第84(99)回 5月 Newコダイ・ウォーキング レポート


近つ飛鳥博物館にみる「出雲とヤマト」そして瀧谷不動


おなじみの近つ飛鳥博物館で「古代出雲とヤマト王権-神話の国の考古学-」展が開催され、私たちが行きました三度にわたる「古代の出雲」・荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡・西谷墳墓群「山陰の弥生時代」に代表される強大な古代出雲とヤマトの関係にスポットがあてられ、私たち古代を歩いている者には興味深い展示会でした。

その後、空海が821年に当地の龍泉寺に参籠したおり、不動明王像などを刻んだと伝えられている(現在の像は平安時代の作)日本三大不動(福島県:中野不動尊、千葉県:成田不動尊)の一つ、眼病に効くという瀧谷不動明王寺へ行き、新緑にむせぶウォーキングを満喫できました。



新緑につゝまれる博物館


古代の出雲とヤマト
ここで出雲とはどんなところかを振り返ってみましょう、なんといっても神話の世界の始まりは出雲地方、古事記(712年)は語り部・稗田阿礼による口伝を集めて太安万侶が編集したもので、イザナギとイザナミの夫婦神から始まりそのひ孫の代までの歴史によって推古天皇朝までの大王の正統性を明らかにしており、一方の日本書紀(720年)は中国風の史書を作ることを目的に舎人親王・他によって構築されています、外征の失敗や外敵の進出におびやかされた時代に歴史を集めていますが、王権にとって都合の悪いことは改ざん・取捨が行われており、これら「記紀」の説く歴史は信頼に足る歴史書ではないようです。

近年まで古事記は厳然として出雲大社や日御碕神社があるにもかかわらず、極端にいえば絵空事、おとぎ話として重要視されませんでしたが、これは女神のアマテラスを最高神に仕立て上げてきた大和王朝以来の誤った史観に基づき、江戸時代以降の日本国が形成されていった結果、弟であるスサノオは暴れん坊としての地位しか与えられてこなかった史観の大きな誤りを、歴史学会が正そうとしなかったことです。

にわかに出雲が脚光を浴びることになったのは、1984~85年に島根県の宍道湖西南・斐伊川流域で、弥生時代中期の銅剣358本が一か所から発見され、すぐ近くから銅鐸6個と銅鉾16本が一括埋蔵されていた荒神谷遺跡、さらに1996年には荒神谷の南東3.5キロで39個もの銅鐸が発見された加茂岩倉遺跡の発掘によって、それまで日本全国で発掘された銅剣を上まわる大量の銅剣が発掘され、強大な国の存在が立証されたことです。そこは現在に残る「出雲風土記」に「天の下造らしし大神の御財(みたから)を積み置き給いし処なり」と大国主命の神宝を祀った場所であったことです。

そして1995年に鳥取県の青谷上寺地遺跡、2000年に妻木晩田遺跡が発見されるにおよび、これらの遺跡が九州の吉野ヶ里遺跡の1.3/2.0倍の規模をもつことがわかって、弥生時代最大の国が出雲であったことが立証され、まさに古事記に記された出雲の国がよみがえったことで、神話と事実が融合したことでした(吉野ヶ里640㎢・大阪池上曽根600㎢・妻木晩田1560㎢)。

余談ですが、青谷上寺地遺跡では戦闘による死骸が100人分以上発見され、これは「魏志倭人伝」・「後漢書」や「梁書」による西暦147から183年に「倭国乱れる」という時期に相当しており、誰と戦ったのかはわかりませんが大きな戦争があったことがわかります。

長くなりますのでさらに簡単に記せば、銅鐸はヤマトにおいて使用された祭器であり、銅鉾は北九州で使用されていたもので、銅剣は瀬戸内から山陰にかけても多く発見されていますが、ここで注目すべきは荒神谷遺跡から銅鐸と銅鉾が一緒に埋められていた事実です。東の文化圏と西の文化圏がここで一か所に集まっていることは、その文化の違いを超えての交流の中心が出雲であったことです。

歴史は進み、古墳時代になるとヤマトでは広大な古墳群が続々と作られ、北九州地方でも前方後円墳などが普及していることで、ヤマトと北九州は敵対関係がおさまり、ヤマトによる集中的な国の形成が生まれてゆきます。これは初期には九州・中国・ヤマトより東方の集団がヤマトに集まってきたことを推察できますが、なんと出雲地方はその頃東部と西部が同じ動きをしていませんでした。

出雲西部ではヤマト式墳墓が一般化しているのに、東部では四隅突出墳丘墓がますます巨大化してゆくのです、例として大山山麓の妻木晩田遺跡は北九州の吉野ヶ里遺跡の2倍以上の規模があり、出雲市の西谷墳墓群の3号墳丘墓は一辺が55mもあります。これはこの地方だけがヤマトに従属していなかったことを物語っています、そこには強大な国が原材料の鉄を朝鮮半島から仕入れることができたのでしょう。

ここで古事記の伯母アマテラスが、なんとしても従弟のオオクニヌシの治める国が欲しくなり、何度も交渉役を差し向けるのですがそれぞれ懐柔されて帰ってこず、アマテラスは逆にオオクニヌシの子供達を懐柔して、ついにオオクニヌシに現・出雲大社の地に広大な住まいを作ることを条件に国譲りに成功します。まさに神話と史実が融合した場面は面白く、オオクニヌシは大和・三輪山山麓にまで進出します。アマテラスが東の伊勢にオオクニヌシは西にという勢力図は、イザナギとイザナミが取り決めた通りに現在もなっているのは面白いですね。

ということで、今回の「古代出雲とヤマト王権-神話の国の考古学-」展は、神話にまでは言及しないものの、発掘品の数々によって出雲を知らしめてくれました。(この記述は以下の文献を基本に偏見と独説を交えていますので、ご批判を喜んでお受けします、冒頭の3回の出雲行のHPともどもお楽しみください)。

(文献:「倭の五王」藤間 生大著 岩波文庫、「出雲抹殺の謎」関 祐二著・「古代日本誕生の謎」武光 誠著いずれもPHP文庫、「山陰の古事記」古代出雲王国研究会、「考古学からみた古代出雲とヤマト王権」白井太一郎著 近つ飛鳥博物館館長、「古代出雲歴史博物館」 展示ガイド」)


「古代出雲とヤマト王権-神話の国の考古学-」展(図録よりスキャン)


青銅器分布の変遷 最下段は弥生時代中期末以降出雲では青銅器埋納が見られなくなり新しい祭りに移行しました



出雲における墳墓の変遷



倭の五王時代の出雲の首長墓の変遷


瀧谷不動明王寺

821年に弘法大師・空海が龍泉寺に参籠したときに、国家安泰・万民化益を願い、一刀三礼で不動明王像を刻み仏像を祀るために諸堂が造営されたことを起源とするといいます。
南北朝時代になると楠木正成が嶽山城を構築し守護仏として瀧谷不動明王寺の不動明王を崇敬しましたが、1360年に足利義詮が獄山城を攻め兵火で諸堂が焼失しましたた。
その後、盲目の老僧が現れて、不動明王の霊験を人々に説いて、二間四面の小堂を建立して礼拝していましたが、まもなく老僧は眼が見えるようになり姿を消しました。
この盲目の老僧は、弘法大師が作った不動明王が霊験あらたかであることを教えたとの説話により、眼病平癒を願う参詣者が多いのです。交通の頻繁な広い道路に分断されたお寺は、あまりご利益が感じられないたたずまいになっていました。



瀧谷不動寺参道



本堂 平安時代作の不動明王が祀られています



一番上が三宝荒神堂・中段33ヶ所堂 ここまでエレベーターで登ります



大小たくさんのお堂がありました



円形の屋根は33ヶ所堂 最奥は本堂の上の多宝塔



行場の滝 こんな水量では修行になりませんね


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