要がなく北と南では風土が違い、精神的な文化もまた違っていたのでしょう。

弥生時代になると稲作と鉄器が入ってきて、社会の構造からして変化を強いられました、大陸や朝鮮半島では動乱続きで温暖な気候と平和な島国へ、おそらく大量の難民・亡命の民族移動があったことは、人口増加・技術的な飛躍によって知ることができます。(例:朝鮮・滅亡:百済660年→摂津国・百済郡、高句麗668年→武蔵国・高麗郡、中国・439年南北朝〜531年隋〜618年唐時代始まる)。

それが大陸的な身分制を生み、古墳時代から飛鳥時代へと入ってゆくのです。10000年以上も続いた平和な縄文時代はもはや二度と戻らない、私たちの記憶の中のユートピアなのでしょう。



この簡素な土器は多分弥生時代でしょう、メモを取っていなかったのわかりません



埴輪子持ち家 西都原170号墳 5世紀前半 重要文化財 4軒の付属屋を持つのは珍しく邸宅ですね  



軽石製組み立て石棺


ここでは金銅製の馬具類が国宝として多く残されており、奈良斑鳩の藤の木古墳の馬具との関連性に気付くことでしょう。



いよいよ鉄剣の登場、波型をしているのは蛇行剣

「出雲と大和」
日向の古墳時代を駆け足で通りましたが、ここで気付くのは出雲と大和のの影響が色濃く出ていることです、青銅器は強度がなく実用的な刀剣たり得ず、出雲ではもっぱら儀式に使われ、実用的には出雲で一貫生産できる鉄器が使われています。青銅器を否定した日向でも鉄器は盛んに使われるようになりました。

一方古墳は出雲より早く前方後円墳が築造され(AC400年頃・延岡市・菅原神社古墳・墳長140m)、大和の影響下にあったことが明瞭にわかります。鏡も大和王権が各地の首長に承認の印として贈った「三角縁神獣鏡」が西都原13号墳(墳長78.5mから出土しています。では古墳のほうに行ってみましょう。


西都原古墳群



古墳時代までの年表


下の地図を見ていただきましょう。3世紀から7世紀にかけて築造された墳墓は、前方後円墳31基、円墳279基など全部で333基が確認されています、



西都原古墳群全体図



代表的な古墳図



鬼の窟古墳(206号墳) 6〜7世紀前半 二重の周溝がある直径37m高さ7.3m 古墳群唯一の開口した横穴石窟を持ち巨石を積み上げた石窟・隧道があり木棺に使用された鉄釘・馬具・須恵器・土師器などが出土、西都原古墳群の最後の首長墓と考えられています。名前はコノハナサクやヒメに恋した鬼が一晩で造ったという伝説に由来しています





















左:横穴式石室  右:玄室内部



姫塚・202号墳 6〜7世紀前半 全長57.3m 大正元年の調査では土器・玉類や鉄製品が出土しましたが埋葬施設は不明でしたが、2008年に地中レーダーと発掘調査の結果、木棺直葬だったことがわかりました


男狭穂塚(おさほづか) 国内最大の帆立貝型古墳で墳長約176m ニニギノミコトの墓と言われています、陪塚として169・170号墳の円墳があり西都原では最も大きな円墳です。奥さんのコノハナサクヤヒメの墓はすぐ隣にあり、女狭穂塚といわれ九州最大の前方後円墳、墳長176m、陪塚として西都原唯一の方墳で葺石で覆われ円筒埴輪の列が確認されています。いずれも大きすぎてカメラには入りませんが、大和か出雲から派遣されたご夫婦が眠るにふさわしい古墳でした。両古墳とも陵墓参考地として宮内庁により立ち入り禁止です


日向国分寺


荘園制度の下、各地の国分寺はすたれてゆきました、ここは1788年に木喰行道によって再興されたのですが、明治政府の蛮行によって廃仏毀釈となりました。









































右:イチョウの大樹 幹回り8m高さ20m 樹齢600年 木喰上人はこの木に龕を掘り自作の像を埋めて、「この洞が樹皮に覆われた時に再びこの世に出てくる」といわれたと伝えられていますが、その後どうなったのでしょう。



生目(いくめ)古墳群史跡公園


宮崎平野を流れる大淀川右岸に位置する標高25メートルほどの台地上に広がる、古墳時代前期から中期の古墳群です。3世紀後半ないし4世紀前半頃から作られ始め、古墳時代前期としては九州地方最大の古墳群とされています。1943年(昭和18年)98日に前方後円墳7基、円墳36基の計43基の古墳が国の史跡に指定されました。その後の調査により計51基の古墳、地下式横穴墓36基、土坑墓49基、円形周溝墓3基が確認され、昭和18年指定時のうち1基が古墳ではないことも明らかになりました。






生目3号墳 古墳時代前期最大の前方後円墳 墳長137m






きれいに葺石で覆われた5号墳 この古墳では見える方向だけに独特の円筒埴輪がおかれていました、下の画像がその埴輪ですが、こんなのは珍しいですね。この首長は芸術に深い関心があったのでしょう。


小さな画像からスキャンしたので見苦しいですが


本野原縄文遺跡

宮崎県宮崎市田野町にある集落跡。鰐塚山(わにつかやま)の麓に広がる扇状地に形成された標高約180mの台地上に所在する複合遺跡。旧石器時代から縄文時代を通じて継続された集落で、中心となる縄文時代後期の九州地方では類例の少ない大規模な集落であることが判明し、2004年(平成16)に国の史跡に指定されました。田野町役場で場所を尋ねると、町の地図をいただき大体この辺だという言葉だけが頼りで、たどり着いたところは、ひとっこ一人いない、埋め戻された無人の土地でした。たぶん日曜日だったからでしょう。



広大な遺跡



発掘時の俯瞰図



今は埋め戻されてしまった集落遺跡 いつとはわからない土器片がいっぱい散らばっていました


宮崎県埋蔵文化財センター分館


今回の旅では写真を500枚くらい撮ってありますが、土器類はあまりにも類似性が高くて特徴のないものはご紹介するには及ばないと思っています。それにしても南九州の縄文時代には驚かされます。



埋蔵文化財センター分館 この建物の奥に宮崎総合博物館があり宮崎神宮の一角です



狩をしながら彷徨していた困難な時代でしたね



北は大阪府、南は種子島まで流通していました



土器の成型に編み物やざるや籠を使ったのですね



磨消縄文土器 竹ノ内遺跡 宮崎市清武町 
旧石器時代から近世までの複合遺跡で縄文後期に最盛期を迎えました



土師器(黒仁田遺跡・古墳時代) 延岡市北方町 
ここからは20000年前の旧石器・縄文・古墳時代の複合遺物が上下に発掘されました



木製品を樹脂で固めるのですね


宮崎総合博物館



豆粒文土器 土器の起源は南九州では12000年前にさかのぼれます、



鬼界カルデラの噴火は早期縄文文化を根こそぎにしてしまいました
(新しい年代測定では6300年前です:鹿児島編参照)



やっとお目にかかった県内唯一の土偶



「中国で竜という想像上の動物」が現在の竜の形に定着したのは紀元前3世紀の前漢時代、
そして日本に伝わったのが弥生時代の3世紀、卑弥呼が使いを魏へ送った頃ですから、
 この古代に話題になったとは思えませんが、時代的に合うので日本の竜の初期
ともいえる
竜ですね




船形埴輪(重要文化財) 西都原古墳170号墳 3世紀 重要文化財 レプリカ 海洋民族らしい埴輪ですね



古墳時代 一軒の家から出土した土器類 宮崎市陣ノ内遺跡 豊かになってきた暮らしですかね



5世紀前半の須恵器が宮崎にたどり着いたのは古墳時代以降でした



国宝 金銅製馬具 西都原市百塚古墳 レプリカ



県立宮崎博物館


いよいよ最後になりました、日本列島に人が住みついて10万年、最も古い出土品の石器や炉の跡が宮崎県で約6万年前の火山灰の下から出ています。氷河期には平均気温が8℃も下がり、海面も140m下がって大陸と地続きになるなど、日本民族は長ーい旧石器時代をマンモス・オオツノシカや野牛を追いながら、命を燃やしてきました。

それから縄文・弥生・古墳時代へとたどってきたわけですが、ある時代から次の時代への移行が年々早くなってゆくような錯覚にとらわれていますが、これは後代の人々が勝手に時代区分しただけのことで、時代時代の人々の暮らしは、火山爆発などの自然災害以外で変わるわけでもありませんね。

時代ごとに早くなってゆく年月、それに反比例するかのように人間の寿命は延び続けています。南九州の古代人の豊かな暮らしをつぶさに見てきた感想は、もはや地球は支えきれないほどの人類がはびこり、終末へとひた走っていることだけは、事実として受け止めざるをえないと思います。

古代人の簡素で豊かな精神風土を偲び、古代を振り返りながら日々を送りたいと思うこの頃です。


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