第38(54)回 11月 コダイ・ウォーキング レポート


播磨のコダイを訪ねる


今月は久しぶりに西の方、播州の古代を訪ねました、加古川の沿岸には縄文時代以前から多くの人たちが住んでいました、今回も古墳時代をはじめとする地方を巡りましたが、広ーい地域を歩いては遺跡から遺跡へとは行きつけませんから、バスや電車の利用が多くなり、ウォーキングプランとしては失敗ですが、自然に恵まれた播州平野のあちこちをお楽しみください。


一乗寺


紅葉が見ごろでした

一乗寺の伝えるところでは、第36代孝徳天皇の行幸により650年に創建、開基はインドから中国・百済を経て紫雲に乗って飛来した法道仙人といわれます。国宝に指定されている三重塔は1171年建立の平安時代後期を代表する安定感のいい美しい塔でした、ほかに聖徳太子像と天台高僧図(奈良博物館・大阪美術館蔵)も国宝です。その他にも本堂をはじめとする伽籃、本尊を含めた観音菩薩立像などが重要文化財になっています。ここは西国三十三か所の観音霊場の26番目になります。



国宝の三重塔



本堂の上部


アルバムをお楽しみください

山門のない登楼口
上へ上へと登ります
江戸時代初期の鐘楼
本堂内部
鎮守社
開山堂へ
法道仙人を祀ります
紅葉を愛でる



北条鉄道


北条鉄道の歴史を紐解けば、遠く1915(大正4)年までさかのぼり播州鉄道として開業、1943(昭和18)年に国鉄となり、1985(昭和60)年に第三セクターの北条鉄道となりました。運行区間は小野市の粟生から加西市の北条町までの13.6Kmを8駅・22分間で結び、年間の利用客は30万人、運賃収入63百万円、途中の駅はみんな無人駅でワンマンカーが一時間に一本走っています。
社長は加西市長ですが、2009年に社長を公募して大阪の元ミシンメーカーの社員(45才)が目下副社長として特訓中とか。経営難の事業は、土日に可愛い車掌さんを乗せたり、クリスマスにはサンタクロースがプレゼントを配ったり、駅舎には近くの観光地を張り出したりと四苦八苦で廃線にならないように頑張っています。
電車が来なくても違反ですね
涙ぐましい経営努力に住民も
協力
かっては貨物の取り扱いも
ありました
国鉄時代の駅名板と花を生けた
待合室
車両はきれいなディーゼルカー
乗客は我々だけ、駅長さんが
車掌に早変わり


酒見寺


天平17(745)年、現在隣にある住吉神社(酒見明神)の神託を受けた行基が聖武天皇に奏上し、寺号を酒見寺として開創したといわれています、平安時代から毎年勅使の参詣が続いた名刹は二度も全山を焼失しますが、その都度再建され、1662年再建の多宝塔は重文になっています。



1825年江戸時代再建の酒見寺楼門



江戸時代1662年再建の彩色豊かな多宝塔



風変わりな本堂(入母屋造、裳階付、二層屋根・1698・元禄2年再建)



左の住吉神社と酒見寺の境内で昼餉


北条石仏(五百羅漢)



ここでは左右の仁王さんも石造でした

江戸時代にはすでに林立していた石造群は、ただひたすら故人を追悼供養したもので、それぞれ個性あふれる素朴な石仏が、造立した人たちの優しい心情と厚い信仰心を今に伝えています。



野仏団地








































「冬陽して 俺もなりたや 野仏に」 雨子 


玉丘古墳


全長109mの前方後円墳は古墳時代中期(5世紀前半)の築造で、兵庫県では6番目の大きさです、この古墳を中心にいろんな形式の古墳があり、玉丘史跡公園として開かれています。玉丘古墳に「根日女」という女性が葬られていますが、このことは播磨国風土記や古事記・日本書紀にもしるされ、23代・24代の天皇にまつわる悲恋物語として、記憶されています。



「根日女」を祀る玉丘古墳・当初は古墳全体を玉石で葺いていました

「根日女物語」1500年ほど昔、大和国の政治をにぎった雄略大王は、競争相手だった伯父の市辺王を殺してしまいます。市辺王の二人の子は播磨国までのがれて、現在の三木市にあった志染村の窟屋にかくれ住み、やがて志染村の長であった細目(いとみ)の屋敷で働くようになりました。 そんなある日皇子たちはひとりの娘にめぐり会いました。娘は根日女といい、神秘的な美しさと巫女として不思議な力を持っていました、一目見るなり二人は根日女を好きになりました。けれども仲の良い二人はゆずりあってなかなか言い出せませんでした。 

やがて雄略大王が亡くなり、ある年、細目の家では、新しい館を祝う宴がもよおされ都から山部連小楯も来合わせていました。宴が始まると、細目はふたりに命じ、弟の皇子が高らかに祝いの歌を歌い始めました。そしてお祝いの歌が終わると、皇子は勇気をふりしぼってさらに歌を続け、二人は市辺王の子であることを明らかにしました。

こうして二人の皇子は、晴れて都へ戻ることができました。 都へ戻ってからも二人は根日女のことを忘れませんでした。けれども二人には根日女を訪ねる時間はなかったのです。そうして時は流れ年が経ち、とうとう根日女は亡くなってしまいました。 

皇子の命で大きな墓がつくられほうむられました。村人たちは、玉でかざられて美しくかがやく墓を「玉丘」と呼んで、いつまでも根日女のことを語り伝えたということです。その後二人の皇子は、皇の位を継ぐことになり、兄の皇子は「勇気を出して歌ってくれたから都に戻れた」と弟を24代顕宗天皇にたて、弟の死後25代仁賢天皇になりました。

仁賢天皇の皇后は父を殺した雄略大王の娘・春日大郎女で二人の子が25代武烈天皇
というのも天皇家の勢力争いを物語っているのでしょうが、武烈で血統がたえ北陸から継体天皇が南下してくるのも、これまでのホームページでお分かりいただけた通りです。12月のウォーキングではこの仁賢天皇陵とされる野中ボケ山古墳へも行きますから、再び「根日女」を思い出すことになるでしょう。



向こうは復元されたクワンス塚古墳(円墳)と手前はマスコットの山羊「草次郎」君



オマケ:西脇市と加古川市を結ぶJR加古川線・西脇出身の横尾忠則さんの作品でしょうか?


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