特別番外編 コダイ・ウォーキング レポート


紫香楽宮と信楽の里


'012−4月中旬信楽地方へ行きました。目的は紫香楽宮と畑のしだれ桜でしたが、桜は開花一歩手前、紫香楽宮はそのあり場所がなかなか見つからずに往生しましたが、埋め戻されて田んぼになっているところをやっと探り当てました。

そして一週間後、桜満開の報を聞き再び信楽の里を目指して車を走らせました、前日の風によって二分ほどの花が散っていましたが、それなりに美しいものでした。そこからさらに北にある同じく信楽町田代の「ミホ ミュージアム」へ行き、しだれ桜の並木を見てきました、こちらはちょうど満開でした。


深堂の郷・畑のしだれ桜


関西の名桜リストで見て一度は行きたい桜でしたが、咲いているでもないのに木全体が紅く色づいている風情に満足しました。



樹齢約400年といわれるこの桜は、平家の滅亡・織田信長の焼き打ち・徳川家康の隠密街道などの説があります



二三輪咲く風情も快い




4月24日満開の桜



紫香楽宮


この都は西暦740年代、聖武天皇によって造営され、大仏造立が発願された地です。一帯はなだらかな山々に囲まれた小盆地、東西約2km南北約3kmの範囲に遺跡があります。最北には宮殿跡が「宮町遺跡」、その南側・内裏野地区に大仏造立のための寺院跡など9ケ所の遺跡があるそうですが、寺院跡以外はすでに地下深く埋もれてしまいました。

古く1926年(大正15)に内裏野地区が紫香楽宮跡として国の史跡になりましたが、1930年(昭和5)の発掘調査によって西側に金堂・講堂を中心として東側に塔を配する東大寺に似た伽藍配置が確認されました。

宮町遺跡の発掘は1983年からスタートし、2000年(平成12)には盆地中央部で左右対称に配置された長大な南北棟と複数の東西棟で構成された中心区画が発見され、朝堂がこの遺構に相当すると考えられています。

「続日本書紀」によれば、742年(天平17)1月17日には聖武天皇が2000人以上の役人と共に紫香楽の地を訪れ、以後たびたび行幸を重ね、743年10月には大仏建立のため甲賀寺の建設を始める詔を始めとして紫香楽宮造営の指示を出しています。
しかし、群発地震や遷都に反対する側と見られる放火が続き、745年5月天皇は平城京へ帰って二度と信楽へは戻りませんでした。



宮町遺跡・朝堂のあった付近



















ビデオで調査状況と発掘品を見られます




上下とも「宮町遺跡調査事務所にて」


甲賀寺




甲賀寺金堂跡と紫香楽宮のお社、後ろは講堂跡



塔 跡


信楽アラカルト−T 玉桂寺の高野槇(滋賀県天然記念物)



参道の左右が槇の樹の群生です




玉桂寺(真言宗)参道の両側にあるこの槇は弘法大師お手植えの槇といわれ、いずれもひと株から下枝が地について根を生やして新株となり次々と繁殖しているそうです、樹高・最高29m。



信楽−U・陶芸館


信楽焼は、400万年前に生まれた現・伊賀市付近の大山田湖が地殻変動を繰り返して北上し、現在の位置に移動し、約30万年前に広くて深い琵琶湖になりましたが、その間に湖底に溜まった土砂や動植物の残骸が堆積した粘土層が原料になっています。

始まりは鎌倉時代・13世紀後半と考えられていて、初期製品は愛知県の常滑焼の影響があるそうですが、14世紀になって信楽独自の発展をとげ、壺・甕・すり鉢などが主製品でした、15世紀に茶道が流行し始め備前焼と共に茶道具として使われました。
17世紀には釉薬をかけた陶器が全国で流行し、それまで小規模な穴窯で焼成されていたものが、蓮房式登り窯が採用されて、大量生産が可能になりました。

現在の信楽焼は、岡本太郎画伯の「大阪万博・太陽の塔」のレリーフ「黒い太陽」をはじめ、芸術と産業両面で幅広い製品を作っていますが、良い土に恵まれて(信楽では土をいくらでも売ってくれますが、兵庫県の丹波・立杭焼では売ってくれません)縄文時代以前からの経験と伝統を今に生かしているといえるでしょう。



現在ピカソや岡本太郎氏など有名画家の陶器展を開催中でした


信楽−V MIHO museum のしだれ桜並木



ミホ ミュージアムはある宗教団体が創設した美術館で一見の価値があります



おまけ:信楽町田代部落にて


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