第74(89)回 4月 Newコダイ・ウォーキング レポート


京都大原に桜を訪ねて露天風呂


4月、大原の里に桜が咲いているだろうか?と心配しながら行ったところが、桜も梅も桃も花盛り!寂光院は聖徳太子が建てられたお寺で、初代の庵主さんは太子の乳母の玉照姫、そして恵心僧都源信と姉の安養尼が父母の菩提に建てた三千院をまわって、午後から由良川にほど近い山奥の丸太小屋に行きました、目的は露天風呂に入ることだったのですが、風邪をひくとか何とか、結局誰も入らずにのんびりとした時間をすごしました。


大原の里


花盛りの大原の里と高野川

大原の里は興味深いところです、どうして聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために、このような山深いところに御堂を建てられたのか?いろいろ調べてみたのですが答えは出ていません。もっと遠い時代に大陸側から人々が日本に渡来して、琵琶湖西岸に生活圏を置いたことは解っていますから、その流れの中で大原の里も開拓されていったのでしょう。
寂光院以後、三千院や浄土声明の勝林寺などなど、多くの寺院が立ち並び、大原女(おはらめ)の柴や柴漬けを京都に売りに行ったこと、京都から隠棲した人々が住み着いたことなど、じっくりと大原の里を探ってみたいものです。


寂光院

594年(推古2年)聖徳太子により創建、2000年放火により焼失、2005年再建。御本尊は太子作と云われる六万体地蔵尊の鎌倉時代版(1229年)、これも黒こげになったが収蔵庫に安置(現在も重要文化財)、現在の本堂にあるのは3年半かけた復元像。初代住職は太子の乳母の玉照姫。
二代目の阿波内侍(藤原信西の息女)は崇徳天皇の寵妃であったが、出家後畑仕事に出る装いが大原女スタイルとなり、第三代の建礼門院徳子(平清盛の息女・高倉天皇の中宮・安徳天皇の母)など代々高貴な家の女人が法灯を守ってきました。後白河法皇が徳子をお見舞いに来た大原御幸は「平家物語」で有名ですね。



寂光院山門



復元なった寂光院本堂



汀(みぎわ)の池と諸行無常の鐘、右の大木は火災により枯れ死にした千年のひめ小松

「池水に汀の桜散り敷きて 波の花こそ盛なりけれ」 後白河法皇



六万体地蔵:像内に3000体以上の地蔵が埋められていた:全体が檜の寄せ木造り
像高約2.5m (寺院にあったポスターをコピー)



建礼門院徳子の西陵への道


三千院

986年「往生要集」において地獄と極楽を世に著わし、日本の浄土教を大成した恵心僧都源信942〜1017・法然上人の師)、母の和歌「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ」で有名、詳しくは第14回ブッダウォーキングの比叡山・横川をご参照が建立しましたが、創建は伝教大師最澄(767〜822)が比叡山延暦寺を建立の際、ここに草庵を結んだのが始まりです。
代表的な「往生極楽院」には極楽浄土の様子が天井画としてかすかに残り、阿弥陀三尊像は国宝として人々の尊崇を集めています。



三千院の山門



聚碧園



極楽往生院



国宝:勢至菩薩・阿弥陀如来・観音菩薩(パンフレットよりコピー)



復元模写 往生極楽院舟底型天井画(文化財収蔵庫・円融蔵 パンフレットよりコピー)


そして…



桜とともに昼餉



関西大学探検部OB会山小屋にて


常照皇寺

この寺は北朝初代の光厳天皇が隠棲の地として1362年に開かれ、臨済宗天竜寺派に属する禅宗寺院。境内には、国の天然記念物である「九重桜」をはじめ、御所から株分けしたといわれる「左近の桜」、一重と八重が一枝に咲く「御車返しの桜」など桜の名木があり、観桜期には大変な賑わいをみせていましたが、いずれの桜も枯れ果てて、現在はそこから若木が花を咲かせています。往時の桜はHP関西紀行「桜の記憶」でご覧下さい。



光厳法皇廟



常照皇寺参道前に咲く紅しだれ、2005年の「桜の記憶」当時より寂しい桜、柵もないので近々枯れることでしょう



さようなら 大原の里の春


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