第7回ブッダ・ウォーキングレポート



般若寺(629年) 十三重石塔(746/1267年)

仏教の日本への公式伝来は朝鮮の百済より538年、588年には飛鳥寺が完成し、推古天皇による「三宝興隆の詔」(594)によって仏教国としての道が確立されました。

聖徳太子による憲法十七条(604)、四天王寺建立(593)、法隆寺建立(623)など仏教を基本とする国家建設が進められ696年の藤原京は中国の長安の都にならったものでした。

701年には大宝律令が制定されて日本国のあるべき姿が確定し、710年平城宮へ遷都、聖武天皇によって東大寺建立が発令され752年に完成を見ました。

ここまでが私たちの6回に亘るウオーキングでたどってきた道です、その間に蘇我氏と物部氏による宗教戦争、大化の改新による権力闘争など、飛鳥を中心とする大和の古代国家は揺れ動きましたが、各国に建てた国分寺と国分尼寺そして東大寺建設によってようやく国の安泰を見ることが出来ました。

今回は、厳しい今年の冬には珍しい暖かい青空の下、その東大寺周辺を歩きました、広大な広さの地にいくつもの寺院が立ち並ぶ様は、国は争わず平和であることこそ一番大事なことと思ったことでした。

般若寺
飛鳥時代に高句麗僧慧灌によって開創され、天平に至って聖武天皇が平城京の繁栄と平和を祈るために大般若経を奉納して卒塔婆(スツーバ)を建て、平安時代には学僧千余人による学問寺として大いに栄えましたが、1180年平重衡の南都焼討によって礎石のみ残されました、鎌倉時代に入ってまず十三重石塔を初めとする諸堂が復興され境内には病舎を建てるなどして、衆生救済の寺として栄枯盛衰を重ねながらも現代に至り、関西花の寺第17番札所としても知られ、奈良市内の興福寺や東大寺など大官大寺にない心の潤いを与えてくれるのです。




























御堂と塔と石仏と」

(鎌倉期・石塔は中国の石工による、基壇には薬師・阿弥陀・釈迦・弥勒像が顕教四方仏として彫られている)



楼門(鎌倉期・国宝)の傑作をあとにして楽しい語らい


スツーバ(卒塔婆)とは?

お釈迦さんが亡くなられたとき、遺骸は荼毘に付され遺骨は当時の有力国に分けられました、それがまた分骨されてインド全土に広められ崇められてきました。
アショーカ大王はその分骨を巨大な仏塔を全国に建てましたが、それ以前には地方によっては土饅頭の下に収めれていました。
インドでは春から夏にかけて雨季が続きますので、土饅頭の墳墓では土が流される危険性があり、人々はこの墳墓に傘を次々と立てたそうです。
傘の上に傘を重ねたのが、やがて仏塔の始まりとなり今では十三重の石塔や五重塔などとして、インドから大陸をたどって日本まで伝わってきました。
卒塔婆という言葉は中国語でインドのスツーバの音訳です、中国語では外来語を音訳と意訳にして漢字化していますので、音訳の方はいくら漢字を見てもその意味は分かりませんね。

東大寺戒壇院
鑑真和上が754年来朝し、聖武天皇を初め百官公卿400人が戒を受け、日本が正式な仏教国として成立しました。現在の戒壇堂は1732年建立。堂内には多宝塔と奈良時代の四天王が安置され、四天王の着る甲冑は中央アジア様式で、中国の寺院の四天王とともに同じ様相をしています。



大仏殿
誰でも知っている奈良の大仏さんの金堂です、創建は751年、現在の御堂は左右が三分の二の大きさになって1692年製ですが、高さ47m世界最大の木造建築物です。光り輝く鴟尾(シビ)が目映いですね。


鐘楼と梵鐘(26トン・いずれも国宝)


二月堂と三月堂

二月堂は修二会(お水取り)を目的に752年創建、現在は1669年再建されたもの、もう直ぐお水取りが始まり、終ると春が来ます、舞台からの眺めは美しく、節分にはあの上から下の民衆に向けて豆まきが行われます。

三月堂は東大寺最古の天平(740/747年)の法華堂(国宝)で、ここで華厳経が始めて講義されたそうです、堂内には本尊不空羂牽観音立像を中心に日光・月光菩薩立像、梵天・帝釈天立像など天平佛14体と鎌倉・室町2体が立っておられ、そのうち12体が国宝4体が重文という宝庫です。堂内には凛とした雰囲気が立ちこめ仏様の世界に時が経つのも忘れます。




























三月堂(法華堂)内陣 撮影:法華堂パンフレットよりデジカメで転写



新薬師寺

747年に光明皇后が夫・聖武天皇の病気平癒を祈って創建、七堂伽藍の大寺でしたが780年落雷によって食堂(現本堂)を残して焼失、貴重な天平建築の現本堂(国宝)には本尊木造薬師如来坐像(平安前期)を取り囲んで等身大の塑像十二神将(いずれも国宝)が立つ様子は天平の世界へ戻ったかのようです。


本堂と鐘楼・南門(鎌倉期)



興福寺

藤原氏の氏寺として669年(天智天皇時代)に京都に建立され飛鳥に移転し710年に平城京遷都とともに藤原鎌足の子・不比等が移しました、藤原氏が全盛期を迎える平安時代には春日大社と一体化して大和一国を領する大きな勢力を持ちました。

平家の乱以後盛衰を繰り返し1717年の大火によって衰退、それでもここは仏教美術の宝庫であり国宝や重文の数限りなく、7回の焼失のたびに天平様式で再建されてきました。

この再建は今も続いており中金堂が天平の姿そのままに2010年(創建1300年)再現されるのを待っています。

興福寺を本山とする法相宗は、中国の三蔵法師玄奘ががインドから伝えた唯識論を弟子の慈恩大師が法相宗に大成したものが奈良時代に日本に伝わったものです。



東金堂と五重塔(国宝)

(五重塔一層目には般若寺と同じ顕教四方仏の各三尊像が安置されています)


































                   猿沢の池より                      塔高約50m(京都の東寺についで高い)6度目の再建


その他ウォーキングで行ったところ

春日大社

藤原氏の氏神、藤原不比等が710年創建・1863年造り替え、約2000基の灯篭が身分を問わず奉納された結果それぞれの形が違う、節分とお盆の万灯篭では約1000基の灯篭にローソクが灯される




















元興寺

6世紀末、蘇我馬子によって開かれた飛鳥寺(法興寺)が平城京遷都によってこの地に移転して改名、かっては南都七大寺の一つだったが平安時代より衰退、鎌倉時代に極楽堂と禅室(いずれも国宝)に改築されて、庶民の信仰を集めました。


左:極楽堂 右:禅室

奈良市写真美術館

奈良の風物を撮り続けた写真家・入江泰吉さんの作品8万点を収蔵、現在は「爛漫大和路」と題して冬から初夏に咲く花々40点を中心に、入江さんが愛用したライカ・ハッセルッブラード・ミノルタα・リンフォフテクニカが展示され、同時に明治・大正・昭和にまたがる奈良の繁華街「奈良町の風景」展を開いていました。


外観も美しい写真美術館


「かくて、いいお天気に恵まれて持参のお弁当は奈良公園の陽だまりで鹿に見つめられながら食べました、仏といい仲間に恵まれた7回目のブッダ・ウォーキングを終えて、お決まりのコースで新年会!これがまた談論風発!愉快な愉快な一日でした。
これからの予定は日程だけお知らせしますと、2月22日(水)、3月22日(水)、4月22日(土)となっています、
場所その他については各前月末にお知らせします。
お知らせはこの「おおさか物語」または新しい掲示板「風来坊主の広場」をご覧くださいBye」


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