特別番外編「二つの国宝・弥勒菩薩半跏像 京都・広隆寺と奈良・中宮寺


世界的に有名な二つの菩薩像を2014年の1月と2月に二度も拝観できたことは幸せなことと思っています、いずれの菩薩像がより優れているとか、好きだとか、そのようなことを論じようとするのではなく、まずはお二方の像の成立由来や、製作方法などをたどってみたいと思っています。いずれも百科事典やホームページ上での解説を精査して、私流に取捨選択してご覧に入れたいと思っています。(画像はいずれも絵葉書をコピーしています、両画像を同寸で見るためにいずれかをトリミングしています)




  



































              広隆寺 弥勒菩薩半跏思惟像                               中宮寺 如意輪観世音菩薩半跏像


両寺の成立などはそれぞれ広隆寺(公式HPなし・ウィキペディア)・中宮寺(公式HP)に由来が記載していますので省略します。「風来坊主のおおさか物語」にも解説があります。

 






































  

比 較 表

          広隆寺                     中宮寺 

国宝名称     宝冠弥勒                 木造菩薩半伽像

寺の名称     弥勒菩薩半跏思惟像
            本尊菩薩半跏像(如意輪観世音菩薩)平安時代以降の名前で当初は
                              弥勒信仰によって弥勒菩薩像として造立                                                           
                     
製作年代     飛鳥時代(603年以降)           飛鳥時代(607年以降)

材 質
      赤松ならびに背中側は楠、 以前は朝鮮    楠 頭部X2胴X1両脚X1台座X1などの特異な木寄せ造り
         渡来説
、朝鮮には楠が少ないため改められた

彩 色      漆で金箔を貼り付けた漆箔像          彩色、別製の装飾具を付けていた

像 高       足元から
123.3cm台座より147 cm        132cm
 どちらが大きいかはわかりません

         










































さて、皆さんはどちらの菩薩像を好みとしますか?中宮寺の菩薩さまは世界三大アルカイックスマイルの一つとして世界的に名高く(他はレオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザ・エジプトのスフインクス)、また広隆寺といえば弥勒さまの代名詞のようなお二方です。

私が初めてお二方にあって早や60年近く経ってしまいました、その間に菩薩様も転居して今は半恒久的なところに安置されておられます。

私はこれらを作った仏師が同じ人とは思っていませんが、二人の心が弥勒菩薩さまを本当に信じきった心で作っていたことが迫ってくるように思えます。
救世・救心の仏として未来に釈迦以来この世にあらわれる仏さまを待つ心が、このように人間を超越した気高く清々しい像を作らせたのでしょう。

この穢れ多き人の世を、お釈迦さまの教えのようには生きられない凡愚の身の、短い一生のたとえわずかな間であっても清らかに生きるために、ときには弥勒さまを思い浮かべようと思っています。

さてそのような弥勒菩薩は、釈迦の次に世に現れる仏さまとして修業しておられるのですが、その弥勒菩薩を待ちわびる人々は、弥勒信仰のために弥勒菩薩像をたくさん作ってきました、その中で飛鳥時代に作られた半跏思惟をご紹介します。




国宝・弥勒菩薩半跏思惟像 広隆寺 飛鳥時代楠一木彫
「宝髻(ほうけい)弥勒」、「泣き弥勒」と呼ばれています


以下の画像は東京国立博物館の法隆寺宝物館の展示を2014年2月28日に撮影したものですが、仏像館内は足元さへわからないほど暗く、仏さまにはほんの少し光をあてているだけですから、十数体の半跏思惟像を手持ちカメラで写すのに、何度も明るいロビーへ出ては確認を行ったので3時間もかかってしまいましたが、それでも弥勒さまを撮影している幸せな心が時間を忘れさせてくれました。写りはよくありませんがいずれも飛鳥時代に作られた金銅仏ですべて重要文化財でした。

法隆寺宝物館は、明治時代愚かな政府が廃仏毀釈を断行し、いずれの寺も存続の見通し立たないところへ追いやられました。もっとも由緒ある法隆寺も困り果てた結果として、寺の宝物の一部を1878(明11)年に明治天皇に献上しましたが、太平洋戦後、皇室はやっとこれらの宝物を国へ返し東京国立博物館に法隆寺宝物館を造って収納することができました。


下の右側の写真は、3月11日のウォーキングの際「飛鳥資料館」にあったレプリカで右上は東京の法隆寺宝物館と同じもの、右下は大和古市の野中寺の弥勒菩薩像のレプリカです、こちらのほうが鮮明なので入れなおしました。






































































法隆寺宝物館の国宝より





































               国宝 竜首水瓶 飛鳥時代・7世紀                     国宝 海磯(かいききょう)鏡 唐または奈良時代・8世紀



法隆寺宝物館 梅が咲いて残雪がありました


「二つの半跏菩薩像に思う」
どちらの菩薩さんも上半身は裸ですね、なぜなんでしょう?日本の仏像はたいてい衣服をまとっておられるのが普通ですから、いっそう鮮烈な印象を与えてくれるのでしょう。

飛鳥時代(592年・推古天皇即位~694年・持統天皇が藤原京へ遷都)はまさに仏教美術の華が咲いた時代でした、仏教伝来(538年)より続々と仏教文化が流入し仏教国家が形成されてゆきます。

寺院とともに仏像が造立されますが、中心に存在したのは鞍作止利(くらつくりのとり)の集団、彼らは渡来人で鞍を造る専門家、つまり木彫、鋳造技術に優れていました、飛鳥寺の釈迦如来像、法隆寺の釈迦三尊像に代表される仏像がほほ笑んでいるのが止利の特徴だそうですが、中国・北魏から朝鮮に伝えられた仏像にも二つの菩薩像にもアルカイックスマイルは共通しています。

中宮寺の菩薩は「日本書紀」に従って、日本では赤松で仏像が作られた例がないので623年・朝鮮・新羅より伝来とされていましたが、1968年に像の背中部分が楠で作られていることが分かり、日本製かという疑問が生まれています。確かに菩薩さんのお顔は西域又は朝鮮風と感じることもできます、一方中宮寺のほうの頭の髪型は日本独特です。そんなことはこれからの解決に任せることにしましょう。

ここで一つの素晴らしい半跏菩薩像を見ていただきましょう。



   韓国・ソウル 国立中央博物館 国宝
   製作 三国時代(BC1~AC7) 金銅製
         (HP「大和古寺探訪」よりお借りしました)  
  

中国から朝鮮に仏教が伝えられたのは三国時代(372年高句麗・384年百済・528年新羅国)です、日本の仏像はすべて朝鮮から技術を学んだのですから。ご覧のように菩薩像は裸です、日本の代表的な二つの菩薩さんは朝鮮から来られたか、朝鮮の菩薩像を見て作ったと推測できます。

私の推測では、広隆寺のほうは朝鮮より渡来、中宮寺のほうは聖徳太子から見せてもらった止利集団の誰かが作ったということです、なぜなら朝鮮半島の南部には楠があることと、中宮寺のほうは日本人的なお顔であることです。まあ、そんことはどうでもよくて只々二つの崇高な精神性と美しさを、ひたすら崇めてゆきましょう。


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