東北 がんばろう


東日本大震災支援
第52(67)回 2月の コダイ・ウォーキング レポート


平城京より平安京へ

私たちは日本の古代は平城京時代までと考えてウォーキングをしていますが、平城京から平安京へ遷都していく経緯を探るのは興味深いことです。2月は奈良の都から京都へ移っていく歴史をたどり、まだブッダウォーキングで行ってなかった東寺へも行きました。
「なぜ遷都したのか?」
673年天武天皇即位から始まった天武系の皇統は770年称徳天皇(女帝)をもって絶え、いろんな政争を経て天智天皇系の光仁天皇が即位し、彼は人心の刷新を断行して政治の乱れを正したうえで、その子50代桓武天皇に引き継がれました。
彼は奈良の仏教勢力と貴族に距離を置き、平城京が水利に遠い地理的欠陥を正すべく、桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となる交通の要所の長岡京へ遷都しましたが、相次ぐ天災と近親者の不幸と天皇の協力者であった藤原種継の暗殺、弟の皇太子を廃嫡など、世相が乱れたために10年間で長岡京を捨て、新たに平安京へ遷都しました。彼は奈良仏教を嫌い、ちょうど帰国した最澄や空海の保護者として新しい仏教が確立してゆきました。その後明治時代までの1075年間天皇の住むところとなりましたが、実際の都として栄えたのは武士の時代となる鎌倉時代までの3〜400年間でした。


長岡京


現在の地図を見ると長岡京と桂川の距離は2Km余りで、この地に奈良の都とほとんど変わらない規模の街が造られました、内裏の建物をはじめ水運を利用して大阪・難波宮の古材を使用し短期間に建設されたことが分かっています。
784年から794年までの短い都でしたが、この京都府乙訓の地では12000年前の旧石器時代から人が住み栄えてきた土地でした、縄文・弥生・古墳時代の遺跡が多々あり、継体大王が大和へ入れずに「弟国宮」を築いて住んだ地でもありましたから、都を作る条件は整っていたことになりそうです。
現在、長岡宮址は向日市にあり、向日市埋蔵文化財調査センターが50年・1800回に及ぶ発掘調査の結果は向日市文化資料館でつぶさに知ることができます。その展示方法の適切さは、これまで多くの博物館や資料館を廻ってきた中でも屈指のものでした、ここではボランティアの説明員もおられて、楽しく学習させていただきました。
また、阪急・向日駅のすぐ西に朝堂院公園があり一部の建物の基壇が復元されていますが、残念ながらデジカメにカードを入れ忘れたため、ここの画像はありません。
しかし、この小さな事務所にも係の人がおられて説明を受けられ、またこの地区の各遺跡群のパンフレットが15種類以上も持って帰れるように用意されるなど、向日市の古代文化に対する並々ならぬ注力を感じましたが、都以前の数多くの出土品の多くを見れないのはちょっと残念でした。

よくよく調べてみると、古墳時代までの埋蔵品については「長岡京市立埋蔵文化財センター」にたくさん展示されていることがわかりました、長岡京址は向日市から長岡京市にまたがっていることを見落としいましたので、早い機会に行ってレポートに加えたいと思います。


長岡京大極殿址



史跡大極殿公園にある大極殿と後殿跡 毎年11月11日には遷都祭が行われます



東西4.3南北5.3Kmの規模で内裏は東西1.02Km南北1.55Kmで築地大垣に囲まれていました
(長岡京市立埋蔵文化財センター「長岡京跡の条坊制」よりコピー)


向日市文化資料館 長岡京遷都1200年の1984年に建設



長岡京造営のため壊された山畑古墳群の2号墳より出土の須恵器、整然とした模様が美しい


長岡京市埋蔵文化財センター


2月のウォーキングは11日でしたが、28日に長岡京市に行き発掘品の数々を見てきました。帰途、高槻市によって「今城塚古代歴史館」と隣接する「今城古墳」を見ましたが、2009年5月のウォーキングのときは工事に着工したばかりで、お粗末な文化財の処理に心を痛めましたが、蓋をあければ、相当他所の博物館を研究され、また古墳も程よく復元された愉しめる場所となり、さすが大きな都市の名に恥じない立派なものになっていました。ここへはウォーキングの行事として再訪の上、改めてレポートしますので、ここでは長岡京市の出土品を見ることにしましょう。長岡京市埋蔵文化財センターへ入りましょう



平安京:西 寺・羅城門・大極殿・朱雀門

奈良の東大寺に対する西大寺のように、東寺に対する西寺があったのではとインターネットで調べるとやっぱりありました。羅城門を挟んで類聚国史797年4月4日条に笠江人が造西寺次官として記載されているのが記録上の初見とされ、815年に造西寺司が任命されているのでこれ以降に一応の完成をみたようです。
その後焼失と再建が繰り返され、再建された塔も1233年に焼失し、以降西寺の記録は史上から姿を消しました。
西寺の衰退原因は立地である右京の水はけが悪く、平安後期には住民がいなくなったために環境が悪化したことや、朝廷の支援を受けられなくなったことが指摘されています
西寺跡は1921年(大正10年)に国の史跡に指定され、昭和34年からの発掘調査により、金堂・廻廊・僧坊・食堂院・南大門等の遺構が確認され、当初の未指定部分が同41年に追加指定、在来の土壇は講堂跡と判明しました。東寺とあいまって平安京の規模を知る上にも重要とされています。
しかし東寺がありますから西寺の規模を推測はできても、西寺跡に立って当時の面影を偲ぶことはできません。



西寺公園:小高い土壇は講堂の跡だそうです、その他の建築物の跡はどこにもありません



土壇の上には大正15年の石碑と礎石が2ヶだけ



羅城門は小さな小さな公園でした、羅城門は芥川龍之介の「藪の中」と映画の世界でした



970年成立の『口遊(くちずさみ)』に「雲太、和二、京三」と見えるように、
当初は出雲大社や奈良の東大寺大仏殿に匹敵する大建築であり、
『年中行事絵巻』所載のものは1072年に建て替えられた姿で、
本来は重層(2階建て)であったとも推測されています



朱雀門はうっかりと通り過ぎるところでした


以上が1000年以上も続いた平安京の現在の姿です、人の度肝を抜くような大寺を打ち立て、釈迦の教えを踏みにじり、観光収入で贅沢三昧、これが日本仏教の本質であり、京都の人々の暮らしだとは思いたくありませんね。


東 寺(教王護国寺)

私たち関西人は「東寺」といえば五重塔を思い浮かべます、これはJR東海道線が京都に近づけば必ず眼にする大塔です。

8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」の建立が計画され、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院でした。

南北朝時代に成立した東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後まもない796年藤原伊勢人が造寺長官となって建立したといいます、東寺では古くからこの796年を創建の年としています。
それから20数年後の823年真言宗の宗祖である弘法大師空海は、嵯峨天皇から東寺を下賜され、この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となりました。

東寺は平安後期には一時期衰退しますが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、後白河法皇の皇女である宣陽門院(1181年〜1252年)をはじめ皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになり、中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏などから多くの援助を受けて栄えました。
1486年の火災で主要堂塔のほとんどを失いますが、豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建された後も、何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていませんが、南大門・金堂・講堂・食堂が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままになっています。
今日も京都の代表的な名所として存続し1934年に国の史跡に指定、1994年12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されました。



朱の柱は講堂(重文)、前は金堂(国宝)、後は五重塔(国宝)



どうどうたる金堂 豊臣秀頼により桃山時代1603年に再建 薬師三尊と十二神将(重文)が祀られています



826年弘法大師の着手により始まりますが、焼失すること4回
現在の塔は1644年徳川家光による寄進
初層には心柱を大日如来に見立て、須弥壇上には阿弥陀如来ほか
金剛界四仏と八大菩薩が安置され、須弥壇を囲む四本の柱には金剛界
曼荼羅諸尊が描かれ、剥落してはいるものの極彩色の立派なものです、
私たちはこの初層を拝観することができました


弘法大師が創建され室町時代再建の講 堂の中は圧巻です、立体曼陀羅として大日如来を中心として21躯の仏像が配され、このうち15躯が国宝、6躯が重文という平安前期・日本の密教仏像の代表作です。

このほかにも国宝の大師堂が1390年再建され、内部に秘仏・不動明王像と弘法大師像があり、いずれも国宝ですが、うっかりと行かずじまいでしたからここも再訪して加えたいと思います。
やはり京都を代表するお寺ですから仏さま方はご自分の眼で見られ、心に納められるようにお願いします。
かくして、平城京から長岡京を経て平安京まで、所々で行きそびれを作りながら約20000歩・13Kmを歩きました。京都の古代は見る影もなく落胆のみ残りましたが、向日市などは子供たちも理解できるパンフレットを用意されて、周辺の都市がしっかりと古代を見据えていることには深く感動を覚えています。
3月は泉州路の古代を探して歩きます、お楽しみにBye


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