東北 がんばろう

東日本大震災支援
第55(70)回 5月の コダイ・ウォーキング レポート


大阪府高槻市の旧石器~奈良時代を歩く



今城塚古墳祭祀場の日本最大・家型埴輪をはじめとする埴輪群(全て信楽焼です)


高槻市は大阪と京都のちょうど中間にあり人口35万人、工場群とベッドタウンとして知られていますが、歴史をさかのぼると約2万年前・旧石器時代から人々が暮らしており、北摂の山々から淀川へと入る河川に恵まれた地域として栄えてきました
古墳に至っては大小合わせて500基も三島古墳群としてあり、西国街道(山陽道)の宿場町として栄えるとともに、淀川を行き来する三十石船の河口港も三島江をはじめ処々にありました。
さらに古代には縄文海進により高槻市津野江の地名が残るように筑紫津から九州への海港があったことが知られます。


2009年5月に「大阪三島地方の古代遺跡を歩く」としてこの地を訪れ、「高槻市埋蔵文化財調査センター」を訪れた際に、展示物の少なさに驚き「嘆かわしいことだ」と言ったのを覚えています。その頃、継体大王陵の今城塚古墳の復元工事に入っており、2011年4月に公開、隣接して今城塚古代歴史館も開館、古代より豊かな高槻市の名に恥じない設備が出来上がりましたので、一周年記念特別展「阿武山古墳と牽牛子塚-飛鳥を生きた貴人たち-」を機会に、高槻の古代を歩くことにしました。

遺跡図(上より旧石器・古墳・奈良-平安時代)
以下の解説は高槻市インターネット歴史館及びウイキペディア百科事典などを参考にしました

   

    


史跡・安満遺跡-弥生時代


三島地方ではじめて米作りを行ったのは安満の集落です。この遺跡は住居群のまわりに濠をめぐらす環濠集落跡で、南側には用水路をそなえた水田がひろがり、東側と西側は墓地になっていました。全体では東西1500m、南北600mに及び、当時の土地利用が明らかになっている貴重な遺跡です。多数の弥生土器とともに、青銅製のヤジリや木製の農具、珍しい漆塗りのカンザシやクシ、勾玉などの装身具などもみつかっています。



右側が安満集落跡の一部、埋め戻されて駐車場、左の草原は休耕田、歴史の皮肉を感じました


天神山遺跡-弥生時代中期・後期


JR高槻駅の北側にある天神山丘陵の先端、標高50mほどの丘陵上にあります。3つの支丘陵に展開する弥生時代の集落跡で、結節部から東西の尾根にかけて住居や墓が発見され、多数の土器や石器、分銅形土製品などが出土しています。
中央の丘陵からは、高さ約60cm、袈裟襷(けさだすき)という文様が描かれた銅鐸(どうたく)が出土しています。銅鐸は豊作を祈るまつりに使用されたと考えられている祭祀具です。住居など生活の跡がない中央の尾根は、聖なる丘だったのかもしれないとのことです。



緑陰の遺跡公園で昼ごはん、女性陣は50m離れたベンチで



天神山丘陵には天神さんのお社がありました、なんとご本殿は全部竹製、5年に一度建て替えるとか


古曾部・柴谷遺跡-弥生時代後期

天神山の北、標高80100メートルの丘陵上に営まれた最大級の高地性環濠集落跡です。丘陵の中腹に幅約5メートルの環濠が東西600メートル、南北500メートルに及ぶ居住地をめぐり、100棟以上の住居や木棺墓がみつかっています。数多くの土器にまじって鉄製の斧やヤジリなども出土しました。このころ激しくなった集落間の争いを避けるため、こうした丘陵上に移住したのだといわれています。記録すべき画像はありません。


昼神車塚古墳-古墳時代後期


昼神車塚古墳は上宮天満宮参道のすぐ東側に位置する前方後円墳です。全長60メートル、後円部径30メートルで、前方部の発掘調査では、犬や猪、角笛(つのぶえ)をもった狩人などの埴輪が出土しました。現在、前方部は復元・整備され、その様子は復元埴輪でみることができます。



昼神車塚古墳:左の方に復元された埴輪が並べられています


岡本山・弁天山古墳-古墳時代前期


六つの古墳をつぶして作ったゴルフ場跡の南平台の丘陵上に広がる住宅地の家並みの上に、緑の丘が二つ並んでいます。名神高速道路沿いの南の丘が岡本山古墳、北の丘が弁天山古墳です。
岡本山古墳の墳丘は、尾根地形を利用してつくられ、後円部径70m、全長120m。一方弁天山古墳の墳丘は全長100m、後円部の直径は岡本山古墳と同じ70mという特徴をもっています。これまでの踏査では、両古墳とも墳丘に河原石が葺かれ、岡本山古墳では壷形埴輪らしい破片が、また弁天山古墳では土器片があるものの、埴輪は並べられていないことがわかっています。この事実から、岡本山古墳は3世紀後半、弁天山古墳は岡本山古墳に続いて3世紀末ごろに築造されたものと推定され、南にひろがる平野部を本拠地とした三島の王の墓と考えられています。
二つの古墳を写したかったのですがビルや住宅にさえぎられて駄目でしたので後日写した遠景をご覧いただきます。



阿武山古墳付近から見下ろす岡本山・弁天山古墳


史跡・闘鶏(つげ)山古墳-古墳時代前期(4世紀前半)


平野に突き出た丘陵先端部にある、全長86.4mの前方後円墳です。平成14年の確認調査によって後円部から未盗掘の竪穴式石室2基が発見され、大きな話題になりました。石室内部のファイバースコープ調査では三角縁神獣鏡や石製の腕飾り、木棺の一部などが確認され、4世紀前半の三島の王墓と考えられています。
墳丘の段築や葺石、さらに平野に向かって開けた周辺の丘陵地形もよくのこっており、古墳の祭祀や古墳時代の解明に向けて、極めて重要な古墳です。



この後が古墳です


史跡・今城塚古墳-古墳時代後期


三島平野のほぼ中央に位置し、淀川流域では最大級の前方後円墳です。西向きの墳丘の周囲には二重の濠がめぐり、総長約350m・総幅約340m、日本最大の家形埴輪や精緻な武人埴輪が発見されています。今城塚古墳は、531年に没した第26代継体大王の真の陵墓と考えられ、古墳時代の大王陵としては唯一、淀川流域に築かれた古墳です。

(この古墳の約3Km西南に大田山古墳という5世紀前半の全長230m高さ19mの大型前方後円墳で、馬蹄形に周濠があり宮内庁によってきれいに整備されています。ここは宮内庁では継体天皇陵に指定していますが、大量に出土した埴輪から5世紀の古墳であることが分かり、継体大王は531年に死んでいますので1世紀ものずれがあります。となると、路を隔てて立派な陪塚(ばいちょう)が二基ある、こんな大きな古墳は一体誰のお墓だったのでしょうか。調査もできない宮内庁管轄のご陵ですから、歴史は止まったまんまですね)。

平成9年から確認調査を行っており、古墳の規模をはじめ、のちの城砦や地震による変形の様子など、貴重な成果が得られています。なかでも平成1314年度の調査で北側内堤からみつかった埴輪祭祀区は、大王陵での埴輪祭祀の実態を示すものとして大きな注目を集めています。なお今城塚という名称は、戦国時代に城砦として利用された江戸時代の絵図などにも今城陵(いまきのみささぎ)などと記されています。



復元なった今城塚古墳、内濠の半分は広場になっています(2012年2月撮影)



復元模型


史跡・嶋上郡衙(ぐんが)跡-奈良・平安時代


高槻・島本は古代の摂津国嶋上郡にあたり、ここを治めるために置かれた郡役所が、嶋上郡衙です。都や国の役所にならって、儀式の場・庁院(ちょういん)や税を納める正倉などが整えられていました。庁院の西側には郡寺(芥川廃寺)、北に位置する式内社・阿久刀(あくと)神社周辺には嶋上郡の郡司(長官)一族の住まいがありました。また山陽道をはさんで西方の郡家今城遺跡、南方の津之江南遺跡は、郡衙と盛衰をともにした遺跡と考えられています。



嶋上郡衙跡:元々はこの3倍の広さでした



18kmを頑張った皆さん


史跡・阿武山古墳

ここは少し北にあって5月13日のウォーキングでは行く時間がありませんでしたので、17日に私一人で歩いてきましたが、古代高槻で欠くことができない所ですからご紹介します。

阿武山(281.1m)の中腹・標高約210メートルの尾根上にあります。1934年(昭9)、京都大学の地震観測施設建設のさいに偶然発見されました。この古墳は盛土がなく、尾根の小高いところを幅2.5メートルの浅い溝を円形にめぐらせ、直径82メートルの墓域を区画しています。中央に花崗岩の切石と部厚い素焼きのタイルを組み上げ、内側をしっくいで仕上げた墓室があり、漆で麻布を何枚も貼り固め、外側を黒漆、内側を朱の漆で塗り固めた夾紵棺(きょうちょかん)が安置されていました。

棺の中には、60歳前後の男性の、肉や毛髪、衣装も残存した状態のミイラ化した遺骨がほぼ完全に残っていました。鏡や剣、玉などの副葬品はないものの、ガラス玉を編んで作った玉枕のほか、遺体が錦を身にまとっていたこと、胸から顔面、頭にかけて金の糸がたくさん散らばっていたことが確かめられました、

この発見は大阪朝日新聞のスクープで知られるところとなり、「貴人の墓」として反響を呼び延べ2万人に達する大勢の見物人が押し寄せたそうです。

これらは元どおり埋め戻されましたが、1987年に埋め戻す前のエックス線写真の原板が地震観測所から見つかりました。分析の結果、被葬者は腰椎などを骨折する大けがをし、治療されてしばらくは生きていたものの、寝たきり状態のまま二次的な合併症で死亡したこと、金の糸の分布状態からこれが冠の刺繍糸だったことが判明。しかも漆の棺に葬られていたことや玉枕を敷いていたことなども考えると被葬者は最上位クラスの人物であったことは間違いないと結論されました。

これらの分析結果が鎌足の死因(落馬後に死去)と一致すること、この冠がおそらく当時の最高冠位である織冠であり、それを授けられた人物は、史上では百済王子・余豊璋を除けば大織冠・鎌足しかいないことから、被葬者はほぼ藤原鎌足にちがいないと報道されました。

しかし669年に死んだ鎌足の墓だとすれば、周辺から出土した須恵器が7世紀前半のものであることが矛盾し、ほかにも、被葬者として鎌足の同時代人の蘇我倉山田石川麻呂や阿倍倉梯麻呂をあげる説もあり、阿武山古墳が鎌足の墓所だとはいまだ断定できていません。

夾紵棺とは?
粘土などで棺の型を作って、これに漆と布を交互に何回も塗り固めていくもので、奈良県の天智・天武天皇の母・斉明天皇の陵とされる牽牛子塚古墳の棺は麻布を36枚塗り重ねているとのことです。
他の奈良県の墳墓では、聖徳太子廟、天武・持統天皇陵、阿武山古墳などで出土しています。



玉枕と織冠(復元品)

































大阪薬科大学から古墳への道、向こうは京大地震研究所    石碑の向こうに周濠跡



藤原鎌足(?)の塚、水がないので造花が供えられていました


今城塚古代歴史館


時代区分と解説がしっかりとなされた館内は大変楽しめる博物館、そして古墳ともども無料開放は珍しいですが、これこそ地域型考古館の姿でしょう。ぜひ皆様も行ってお楽しみください。



今城塚古代歴史館



日本最大の家型古墳(館内の多くは実物です)


































復元された甲冑    旧石器時代・郡家今城遺跡より



館内展示の様子、大きなジオラマもあります



家型埴輪の数々と祭祀状況を再現するジオラマ、右は石棺



埴輪の数々

これで高槻編は終わりです、街中の遺跡ですから保存や公開の仕方に色々な制約がありますが、駅などに古代高槻の案内パンフレットなどあれば、もっと多くの人々に知っていただけることでしょう。私が高槻の2万年前から歩くと話すと、びっくりする人が多く、まったくの新興都市と思っておらるのが残念でした。

一年間続けてきました「東北支援・被災者のウォーキングへの無料ご招待」企画は今月をもって終了します、長らくご支援賜りました方々に厚く御礼申し上げます、ご支援いただきました協力金の残りは、5月ウォーキングご参加の皆様のご賛同を得て、近々NPOを通じて東北への支援金として送らせていただきます。

さて6月は 2 days walking で出雲へ行き、7・8月は猛暑のため休みます。9月からは少し趣向を変えてウォーキングを続けたいと思っていますBye


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