第40(56)2011-1月 コダイ・ウォーキング レポート


百舌鳥古墳群と須恵器のふるさと


先月行きました「古市古墳群」とともに巨大古墳が並ぶ4世紀末から6世紀後半にかけて築造され、大仙陵古墳(伝仁徳陵)、ニサンザイ古墳など、墳丘長200m以上の大型の前方後円墳3基を含み、かつては100基以上の古墳があったそうですが、第二次大戦後に宅地開発が急速に進み、約半数近くの古墳が破壊され、現存するのはわずか50基に満たない状況です。

堺市博物館が1月23日まで特別企画展「百舌鳥古墳群−その出土品からさぐる」を開催していることを知り、履中陵・仁徳陵・大塚山古墳・御廟山古墳などの出土品を展示していますので、出土品を見ながら古墳群を巡るウォーキングを企画しました。


百舌鳥古墳群の出土品を見て・歩く

大仙古墳(仁徳陵)
5世紀前半〜中・墳長486m・かっては三重に濠がめぐり墓域として世界最大、考古学的には履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)→仁徳陵(大仙陵古墳)→反正天皇陵(田出井山古墳)の順で築造されたと想定されており、応神→仁徳→履中と親子関係が続くので大きな矛盾が生じていますが、これを解明できない大きな壁が今もって宮内庁と日本の文化行政にあります。
ま、記録しようにも字のないアジアの最果てだったのですから、ミステリーとして残すのもいいかもしれませんが。
墳丘は3段、石棺は前方部・後円部からも出土していますがいずれも盗掘され、アメリカのボストン美術館には仁徳陵出土とされている銅鏡や環頭大刀などが収蔵されており、これらの品は1908年(明治41年)には既にこの博物館に所蔵されていたようです。
(資料の画像はいずれも堺市博物館発行の「百舌鳥古墳群」よりスキャン)





誰が祀られているのか分からない仁徳陵(大仙古墳)



完成当時の大仙古墳予想図(2007年1月近つ飛鳥博物館にて)


上石津ミサンザイ古墳(履中陵)
5世紀初・360m(日本で3番目)・応神の子が仁徳その子が履中となっていますが、この古墳の方が古いので、実際の被葬者は不明です。

左の画像は「靫(ゆぎ=矢を入れる)型埴輪(上部と下部)」




























































左:履中陵前方部  右:後円部

いたすけ古墳
全長160m・1955年古墳を壊されるところを市民運動により中止となりました、現在はタヌキが生息しているそうです。後円部から出土した衝角付冑の埴輪は、現在堺市の文化財保護のシンボルマークになっています。




取り壊された橋


御廟山古墳
全長186m・二重濠があったことが確認されています。主体部の構造や副葬品は不明、現在宮内庁によって陵墓参考地になっています。下の家型は国内最大、扉が可動するようになっています、古墳の造り出しでの祭祀場を再現したものだそうです。(90X55X42pH)





公園になっている御廟山古墳


ニサンザイ古墳
5世紀後半・全長290m・二重濠が確認されています、宮内庁は東百舌鳥陵墓参考地にしてますがが、考古学的に天皇の墳墓ではないとされています。)





堺博物館のご厚意によって昼食を温かいところでとることができました


堺市立すえむら資料館


泉北すえむら資料館の「すえむら」というのは「陶邑」をさし、「日本書紀」に「茅淳県陶邑(ちぬのあがたすえむら)」として須恵器を焼く村が紹介されているそうです、「茅淳」とはかって大阪湾の呼び名で、この窯跡は堺市から岸和田市までの低い丘陵地帯に、確認されただけで600基以上推定では1000基以上が点在し、現在の泉北ニュータウンが建設される際、400余の窯跡と、数十基の古墳や多数の住居跡が発掘調査されました。当地は古墳時代中期から平安時代までの500年間全国最古・最大の生産地となっていました。ここでは20年間にわたって発掘された須恵器を中心に石器時代から江戸時代までの出土品が展示されおり、古代の人々の暮らしを知ることができました。

そして忘れられないのは、私はここへ初めて来たのは12月でしたが、そのときその素晴らしい展示に感銘を受け、1月16日にはもっと大勢のウォーキング仲間を連れてくると、受付の若い女性・Oさんに話していたのですが、16日に行ってみると彼女は学芸員のM先生を解説のために呼んでいただいていたのです。M先生は地元の人らしく須恵器だけでなく歴史と当時の人々について、その博学をユーモラスに1時間以上もお話していただけ、私たちは時間を忘れてしまいました。ところどころ展示の壁に須恵器に関蓮した先生の雄魂な書があり、先生と須惠邑とは魂のつながりがあるようでした。

そんな古代を象徴する資料館ですが、元々大阪府立だったものが、府の行政により2010年に堺市に移管されるという憂き目にあっており、私は国立にしてもいいだけの価値があるように思います。我が国のマスコミと選挙民受けを狙っただけの行政のあり方と文化財への認識の貧困を象徴しているようで情けなく思っています。ここの収蔵品は15000点に上り、このうち国の重要文化財に指定されたものはなんと2585点もあるのですから…。



すえむら資料館(泉北鉄道「泉ヶ丘」下車・大蓮公園内(パンフレットよりスキャン)


須恵器とは
焼き物は大別すると2種類あり、一つは素焼きの土器で縄文・弥生・土師器など、もう一つは窯を使って高温で焼くもので須恵器・陶器・磁器などです。それぞれ利点と欠点があり前者は直接火にあてて煮炊きに使えますが、もろくて壊れやすいものでした。後者はかたくて丈夫なんですが、火にあてると割れてしまいます。これは土器からは空気が逃げますが、須恵器などは空気の逃げ場がないためです。
土器は窯を作らずに野焼きして7〜800℃、自然に火が消えるのを待つ間に酸化状態になって明るい土色になります。
須恵器などは温度が1000〜1200℃になり、焼成の終わりに焚きぐちや」煙道を密閉して酸欠状態になって還元され青灰色になります。
須恵器の源流は中国・殷(商とも呼ぶ・紀元前17〜11世紀、その後周に滅ばされます)代の灰陶から始まり、日本へは5世紀前半朝鮮半島南部から技術者が来て始められました、中小型のものはロクロを使い、大型は手ひねりのようにして造られました。


復元されたTG61号窯と窯の断面図




須恵器の移り変わり(古墳時代中ごろ〜500年間〜平安時代まで・6枚の画像はパンフレットよりスキャン)







その他の美しい須恵器








































左:はそう=瓦へんに泉=古代の楽器(笛)下の穴から吹いて上から音が出ます 右:古代の生活用須恵器



















左:横瓶  右:たこ壺


大 甕




これも焼いていました「鴟尾(しび)」飛鳥時代(TG223号窯)


きりがないのでこれで終わります、2月は13日(日)に大阪城を通って、大阪歴史博物館の「発掘された日本列島2010同時開催:なにわの考古学30年の軌跡−足の下に眠る歴史−」を恒例により見学し、その後東洋陶磁美術館・大阪科学館のプラネタリウムなどに行く予定です。どなたでも参加できます、どうぞお楽しみにBye

この「おおさか物語」は広く北から南まで毎月200人内外の方々にご覧いただいています、地方の方々にお楽しみいただくためにアクセス案内も入れるべきでしょうが、掲示板「風来坊主の広場」をご覧になれば、毎月詳しいプランを発表していますのでご参考にしてくださるようにお願いします。


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