第86(101)回 9月 Newコダイ・ウォーキング レポート


玄奘三蔵法師の旅と本願寺の国宝そして京都水族館


鬼怒川の氾濫による大水害にあわれた皆さんに、私は若いころ九州で畳より1メートル以上の台風による水害にたびたび襲われたことを思い出し、自然の猛威か自然破壊による人災かはわかりませんが、心からのお見舞いと一日も早い復旧をお祈りいたします。


長く暑い夏も消え去りいよいよウォーキングシーズンとなりました、今月は弱まった脚をいたわりながら京都の町を12Km歩き、東本願寺の庭園・渉成園(枳殻邸庭園)、豊臣秀吉の寄贈した本願寺(西)を参拝し、ついでに龍谷大学の明治時代の建築物を見たうえで、龍谷大学ミュージアムに玄奘法師の足跡を訪ね、残りの時間は淡水魚の群れと日本海を丸ごと持ってきた完全人工海水式・京都市水族館で、新しい水族館の在り方を楽しみました。
                          

東本願寺・渉成園・枳殻邸







































東本願寺は1602年徳川家康から寄進された地に成立した寺院ですが、その東側に三代将軍家光より寄進の地に歴代門主の隠居所として池を中心にところどころに茶室や書院などが庭園に収まりよく配置されています。これらの建築はたびたびの火災にあい、現在の建築物は1864年の蛤御門の変での炎上以降に建てられたものです。
渉成園と呼ばれるのは陶淵明の「帰去来辞」の一節から、枳殻邸は庭園の周囲に生垣としてカラタチ(枳殻)の木を植えたところから名づけられたそうです。ただ右上の写真に見るように、醜悪な近代建築が背景を取り巻き庭園の価値を貶めるとともに、手入れ不足で雑草が茂っていて残念なことでした。

本願寺(西)

本願寺(西)
本願寺は、浄土真宗本願寺派の本山で西本願寺ともいわれている。
浄土真宗は、鎌倉時代の中頃に親鸞聖人によって開かれたが、その後、室町時代に出られた蓮如上人によって民衆の間に広く深く浸透して発展し、現在ではわが国仏教諸宗の中でも代表的な教団の一つとなっている。

もともと、本願寺は、親鸞聖人の廟堂から発展した。親鸞が1263年に90歳で往生すると、京都東山の鳥辺野の北、大谷に石塔を建て遺骨をおさめた。しかし、聖人の墓所はきわめて簡素なものであったため、10年後(1272)に、大谷の西、吉水の北に関東の門弟の協力をえて六角の廟堂を建て、ここに親鸞聖人の影像を安置し遺骨を移した。 これが大谷廟堂である。
この大谷廟堂は、親鸞の末娘・覚信尼が敷地を寄進したものであったので、覚信尼さまが廟堂の守護をする留守職につき、以後覚信尼の子孫が門弟の了承を得て就任することになった。

本願寺の名前は、1321年ころに公称し、覚如上人の晩年からて親鸞の影像の横に阿弥陀仏像を堂内に安置した。これが現在の御影堂と阿弥陀堂の両堂の始まりである。

室町時代の中頃に出られた第8代蓮如上人は、1457年43歳の時、法灯継承すると、平座で仏法を談合され、聖人の教えをだれにでも分かるようにやさしく説いたので、教えは急速に近江をはじめとする近畿地方や東海、北陸にひろまり、本願寺の興隆をみることになった。しかし蓮如の教化は比叡山を刺激し、1465年大谷本願寺は比叡山衆徒によって破却され、難を避けられて近江を転々とし、1471年に越前(福井県)吉崎におちついた。

蓮如の説く平等の教えは、古い支配体制からの解放を求める声となり、門徒たちはついに武装して一揆を起こすに至ったので、争いを鎮めようと吉崎を退去し、1478年には京都山科に本願寺の造営に着手した。本願寺の教線は北海道から九州に至る全国に広まった。

この後、山科本願寺は次第に発展したが1532年日蓮衆徒によって焼き払われたので、蓮如が創建した大坂石山御坊に寺基(じき)を移し発展の一途をたどった。
しかし、天下統一を目指す織田信長が現れ、大きな社会勢力となっていた本願寺の勢力がその障害となったので、ついに1570年、両者の間に戦端が開かれた。本願寺は、雑賀衆をはじめとする門徒衆(もんとしゅう)とともに以来11年にわたる石山戦争を戦い抜いたが、各地の一揆勢も破れたため、仏法存続を旨として1580年信長と和議を結んだ。顕如上人は、大坂石山本願寺を退去して紀伊鷺森に移り、その後豊臣秀吉の寺地寄進を受けて大坂天満へと移った。

現在地には1591年豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転した。なお東本願寺は徳川が創建・寄進したもので国宝の建築類はありません。(以上は本願寺のHP「本願寺の歴史」より抜粋)

本願寺の国宝群:御影堂・阿弥陀堂・ 書院(対面所及び白書院)・北能舞台・黒書院及び伝廊 2棟・飛雲閣 - 金閣(鹿苑寺)、銀閣(慈照寺)と並んで「京の三閣」と呼ばれる。唐門・紙本墨画親鸞聖人像(鏡御影) 附:絹本著色親鸞聖人像(安城御影)・絹本著色親鸞聖人像(安城御影副本)・『観無量寿経註』 親鸞筆 ・『阿弥陀経註』 親鸞筆・熊野懐紙(後鳥羽天皇宸翰以下11通)附:伏見宮貞敦親王御添状1巻、飛鳥井雅章添状1巻 三十六人家集37帖、附:後奈良天皇宸翰女房奉書1幅 その他重要文化財・美術工芸品多数



国宝「唐門」とご参加の皆さん



唐門の透かし彫り



国宝・御影堂(奥)と阿弥陀堂(手前)


国宝の一部(「本願寺グラフ」よりコピー)


国宝・飛雲閣



国宝・最古の能舞台(1581年)


龍谷大学大宮キャンパス



龍谷大学本館と南館


龍谷大学は江戸時代1639年に、本願寺の「学寮」として創設されてより376年、古い歴史を持つ大学です。画像の建物などは国の重要文化財に指定されており、1879年(明治12)に建てられました、当時は教室内はこのモダンな建物に似ず、畳敷きで学生は正座して学んでいたそうです。現在は文学部をはじめとして理工学部・法学部・農学部など10学部を持っています。


「玄奘」展


玄奘三蔵法師:602(隋)~664(唐)、洛陽の近くで生まれ11歳で洛陽の浄土寺に入る、17歳で長安(現・西安)荘厳寺、成都の空慧寺で受戒してのち、各地の高僧を訪ね歩き、「摂大乗論」を追求したが唯識思想の疑問に解答を得るべく、唐の国禁を犯して629年インドへ向けて出国、役人の監視を逃れながら河西回廊を経て高昌国に至り国王・麹文泰の手厚い保護と経済面の支援を受けて、天山南路から北路・ヒンドゥークシュ山脈を超えてインド・ナーランダ大学に学び、インド各地の仏跡巡礼を経て、645年に657部の膨大な経典とともに、足掛け19年・距離35000Kmに及ぶ旅を終えて帰国。

唐の大宗は彼を受け入れ、西安近くの大慈恩寺に大雁塔を建て、玄奘は生涯経典の翻訳に尽くしました。彼の翻訳した経典は1000巻を超え、このうち600巻は「大般若経」でした。
彼の大旅行は「大唐西域記」にまとめられ、16世紀の明時代に孫悟空らとの旅として「西遊記」が生まれていることはよく知られています。
中国よりインドへお釈迦さんの教えを学びに行ったのは、玄奘さんがはじめではありません、玄奘より230年も前にインドへ求法の旅に出たお坊さん・「法顕」がおられました。
その旅は「仏国記」=「法顕伝」として有名です。読んでいると鳥肌立つような艱難辛苦の模様と当時未開の地を行く勇気と求法の情熱が伝わってきます。

日本の坊さんで古代にインドまで行った人は一人もいなかったようですが、東シナ海を小さな帆船で中国に渡ることも、大きな冒険であり、鑑真和上が6度目の航海でようやく日本に来られたことから見ても、多くの人々が海のもずくとして消えたことでしょう。



玄奘さん(龍谷ミュージアム「三蔵法師 玄奘」よりコピー)


法 顕:337~422年(東晋時代)現在の山西省武陽で生まれる。幼くして出家、20歳で具足戒を受け、その人となりは「志行明敏、儀軌整粛なり」といわれた。
仏教の学究を進めるにしたがい、経典の漢語訳出にくらべて戒律が中国仏教界において完備しておらず、経律ともに錯誤や欠落があるのをなげき、399年・
64歳のとき、慧景、慧応、慧嵬、道整等の僧と共に長安からインドへ求法の旅にたった。
途中
ホータン王国を経由しつつ6年かかって中インド(中天竺)に達し、王舎城などの仏跡をめぐり、『摩訶僧祇律』、『雑阿毘曇心論』などをえて、さらにスリランカにわたり、『五分律』、『長阿含経』などをもとめた。

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海路(南海航路)で青州(今の山東省)へ帰国したが、帰国できたのは78歳の法顕のみであった。彼の記した旅行記『仏国記』(別名、『法顕伝』、『歴遊天竺記伝』があり、当時の中央アジアインドに関して書かれた貴重な史料となっている。敦煌から流沙を渡った際には「沙河には悪霊、熱風多く、皆死に絶え一人も生命を全うするものはない。上には飛ぶ鳥なく、下には走獣なし。見渡す限り渡ろうとせん所を探すも何もなし。死者の枯骨を道標にするだけ」と述べている。そこは現在のロブ砂漠である.


建康
仏陀跋陀羅に出会い、法顕が持ち帰った『大般涅槃経』等が訳出され、涅槃宗成立の基となった。『摩訶僧祇律』40巻も訳された。法顕は荊州の辛寺で没した。享年86。没後、『五分律』も仏駄什が訳した。
(ウイキペヂアより抜粋・加筆)




龍谷ミュージアム入口


京都水族館


この水族館はオリックス系の経営する水族館です、海のない京都駅の近くに作られていることを不思議に思っていましたが、人工の海水を使っていると聞いてびっくりやら納得やら、まさに科学の発展を見せつけられました。
規模は小さいですが、淡水魚と500トンの海水の入った大水槽では日本海を表している海水魚が隣り合わせにいる面白いところでした。日曜日とあって子供ずれの家族がいっぱい、京都市では縁のないサメやエイに歓声を上げていました。






































大水槽で 右はコブダイ



こんなのもいました 海の恐竜モモサウルス 12.5~18m 
西ヨーロッパや北アメリカ大陸、日本などの白亜紀後期の地層から多く見つかっている


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