第36(52)回 コダイ・ウォーキング レポート

遣唐使船と仏像群と采女祭り


ウォーキング当日は厳しい日照りでしたが、吹く風が心地よく秋の到来を感じさせてくれました。いよいよウォーキングの再開となり、久しぶりに25000歩・約15qを楽しみました(922日)

今月は平城京の大極殿の内部を観賞し、歴史館で復元された遣唐使船と遣唐使の歴史を学び、佐保川のほとりを歩いて奈良国立博物館へ、そこでは1894(27)の建物が「仏像館」として再開された記念に「至宝の仏像」展が、また仏像修理百年記念展も開かれていました

恒例の「天までのぼれ」へ行って疲れを忘れて、猿沢池で繰り広げられる采女神社の「うねめ祭り」仲秋の名月の下で美しい管弦船と花扇を観賞するつもりでしたが、あいにくお月さんは雲の上で池を取り巻く観客の多さに驚きました、さまざまに彩られた奈良時代を満喫し、あげくはカラオケまで楽しむ何でもありの一日でした。



平城京(第一次)大極殿の内部



外観 着工2001年 総工費180億円 44mX19.5mX27mH 
殿内には高御座(たかみくら)が据えられ、即位の大礼や国家的儀式が行われました。
京都府木津川市にあった恭仁京へ遷都の折は大極殿を解体して移設し、745年に再び
平城京へ戻るときには少し東側に第二の大極殿を造営しました。

青丹(あをに)よし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり(万3-328)  小野 老(おゆ)



大極殿内部



高御座



上村淳之画伯による四神・十二支が四方を取りまいています



五色の宝珠をつけられた欄干より南門・朱雀門を見る


遣唐使船



2010年5月8日大阪港を出て上海万博会場へ向かう復元船
これは角川文化振興財団が主催する遣唐使船再現プロジェクトにより実現され6月12日上海万博会場で
当時の衣装を着た人々がパレードを行いました。(画像はグーグルの「遣唐使船の画像検索結果」よりコピー)



平城京跡に復元された船 上図の本船の簡易コピーと思われます
全長30m・全幅9.6m・排水量300トン・積載荷重150トン 一隻当たり約150人が乗船していました





















左上:雑居部屋  右上:約150人分の食事をつくった賄い部屋
左下:大使の部屋  右下:帆柱と竹片を網代に織った帆




































遣唐使について:

西暦600年(推古8)〜610年までに5回派遣された遣隋使は618年隋がほろび、唐の時代になって遣唐使として630年(舒明2)に再開されました。

以後894年(菅原道真大使、ただし唐の衰退により中止)までの264年間に20回計画され、このうち4回は難破・漂流などによって入唐できませんでした、これは唐の長安(現・西安)の正月の朝賀に間に合わせるため、航海には不向きな逆風の吹く、6〜7月に大阪の住吉大社で航海の安全祈願をして、住吉津を出港し瀬戸内海を通って、博多の那の津より4000Km・6か月以上の旅に出港しました。

600年代は朝鮮西岸沿いの北方路、700年代は鹿児島県の坊の津を出港して南西諸島沿いに東シナ海を渡る南島路、700年後半から800年代は五島列島より渡る南路をとられ、帰国もまた天候不順な時期となりました。

船団は4隻でしたが、4隻が共に帰れたのは唯の1回、第8回717年について行った阿倍仲麻呂・吉備真備・玄ム・井真成のうち仲麻呂は帰国時に遭難して唐に戻って朝廷仕え、李白との親交は有名ですね、また井真成も仕えていましたが36歳の若さで逝去し、彼を惜しんだ皇帝の墓誌が発見されたことは最近墓誌が里帰りしたことで、覚えておいでの方も多いでしょう。

唐の高僧・鑑真和上が日本に招かれたことも思い出してみましょう、和上は753年に到着しましたが、それに要した時間はなんと11年間、5回の航海はことごとく失敗に終わり、6度目の航海で着きました。なんという難しい船旅だったことか、今の大阪と上海を結ぶフェリー「新鑑真号」はわずか48時間で東シナ海を渡るのですから、渡来された和上の精神力には驚くばかりです。

平底船は横波に弱く、大波によって船が真っ二つに割れ、船首と船尾部分が熊本と鹿児島に漂着したという記録もあるそうです。第18次804年の遣唐使船4隻のうち2隻が沈没するなどして福州に漂着しましたが、このとき生きて中国の渡った僧に最澄と空海が別々の船に乗っていました、いずれかの船が沈没しておれば日本の仏教は違ったものになっていたことでしょう。

遣唐使が持ち帰ったのは、新しい政治の在り方や仏教の経典だけではなく、大豆(豆腐・醤油・納豆)、きゅうり、なす、レタス(ちしゃ菜)、そして温州ミカンなど今なお日本の食べ物ととして好まれていますね。

法華寺の近くの海龍王寺には第8次に渡航した玄ム(げんぼう)は20年後の帰国船に乗って帰国しましたが、その経典の中に「海龍王経」というのがあり、その後この寺は航海の安全を祈って、航海中この経を読み続けたといわれます。

このように遣唐使とは冒険好きでなければできない航海でした、彼らの多くの犠牲の下に中国文化を吸収し、現在の日本があるわけですが、最近の尖閣列島の騒ぎは日中交流の歴史の汚点の一つといえるでしょう。



緑陰での昼食、向こうは朱雀門


奈良国立博物館・なら仏像館



この博物館は1894年(明27)奈良帝国博物館として開設され、写真の「なら仏像館」はその前年に本館として建設されました、現在国の重要文化財に指定されています。ちなみに東京上野の帝国博物館は1872(明5)年、京都帝国博物館は1897(明30)年に開設されました。この館が仏像館として再開されたのを記念して、東大寺法華堂(三月堂)より特別に移設された金剛力士像(国宝)をはじめとする同館保管の仏像群百体が新しい照明設備の下に「至宝の仏像」展として一挙に公開されました、また仏像修理百年記念展も開かれ、たくさんたくさんの仏さま方にあっという間の2時間半でした。

国宝の仏群像:
脱活乾漆金剛力士立像(吽形・阿形)奈良時代 東大寺 :  木造薬師如来立像 平安時代 元興寺
木心乾漆義淵僧正座像 奈良時代 岡寺  :  木造薬師如来座像 平安時代 奈良国立博物館
木造八幡三神座像 平安時代 薬師寺  :  銅造誕生釈迦仏立像及び潅仏盤 奈良時代 東大寺
銅造法華説相図 飛鳥〜奈良時代 長谷寺

修理された国宝:
伝行賀座像(法相六祖像) 鎌倉時代 興福寺 明治35年  :  伝神叡座像(法相六祖像) 鎌倉時代 興福寺 明治35年
雲中供養菩薩像 南14号 平安時代 平等院 明治38年  

さすがに高さ3mをゆうに超える金剛力士二体の陳列にはすごい迫力がありました。法華堂の須弥壇の修理が終わり、修理中の御本尊・不空羂索観音以外はいつでも拝観できるようになったのはうれしいことです。


采女祭り

奈良時代、天皇寵愛が薄れたと嘆き、猿沢池に身を投げた采女(女官)を悼んだ帝は池の畔に采女神社を建てた故事によって、彼女の霊を慰める伝統行事。仲秋の名月の夜、采女の故郷とされる福島県郡山市のミスうねめら約30人が2隻に乗船して、雅楽を演奏しながら池を二周して、秋の七草で飾った花扇を水面に投げ入れるお祭りです。
あいにく月は見えませんでしたが、池のほとりは明々と照明されすごい人たちが取り巻いて、遅れて行った私たちはのぞき見する以外ありませんでした。管弦船の模様は動画をコピーしますのでそれをご覧ください。



興福寺五重の塔と猿沢池



別嬪さんばっかりでした




















采女神社と昼間の猿沢池

2009年の管弦船動画記録(YouTubeよりUKhachimanさんの「采女祭りUNEME-MATSRI in NARA」をご覧ください)


かくして様々な奈良時代を楽しんできました、奈良時代とはどんな時代であったのか、藤原不比等によって平城京に都を移し、律令国家として東北地方以外の地を大和政権が掌握しましたが、国民の疲弊は極みに達したため土地の開墾を勧め、国を鎮護するために全国に国分寺そして東大寺を建立するなど、仏教国としての基礎ができて天平文化の花が咲いた時代でもありました。この辺のことは「奈良時代の年表」を見ていただければ詳しくお分かりいただけると思います。
年貢を各地から運び込み、都や大寺を建立の賦役のため国民(くにたみ)が狩り集められ、貴族は栄華に酔う様は、今の政管界と大企業に対する力無き「くにたみ」とあまり変わっていないのではないかと思えます。
ウォーキングでは華やかな奈良時代を歩いているわけですが、その陰に多くの汗と涙を忘れてはならないのです。


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