第4回ブッダ・ウォーキングレポート


「日本書紀」によると日本に仏教が入ったのは公式には538年、欽明天皇の時代に百済の聖明王が釈迦像などを奉献されたのが始まりですが、民間では中国・朝鮮からの渡来人によってそれ以前から仏教が信仰されていたようです。 

584年に百済より弥勒菩薩石像が将来され、蘇我馬子は奈良県桜井の家を寺院(向原=ムクハラ寺・豊浦寺=トユラ寺)として善信尼など3尼が出家してその後百済へ留学、用明天皇(聖徳太子の父)が初めて仏教に帰依、588年百済より技術者が派遣され最初の本格的な飛鳥寺(法興寺)が599年に完成、594年には推古天皇(用明の姉・最初の女帝)が「三宝(仏教のこと)興隆の詔=ミコトノリ」を発布して、仏教国としての発展の道が確立してゆきました…。
7世紀以前の飛鳥時代の天皇は代が変わるごとに住居を変えていましたが、推古天皇の摂政・聖徳太子による憲法17ヶ条に続いて「大宝律令」が制定(701年)される頃には北飛鳥に藤原京を中国の長安に習ってつくられましたが、大和三山に囲まれた土地は狭く僅か16年間で現在の奈良市南郊の平城京(710〜784)に遷都することになります。

この間に飛鳥(現・明日香村)と平城京を結ぶ地点に様々な寺院が造られていきます、今回は飛鳥時代に建てられた世界の至宝・法隆寺を中心とする斑鳩(いかるが)の寺院を訪ねました。まだまだ残暑の厳しい一日でしたが、新しく参加していただいた方2名を含めて、のんびりと斑鳩の里を歩くことができました…。

斑鳩の寺々

「法隆寺」
推古天皇と聖徳太子が大阪の四天王寺(593年)についで創建(607年)した日本初の世界遺産、世界最古の木造建築(金堂・五重塔)・仏像・美術など国宝、重文190件の世界的至宝を伝えています、創建伽藍は670年に全焼しましたが8世紀初に再建されました。   法隆寺のホームページ

世界最古の五重塔と金堂(右)

              斑鳩の里の玄関口                                藤ノ木古墳























藤ノ木古墳から出土した副葬品、動物の意匠やガラス象嵌(ぞうがん)が施された金銅装鞍金具などの馬具類、金銅製の冠や沓(くつ)、銀製塗金空(うつろ)丸玉やガラス小玉などのうち四点が国宝に指定されました。

「斑鳩三塔」
飛鳥時代そのままの法隆寺五重塔と法起寺・法輪寺の三重塔を斑鳩三塔とよんで親しまれています、法輪寺の方は
台風や雷火で損壊しましたが昭和に古い姿のままに復元されています。飛鳥時代を偲ぶ三塔付近は民家がふえて、いにしえの面影を伝えるのが大変難しい状況ですが、時間と場所に制約されながら精一杯撮影しましたのでお楽しみ下さい。
「法隆寺金堂壁画」
6号壁の壁画の勢至菩薩像(708〜715年和銅年間・原画は1949年火災で焼失)は、遠く5世紀インドのアジャンター仏教石窟(第1窟:蓮華手菩薩・金剛手菩薩)に原点があり、これらの手法が中国敦煌の莫高窟(366年前秦〜元朝の900年間)第57窟の樹下説法図右脇侍菩薩を経て日本へ到達する壮大な文化伝播を知ることができます。
この歴史をお知りになりたい方は私の「風来坊主の旅日誌−V」インドの旅−3「アジャンター石窟寺院」をご覧下さい。
「四天王寺」とは
593年に聖徳太子により大阪の高台に建てられた大和朝廷初の大寺で、「四天王寺式伽藍配置」といわれ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で中国や朝鮮の6〜7世紀の大陸様式を今日に伝えています。
この寺の目指すところは仏法修行の道場である“敬田院”、 病者に薬を施す“施薬院”、病気を癒す “療病院”、身寄りのない者や老年者を収容する“悲田院”の仏教の根本精神実践の場として存在したことです。法隆寺が仏法の研修の場であったのと異なるのは、当時も大阪は多くの人口を抱える商業地であったことでうなずけますね。


      西院伽藍:金堂の龍の彫刻、中国風ですね              東大門(国宝・奈良時代)より東院伽藍の夢殿を見る







































 
斑鳩宮跡に聖徳太子の遺徳を偲んで建てられた夢殿(天平・739年)

「中宮寺」
この寺は夢殿のすぐ東側にありますが、創建当時は更に東側に法隆寺と対照的な土地に四天王寺式伽藍としてあったことが確認されていおり、法隆寺が男子の僧寺であるのに対して尼寺として今もって続いています、草堂一宇の寺運衰退時期もありましたが、飛鳥時代の最高傑作とされる有名なご本尊・国宝「如意輪観音菩薩半伽像」だけは守られてきました。新しい本堂は1968年に建てられた簡素にして美しい建物です。
 中宮寺のホームページ

                            
 中宮寺本堂より夢殿を見る
       
「法輪寺」
かってこの寺は法隆寺西院の三分の二の規模であったことがわかっています、創建は聖徳太子の長子・山背大兄王とも言われていますが、江戸時代の台風によって三重塔の二層までを残した以外ことごとくが倒壊し、復興したものの1944年に雷火によって三重塔が焼失、1975年になって再建されました。鉄筋コンクリート製の講堂は収蔵庫となって、薬師如来坐像を初めとする飛鳥時代の仏方と平安時代の仏方が並んでおられますが、時代によってお顔も雰囲気も変わっていることが大変興味深いことでした。  
      法輪寺のホームページ

法輪寺三重塔



法輪寺から法起寺へ向かう道にはイチジクの木がたくさんあり、一軒の店にはイチジクとドライフラワーがありました、もぎたてのイチジクは大変美味しかったです。




















「法起寺」
聖徳太子が法華経を講説したといわれる岡本宮を太子の遺言により寺(638年〜)としたもので、栄枯盛衰を繰り返し江戸時代初期には三重塔を残すのみとなりましたが、江戸中期には現在の規模になったそうです。1972年には三重塔の解体修理され、世界最古の三重塔として建っています。
      法起寺のホームページ

世界最古の法起寺三重塔


法起寺からJR郡山駅まで暑い日差しに背中を押されながら歩きに歩きました、80歳をはじめとする皆さんは健脚の方ばかり、苦しかったのは風邪気味だった私だけだったでしょう。何かに引かれるように無事に到着、引かれるというのは下の写真の如しです、乾杯!




                               日本の宗教雑感


大和朝廷の貴族による仏教信仰は四天王寺や法隆寺をはじめとする大寺を次々と建立してゆきますが、もちろん飛鳥の都の守護神としての飛鳥坐(あすかいます)神社など日本古来の神々を忘れたわけではなかったでしょう。

日本の神々の原点となるのは氏族を中心として自然を崇めることであり、その宗教儀礼はシャーマニズムに基盤を置くものと考えられ、その素朴さは仏教やユダヤ・キリスト・イスラムのように経典を持たないところに象徴されますが、氏族から国家が誕生する過程で、個人の意識の目覚めが生じるとともに、具体的に信じうる対象として仏典は大変重要な国家と個人の確立に不可欠のものとなったに違いありません。

外国から渡来した仏教は聖徳太子によって日本文化の基本となったことは明らかです、太子は憲法十七ヶ条の第十条で「人間は我執による対立をくりかえし、お互いに人間の是非善悪を判断できない凡夫であって、人間の思いは人それぞれ違うのである。自分の考えがいつも正しいとは限らないし相手の考えが愚かだとは限らない。大事なことは相手のことを責めるより、まず自分自身に落ち度やあやまちがなかったかどうか反省すべきである」と釈迦の教えを憲法にし、またお妃の橘大郎女に「世間虚仮、唯佛是真」と話しているように仏教を善と理解したうえで、善を行うことが正法であると見事な政教一致を実現しようとしています。

然し、一般的には聖徳太子以降の仏教は、国家や一族の安泰を願う祈祷仏教として存在したことが知られています、これは文字を読み書きできない一般庶民も同様に受け止めていたはずです。ここに世界でも例のない神と仏という重層信仰が日本では育ってゆきました、だからお正月には神社へお参りして結婚式はキリスト教、死んだら仏教という生活を何の矛盾も覚えずに繰返せるのですね。是は一神教の下にがんじがらめな西洋やモスリム(イスラム教徒)から見れば不思議な世界であっても、私達日本人が手を合わす神は人格神ではなくて自然崇拝であることを忘れなければ、これほど豊かな宗教環境に恵まれた国民はいないことに誇りを持てることでしょう。

次回のブッダウオーキングは10月17日を予定しています、いよいよ平城京に近づきます。


表紙に戻る