東北 がんばろう コダイ・ウォーキングの会・東北支援プランを開けます


第45(56)回 6月の コダイ・ウォーキング レポート


三輪山登拝と初瀬街道を長谷寺へ


日本最古の神社である大神(おおみわ)神社のご神体は三輪山、古代の人々は神の居ます山として朝な夕なに遥拝して暮らしていたのでしょう、この神社には幾度となく訪れていますが三輪山に登ったことがありませんでした。

今月はこの山に登った後、伊勢につながる初瀬街道を2007年2月に行った平等寺・金谷の石仏・海石榴市(つばいち)跡を通って長谷寺まで歩きたいと思っていました。

ところが、ウォーキングの前週に不注意から左の太ももに打撲傷を受けて、登山にかかると左脚をかばって登降したものですから、海石榴市のあたりで足がつってきて無様なことになりました。

そして途中の駅「大和朝倉」より電車に乗って「長谷寺」へ行くと、同行の皆さんにタクシーを呼んでいただき、あげくにお寺の受付のところで、身障者向けのマイクロバスに乗せてもらって本堂に到着という、2006年2月ぎっくり腰で歩いた第8回の「浄瑠璃寺・当尾石仏・岩船寺・円成寺」のとき以来の大失態となり、皆さんには大変ご迷惑をおかけしました。

普段から、自転車と車が中心の生活ですから、年々足も弱っているのでしょう、これからはできるだけ歩くことを心がけようと思っています。


三輪山


世界のどこを見ても原始の時代の宗教は天文を含めた自然崇拝でした。三輪山もまた神の居ますところとして、縄文時代から信仰の対象となり弥生時代を経て古墳時代になると、この大和の地に次々と王権が生まれました。

卑弥呼の陵とされる箸墓古墳は
3世紀後半〜4世紀の築造で全長272m・最高部22m、前方後円墳の中では最古の1つ、この古墳とその北にある崇神天皇陵(240m)景行天皇陵(310m)の三つが4世紀のビッグ・スリーですが、この他にも100mを越える古墳が南北7Kmの間に集まっており、その副葬品がすばらしく、後漢時代の銅鏡などが出土し4世紀には三輪山地域を基盤とする豪族たちが大和国を造っていました。

太古より神宿る山とされ、三輪山そのものが神体であるとの考えから、常人は足を踏み入れることのできない禁足の山とされ、江戸時代には幕府より政令が設けられ、神社の山札がないと入山できませんでした。

明治以降はこの伝統に基づき、「入山者の心得」なるものが定められ、現在においてはこの規則を遵守すれば誰でも入山できるようになり、登山を希望する者は、大神神社から北北東250m辺りにある狭井神社の社務所で許可を得れば登れるようになっています。

社務所で記帳を済ませて、すぐ前にある鳥居のところが登山口、そこで自らがお祓いをして登り始めます。山中は千古より斧が入らず松・杉・桧などの老木に覆われ、木の根を踏みしめ、よく整備された道を進みますが、裸足になって登っている人も数人見かけました。これはお山のご利益をたくさんいただくためだそうです。

途中にもしめ縄が張られた小さな磐座(いわくら)があったり、小さな滝の行場もあり、1時間ほどで山頂の高宮神社に着きますが、ここは古くは神坐日向神社といわれ太陽祭祀の名残とされています。山頂はかなり広く、この神社からさらに奥へ進むと、東西約30m・南北10mの広場に高さ約2mの岩がたくさんあって、奥津磐座となっています。何やら神気漂うところで神代の時代に卑弥呼がここで祭祈を行ったのではないかと思われます。

こんな風に三輪山を解説しているのは、入山規則で撮影は禁止されているからです。昨今のパワースポットブームの根本はこの三輪山ですから、若い男女も多く入山していましたが、たとえ1時間の登りといっても登りがいのあるお山でした。

大神神社・狭井神社・初瀬街道(金谷の石仏・海石榴市(つばいち)観音・仏教伝来の記念碑など)は第2(18)回 山の辺の道−1・付「桜井市埋蔵文化財センター」をご覧ください



登山口でお祓いを受ける、右の杖は大変役に立ちました


初瀬(はせ)街道


この街道は奈良県桜井市から宇陀市(伊勢街道との分岐点)・名張市・伊賀市・津市を経て松阪市に至る現在の国道165号線の道のことで、古代には壬申の乱の際、大海人皇子(天武天皇)が通った道を思い出す人も多いことでしょう。

その桜井は元は初(泊)瀬と呼ばれ、大和川に沿って発達し、海石榴市(つばいち)は当時の大和で交易の中心地となっていました。

日本の国道の歴史は古く、関東より九州まで飛鳥時代から平安初期にかけて整備されました、都周辺では道幅24〜42m、地方では6〜12mに決められ、基本的には直線道路で、直線が数十Kmに及んだそうです、また16Kmごとに駅舎が設けられていました。


平等寺境内 左:本堂 右:釈迦堂

平等寺とは:その開基を聖徳太子と伝え、鎌倉時代初期、中興の祖・慶円上人を迎えて、東西500m、南北300mの境内に、本堂、護摩堂、御影堂、一切経堂、開山堂、赤門、鐘楼堂のほか、12坊舎の大伽藍を有し、また、仏法の奥義をきわめんとする行学一如の根本道場として栄えた名刹でした。

しかし明治時代に野蛮な政府による廃仏毀釈で、大三輪神社の神宮寺であった本寺は、有名な金屋の石仏をはじめ61体にのぼる仏像が他所に運び出され、堂塔ことごとく荒廃に帰しました。

昭和時代になって、地元の篤志家をはじめ近在の人々が再興をはかり塔頭の一部を境内に移し、本尊秘仏十一面観世音菩薩、三輪不動尊、慶円上人像、仏足石等が守られ、曹洞宗に改宗して法燈が護られました。

廃仏毀釈より100年目を迎えた1977年6月4日付で平等寺と寺号が復興され、幾十万の人々の喜捨により、本堂、鐘楼堂、鎮守堂、釈迦堂(二重塔)などの復興が現住職の時代になしとげられました。

なお、本寺を有名にしている一つには、釈迦牟尓佛が悟られて6年後に故郷の釈迦国を訪れられた際。父である浄飯王(シュッドウダナ)が画家に命じて釈迦をを書かせた画像が大英博物館にあり、それを現住職が模写してこられた絵が本堂に飾られています。これは釈迦44歳の当時のお姿で、この絵をもとに彫像されたものが二重塔である釈迦堂の本尊となって、6月と12月に開扉されるそうです

釈迦如来像など平等寺の仏像のホームページはここ



現在の大和川と古代の海石榴市付近、すぐ右に仏教伝来地の記念碑があります、この付近で小野妹子が
隋の特使・裴世清を伴って帰国し、飾り馬75頭をもって迎えられたのもこの港でした。
正にここは日本文化を生み出す源流の地だったのです


長谷寺



牡丹の花


長谷寺とは:西国観音霊場八番札所、686年飛鳥・川原寺の僧・道明が天武天皇の病気回復を祈って西の岡に塔を建てたのが本長谷寺で、その後727年徳道上人が聖武天皇の勅願で、現在の東の岡に十一面観音像を祀る堂を建てました。徳道上人は西国三十三観音霊場を開き、本寺はその根本道場となりました。

平安時代に観音信仰が盛んになると貴族たちの長谷詣りが流行、「枕草子」の清少納言はよくご存じですね。創建以来たびたび大火に会い、現在の本堂は江戸初期で国宝です、高さ10mの観音さんは1538年の復興像で重文です。広大な寺域と荘厳な大本堂に日本一の観音立像がそびえたち、1588年以来、真言宗豊山派の総本山として、かつ花の寺として有名です



本堂内



本堂内の通路・右側に金色の観音さんが立っておられます、どこでもこの提灯が吊ってあります



本堂より下る石段には屋根が続きます



本堂より 左下は仁王門


特別ニュース  邪馬台国の卑弥呼
邪馬台国は「畿内」と「九州」説に学会が二つに分かれていることは、先にリンクした「山の辺の道」にも書きましたが、このたび新しい発見があり、どうやら大和が邪馬台国であったという決着がつく様子です。これは「週刊新潮」2011年6月16日号に載っていた『「邪馬台国」論争にケリをつける!?「卑弥呼の鏡」の新証拠』という記事です。

超要約すると、魏志倭人伝に西暦239年(景初3年)「邪馬台国の卑弥呼に銅鏡100枚を下賜した」という記述に沿った鏡が「三角縁神獣鏡」であり、これが近畿地方の遺跡中心に見つかっていることが「畿内説」の大きなよりどころです。「九州説」はこの鏡が国内で400枚以上見つかっているのに、中国では見つかっていないので国産の鏡である、そして景初4年という年号は中国には存在しない。ということでどちらも引かぬかまえでした。

ところが聖徳大学(千葉県松戸市。創立1933年・東京市)の山口名誉教授が清代に編纂された唐代の公文書集成本「全唐文」約1000巻の中から巻684の文書のなかに文宗の時代(晩唐)に高官の王茂元が皇帝に「中国の周辺にいる民族と付き合うには、懐柔して欲しがるものを与えて慰撫するのが一番いい」と言って昔の例をひいて紹介しているところに、「魏は倭国にはなむけスルニ、銅鏡の鉗文を止メ、漢ハ單于ニおくルニ犀毘黄綺袷ヲ過ゴサズ、並びに一介の使、将ニ万里ノ恩トス」、これは魏が倭国に対して彼らの好む銅鏡を贈ってやったこと、漢が匈奴の皇帝・單于に対し、サイの角で造ったベルトのバックルと綺麗な着物を贈った、という意味になります。

この中の「鉗文を止メ」という個所が、倭国にとって仰々しい模様や銘文を刻むのをやめて、彼らの好むような銅鏡を作ってあげたと読むそうです、いわゆる倭国の特注品を贈ったということです。
また、景初4年については、唐代に編纂された「晋書」という歴史書の中の巻12「天文志」(天体観測記録)にこの年号が出てきて、同じく清時代に編纂された「佩文韻府」という書にも景初4年が出てくるそうです。

山口先生は「衰退に向かっていた魏は、多くの小国を束ねていた倭国は懐柔の必要がある存在だったから、好きな鏡を特注して贈るという気の使い方から見て、邪馬台国は近畿地方に広大な勢力を誇っていた国と考えるのが自然であり、九州にあった一政権では説明がつかない」といわれます。
あの長ーい歴史と広大な大地に埋もれている歴史書から発見された山口先生の発見に深い敬意と感謝を奉げます。

一非学凡才の見てきた九州の吉野ヶ里遺跡は確かに広大で、大きな勢力がいたことは分かりましたが、その後行った、伊都国や那国の遺跡の規模は、近畿の遺跡群の規模と比べて、これでは当時の中国が相手にしないだろうと感じたことを思い出しました。いやはや我らがコダイ・ウォーキングは大変なところを歩いているのですね。

6月はこれで終わります、通常は7・8月は休みですが、7月は24日(日)に東日本支援ウォーキング第1回として、東北よりの関西移住者を毎回3〜4名無料招待して、1年間続ける予定です。詳しいことは7月のプランをご覧くださいBye


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