第37(53)回 コダイ・ウォーキング レポート

山岳宗教の聖地・赤目四十八滝を巡る



にない滝


10月は趣きを変えて、日本の滝100選・森林浴の森100選に選ばれている三重県の赤目四十八滝渓谷に行きました、ここもまた役の行者が開いた行場ですが、古くからハイキングコースとして親しまれていますので、今回参加の方々は何十年振りかで訪れたという人がほとんどでした。

残念なことにこの日は珍しく終日の雨、駅から駅まで雨具をつけたままでしたが大雨でなかったので、上り下りの連続のコースも苦にならず楽しい滝めぐりとなりました。

ひとつひとつの滝を前にし、その水音を聞くとき、古の人々がその滝に仏が宿ると感じたのはうなずけることで、片時も尽きせぬ生命の行く末を知るような心地になりました。

ウォーキングの会らしく、最後の滝から小笹峠を越えて青蓮寺川まで距離を伸ばしました、この下りは岩根を踏んでの急な下りの難渋な道でしたが、傘をさし続けて下りた剛の女性や、尻もちをついたくらいで無事下りることができ、高齢にしては皆さん共々自信をつけた18000歩の一日でありました。




















出発から雨具を着るのは初めてでした、役の行者が開いた延壽院ではご住職に歴史をお聞きしました

役小角(えんのおずぬ)=役行者とは:634~706年、飛鳥・奈良時代の呪術者で修験道の開祖。大和国(現在の御所市)に生まれ、17才のとき元興寺に学び、このとき孔雀明王の呪法を学びました、その後、葛城(金剛)山で山岳修行、熊野や大峯の山々で修行を重ね、金峯山(吉野)で修験道の基礎を築きました。

彼は鬼神を使って、水を汲み薪を採らせ、従わないときは呪で鬼神を縛ったといわれます、24才頃藤原鎌足の病気を治したと伝えられ、神仏の調和を唱えました。

699年謀反の疑いで伊豆大島に流刑、701年疑いが晴れて帰国した後、同年64才で入滅しました。1799年には、役行者御遠忌1100年に当たり、光格天皇は烏丸大納言を勅使として聖護院に遣わせて「神変大納言」の諡を贈りました、勅書は真筆全文が聖護院に寺宝として残っています。



鎌倉時代から立っている十三重塔


山岳宗教とは
日本に仏教が伝来したのは、欽明天皇の時代の538年であるとされるが、平安時代(794年 - 1192年)に唐で修行を積み、本場の山岳宗教に触れ帰国した最澄や空海によって天台宗・真言宗が起こされ、比叡山、高野山などが開山される。

比叡山延暦寺は最澄によって788年(延暦7年)に、高野山金剛峯寺は空海により816年(弘仁7年)にそれぞれ開かれた。それまでの政治色の強かった都市での仏教への批判的意味合いも含み、鎮護国家を標榜しながらも密教的色彩を強め、国家体制とは一定の距離を置いた。

日本は国土の大半が林であり、古来より山岳信仰が行われ、こうした考えが受け入れやすい地盤があったといえる。世俗的な次元からも貴族などが修行僧の持つ験力(行力)に現世利益・病魔退散を期待したことなども山岳仏教の発達を後押しすることになり、天皇家など朝廷の庇護もあり、急速に一般化の道を歩む。

806年(延暦25年)には山岳仏教が都市仏教と並び正式に国家仏教の一つとなる。現世利益的色彩の強い、陰陽道の色彩を濃厚に含んだ密教修法や法然の説く浄土宗なども発達。さらに山岳修行に重点を置く修験道へとつながり、神仏習合思想が発生する。また、一方で平安時代には教団は巨大化、純一化が進んだ。(「ウイキペディア」よりコピー)



ピクリとも動かない体長1m余りのオオサンショウウオ、
ここのサンショウウオセンターでは世界各地のサンショウウオが見られます


赤目四十八滝の五大瀑



「行者滝」この滝か始まりです



「不動滝」15mH 明治中ごろまでは「滝詣り」はここまででした



「千手滝」15mH 滝壺の深さ約20m 毎年3月28日の「滝開き」はここで開かれます



千手滝を眺めながら茶店で昼ごはん



「布引滝」30mH 滝壺の深さ約30m



「百畳岩」脚に故障のあるSさんはここから引き返し温泉に入って
反省会で再会です、大方の人々もここから引き返して行かれました。



「荷担(にない)滝」8mH 渓谷随一の景観です



「琵琶滝」15m 最後の五大瀑



「岩窟滝」 四十八滝の最後



青蓮寺川「落合」 対岸は香落渓の屏風岩



よく頑張った皆さんでした


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