東北 がんばろう!

第56(71)回 6月の コダイ・ウォーキング レポート

古代の出雲を行く−2 days walking
毎年恒例の宿泊ウォークは古代出雲を歩こうと、前夜の夜行バスで松江に行きそこでレンタカーを借りてのウォーキングとなりました。

前日までの天気予報は雨雨雨でしたが、いつもながらに予報は大外れ、どこかの博物館に入っているうちに雨が降り、出てくるとやんでいましたし、二日目は晴れの天気でラッキーなことでした。ところで私は島根県には何十回と行ってまして、2008年6月にはこのウォーキング・レポートに「番外編・古代の出雲」をUpしています。

今回は会の皆さんにも楽しんでもらうべく企画しましたので、「西谷墳墓群」のページ以外の概要はそちらをご覧いただきたいと思います。前回と同じ遺跡を歩いていますが側面から古代出雲を歩き回りたいと思います。

レンタカーといえども遺跡は広いですから、二日間の歩数計は2万歩を優に越えましたから、足の悪いMさんには酷なことだったのでは思っています、ほかの人は年に似合わぬ健脚者ゆえ、もう少し思いやり歩行が必要かもしれません。


荒神谷遺跡公園の「大賀ハス」
「大賀ハス」とは
1947年千葉県検見川の東京大学農場内で草炭の採掘中に、一隻の丸木舟と6本の櫂を発見し1947年まで調査を続けたところ、さらに2隻の丸木舟とハスの花托を発掘し、縄文時代の舟ということで「落合遺跡」と呼ばれるようになりました。

植物学者でハスの権威者である大賀一郎博士(1883〜1965年)が、1951年3月3日より地元の小中学生・一般市民の協力によって、遺跡の発掘調査に当たりましたが、調査は困難を極め、31日で打ち切りの前日の夕刻、女子中学生が地下6mの泥炭層からハスの実1個を発見、予定を延長して4月6日にさらに2個を発掘しました。

博士は自宅で発芽育成を試み、最初に発見されたハスの実が7月にピンクの大輪を咲かせました、丸木舟の炭素年代測定をアメリカに依頼して2000年前の弥生時代以前のものと判明、この花は世界中で「世界最古の花」と呼ばれ、その後日本のみならず世界中に株分けされています。
弥生時代の銅剣が大量に発見されたここ荒神谷遺跡に咲くハスはひときわ意義のあることと思われます。



群生して開花を待つハスの花:5千株5万本の花がもうすぐ咲きます


神魂(かもす)神社

この神社の祭神は「国生み」で知られるイザナギとイザナミの男女神、「古事記」ではどっかの天上界から派遣されたことになっており、いろいろあった末にイザギは三人の子をつくりますが、一番上から太陽神のアマテラス、月の神ツクヨミそして二人の姉の下の弟が問題児のスサノオとなります。

青年になっても母のいる黄泉の国へ行きたいと泣き喚くスサノオをついにイザナギは勘当してしまい、彼は出雲の国・肥の川上流、現在の鳥取と島根県境のある船通山(1114m)に高天原から降りてきます。
肥の川は現在の斐伊川、船通山を発し宍道湖より中海を通って境水道より日本海へに至る153Km、古にはたびたび氾濫したことで知られますが、砂鉄の生産地でもありました。

彼は斐伊川の氾濫を鎮めることによってヤマタノオロチ退治の話にになったと思われます、かもす神社の隣の八重垣神社はスサノオと正妻のイナダヒメを祀っています。出雲の国づくりを終えた彼は最後に今の日御碕神社に落ち着きます。この地方には何と神社が多いことでしょう、まさに神話の世界ですね。


神域への入り口


風土記の丘学習館の「鹿の埴輪」
かもす神社は「風土記の丘」のすぐ近くにあり学習館という資料館があります、ここには「鹿の埴輪」が展示されていて、振り返る鹿の姿が何とも微笑ましいのです。
この鹿は7月28日より9月9日まで、京都国立博物館の「大出雲展」へやってきて、直径3m以上の鎌倉時代の出雲大社本殿の宇豆柱など古代日本国最大の王国「出雲」の宝物ともども、大和の人たちにお目見えします、お楽しみに…。



重要文化財「見返りの鹿」埴輪


加茂岩倉遺跡


1996年に39個もの銅鐸が入れ子状態で出土したことは前に書きましたが、カメ・トンボ・四足獣・顔などほかの地域にはない表現や文様があります、すべて国宝に指定されました。銅鐸が埋められた理由はわかっていないのですが、銅鐸を使わなくなったのは、それにとって代わる祭儀方法や支配者が変わったことにつながっているのでしょう。

島根には大変多くの弥生時代の青銅器があります、2000年前に材料となる銅・鉛・錫はほとんど中国や朝鮮から入っており、加工技術は高度な専門技術を持つ専門の職人によるものだったのです、金色の輝く金属機器は人々を驚かせたことでしょう。



国宝 加茂岩倉の銅鐸(古代出雲歴史博物館にて)



ウミガメの銅鐸 吊り下げる部分の上側(古代出雲歴史博物館にて)


荒神谷遺跡

1984年に358本の銅剣、翌年に16本の銅矛(ほこ)と6個銅鐸が出土したことは、加茂岩倉遺跡などを含めて島根県が全国有数の青銅器出土地域となり、それまで古代史としても忘れられた地域から、弥生時代像を大変換させることとなりました、神話の世界が弥生時代へとつながっていき、おとぎ話の世界から現実の世界へ生き返ったのでしょう。古代を扱う歴史学者の不面目さが目に浮かびますね。



国宝・荒神谷遺跡出土品のすべて 上にあるのは金色に輝く複製品(古代出雲歴史博物館にて)


西谷墳墓群


出雲市街南東部、斐伊川の左岸沿い標高40メートル程度の丘陵にあります、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての2世紀末から3世紀に築造されたと考えられ、1953年(昭28)に確認され、現在は27号までと番外5号までの32基の墳墓、古墳と横穴墓が確認されています。

四隅突出型墳丘墓6基を中心に全国的にも弥生時代最大級で、日本版「王家の谷」ともよばれ、かってこの地方に大きな権力をもった王国があったことがわかります。


2009年6月に「山陰の弥生時代」として鳥取県の青谷上寺地遺跡や妻木晩田遺跡へ行き、北九州の吉野ケ里遺跡の2倍の規模に驚き、広大な墳墓地帯にも興味深い思いをしましたが、ここの墳墓群は王様と庶民の違いをまざまざと見せてくれました。



復元中の4号墓その向こうは3号墓


3号墓概要:方形部は東西40メートル×南北30メートル、高さ4.5メートル、突出部の付け根の幅7〜8メートル、長さ6〜7メートルの幅広大形。(墳墓群中第2位の規模)

上部に首長が埋葬された第1主体があり、脇にその家族が被葬された第4主体がある。木棺内は水銀朱が敷きつめられており、大型22個、小型25個程の碧玉製管玉の他に、ガラス小玉100個以上とコバルトブルーのガラス製勾玉2個、玉、鉄剣が発掘されました。埋土上から二百数十個の土器が検出されており、この土器のなかには吉備の特殊器台・特殊壺や北陸地方の土器に似ているものがあるそうです。

墓穴の周囲に4ケ所の柱穴が検出され、この柱穴は首長の葬送の際に建てられた葬祭用四阿(あずまや)で、次期首長候補を中心に葬儀が執り行われたと推定されています。


















復元された3号墓 右は墓内への出入り口



地上に埋められた案内板です



棺内部の模様:ボタンを押すと忽然と女性の遺体が浮かび上がってきます、不思議で怖ーい


古代出雲歴博物館


このミュージアムの素晴らしさは、いくら口で言っても行った人でなければわかりません。分類と展示方法そして解説、出雲の名に恥じない世界のどこへ出しても誇れるところだと思います。
このごろ全く理解不可能な撮影禁止のところが多いのに反し、撮影が可能なことも公共の博物館の使命をよく理解されてのことでしょうし、大国主命が大和連合と合体していった経緯が「出雲を国のまほろば(素晴らしいところ)」として、大国さんに親しみを覚えるのも、この博物館があればこそ一層そう思えるのです。
また展示ガイドブック(一冊1000円)を買い求めれば、出雲のなんたるかを解ってしまえる優れものです、京都展でも買えることを期待しましょう。



239年邪馬台国の卑弥呼が魏に使者を送り銅鏡100枚を贈られたうちの一枚(複製品)













































出雲大社



神楽殿:出雲大社教が1879(明12)年に結成された折「だいこくさん」を祀るために建設し1981年に改築、しめ縄の重さ5トン

「大国主命」小話 (古事記・古代出雲王国研究会「山陰の古事記」他より要約)

私たちが「だいこくさん」と親しく呼んでいる神様は、教科書で因幡の白兎を助けられた故事を教えられたことにも由来しているでしょう。

オオクニヌシノミコトはスサノオの末の子オオナムヂとして生まれ、兄たちからいじめの対象とされてしまいます、それは兄弟がみんな妻としたかったヤガミ姫が、心優しいオオナムヂを夫に選んだからですが、やがて国の盟主に選ばれたオオナムヂは、国造りに励み大国の主となったのです。

この人は大変なプレイボーイで北陸地方へ妻問いに行ったり、手元にある神様の系譜に出てくる名前だけでもヤガミ姫、スセリ姫(スサノオとイナタ姫の間の子)をはじめ8名の名前が挙がっています、それだけ山陰の人たちに人気があったのでしょう。

こんな出雲の国を何とか手に入れたいと思ったのが伯母のアマテラス、次々と使者を出しますが懐柔されてしまって帰ってこないのに業を煮やし、戦を仕掛けることにして使者を出し、大国主の子供二人の同意を得てしまい、大国主は「伯母の家のような宮殿を立ててくれるなら、国を譲ろう」ということで、出雲大社ができるのです。

その後、第二夫人のスセリ姫は大山のすそ野で生涯を終え、その近くの妻木晩田遺跡には大国主の娘シタテル姫が暮らしています、妻木晩田(むきばんだ)は紀元前100年から紀元300年にかけて最も栄えた群落だってのですが、300年には衰退してしまいました、これはちょうど出雲の国が大和と合体し、大和朝廷が全国統一を完成させた時期と一致しています。

まさに神話とは歴史上の事実であったことが判りますが、大和の三輪山麓の大神(おおみわ)神社に祀られているのはなんと大国主であることは、出雲の国譲りを平和裏に終えることができ、アマテラスは伊勢に帰ってしまったこと(これは私の独断ですが)と、オオクニヌシが偉大な人物であった証だろうと思えます。







































右:鎌倉時代に建てられた出雲大社本殿:推定復元案で最も高いのは48m(出雲古代歴史博物館にて)
左:20013年5月まで遷宮中、本殿(国宝)の檜皮葺の葺き替えは終わっていました




仮拝殿前で
記念撮影(Hさんご提供)



本殿屋根の巨大な千木と勝男木(1881〜1953年使用)一本の杉から削り出し(古代出雲歴史博物館にて)



緑したたる出雲大社境内


日御碕神社


先に書いたようにスサノオノミコトが晩年を暮らしたところで、現在の建築物は徳川第3大将軍家光によって、日光東照宮完成後建造すべて重要文化財、二つに分かれていて神の宮にスサノオ、沈の宮に姉のアマテラスが祀られています。岬の突端には「日の岬灯台」があります。



沈の宮



神の宮と老大樹の松


「日御碕灯台」:日本一の灯塔の高さ43.65mを誇る石造灯台、1903(明36)年初点灯。世界灯台100選や日本の灯台50選に選ばれた日本を代表する灯台で、歴史的文化財的価値が高いため、Aランクの保存灯台となっており、全国に6箇所しかない最大の第1等レンズを使用した第1等灯台です。200円出せば上まで上がれます。




参考文献:古代出雲王国研究会「山陰の古事記 謎解き旅ガイド」、古代出雲歴史博物館「展示ガイド」、武光 誠「古代日本 誕生の謎」その他百科辞典類


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