第29(45)回 コダイ・ウォーキング レポート

大阪市の古代遺跡


「おおさかの歴史の始まり」


12万年前の間氷期の大阪平野は上町海という大きな湾になっていました、上町海が縮小を始めて涼しくなってきた中期旧石器時代の10万年前の大阪にはナウマンゾウやオオツノジカが群れをなしており、氷期に変わってゆく7万年前には上町海が退いて古大阪平野がが広がりはじめました。

23000〜20000年前の極寒期には平均気温が今より6〜8度低く、海面が現在より100mも低くなり、瀬戸内海は陸地となっていました。最終氷期が終わって気温が上がりだし、12000年前頃には海面は現在の大阪駅辺りまで進み、縄文草創期の陸地を古河内平野というそうです。

その後、約9000年前の縄文時代早期には縄文海進によって、海岸線は生駒山地西麓・高槻市付近・八尾市南部にまで進み、リアス式海岸の河内湾になりました。再び縄文中期の約5000年前には海退に伴って、淀川と大和川の土砂によって河内湾を埋立てていき、約2000年前弥生時代中頃には、海と隔てられて淡水の河内湖を形成しました。

このような陸地の変遷を経験しながらナウマンゾウやオオツノジカと暮らした旧石器時代以来の人々は、地球温暖化時代や氷河期を克服して、大陸との交流を発展させ、豊かな暮らしをしていたことが考古学上の発掘によって知られるようになりました。

ビルが林立する大阪市内での発掘作業は困難を極めていますが、市民の理解と協力によって古代発掘の技術は精緻を極めていきました。今回のウォーキングは日本国誕生の基盤であった古代大阪の暮らしを探ることにしましょう。

(財)大阪市文化財協会の「なにわ宮調査事務所」「長原調査事務所」及び「大阪歴史博物館」の方々のご懇切な対応に厚く御礼申し上げます。





























大阪平野の変遷
上左:約5500年前・河内湾Tの時代、上右:約5000年前・河内湾Uの時代、下:約2100年前・河内湖の時代 湾内の白線は現在の海岸線
(創元社・「大阪の遺跡」大阪市文化財協会編よりコピー)




大阪の象徴 : 難波宮大極殿基壇と大阪城


難波宮跡資料展示室
大阪市中央区のなにわ宮跡公園の南側に難波宮調査事務所があり、そこでは大阪市の北部で最近発掘された出土品が歴史順に展示されています、その一点一点を調査室の方が解説してくださいました。
これまでに発掘された大阪市の重要品はすぐ横の大阪歴博物館に展示されています、ここはあくまで仮の展示室ですから、照明は博物館のようにはいかずPLフィルターを使ってもガラスの反射を防げませんでしたので、見にくい点はご容赦ください。


調査の先生の解説を聞く



前期難波宮出土


難波宮とは
難波宮の名前は飛鳥・奈良時代の文献に出ていましたが、場所が特定されたのは1954年より40年かけた発掘調査によって、二つの時期の宮殿が同じ場所にあったことが明らかになりました。
前期の宮殿は645年大化の改新のとき、孝徳天皇が飛鳥から都を移した「難波長柄豊碕宮」とされ、後期は726年聖武天皇によって造られ始めた都と考えられおり、現在はその跡地が史跡公園となっています。
現在のNHK大阪の地下には都の付近にあった倉庫群の跡地が発掘当時のまま保存され、隣には大阪歴史博物館があります。



大阪歴史博物館より難波宮跡史跡公園を見る 後方の山並みは生駒山地から二上山・葛城山



大極殿発掘当時の写真(難波宮パンフレットよりコピー)

「水の都大阪」
の発展は、難波宮より以前5世紀後半に上町台地の北今のNHK大阪前に規則正しく並んだ16基以上の大倉庫群が、百舌や古市に大古墳を造った王権によって築かれ、6〜7世紀には難波津と呼ばれる港が栄えて物資の一大集散地となり、迎賓館や国の出先機関が設けられ、608年8月3日遣隋使・小野妹子が隋使・裴世清を伴って上陸したのもこの地でした。
「前期難波宮」
日本で最初に建てられた本格的な中国風の宮殿で、掘立柱建物と屋根にはまだ瓦は使われていませんでした、この都は686年に火災によって焼失したことがわかっています。
「後期難波宮」
平城京の副都として建設され、744年には短期ながら首都機能を持っていました、前期と違うのは天皇の住まいの内裏と朝堂院が完全に分かれており、礎石の上に柱が立てられ、中心部の屋根は瓦葺で重圏文や蓮華文・唐草文の瓦が軒先を飾っていました。784年に始まった長岡宮造営には難波宮の建物を移設したことがわかっています、三たび都が造られることはなかったのですが、交通の要地としての機能は現代まで受け継がれています。



難波宮の配置図



大型倉庫群の想像図と発掘調査



復元された掘立柱倉庫



倉庫内部


大阪歴史博物館

大阪市立博物館として1931年に開設され、2000年3月に一旦閉館し、翌2001年3月難波宮跡と一体化した歴史博物館として開設されました、10階建てで上から古代フロアから近世までが展示され、隣接するNHK大阪放送局の地下には、大倉庫群の発掘遺構が保存されています


ボランティア・ガイドさんからレクチュアを受ける



大型倉庫群の発掘現場



復元された後期難波宮の大極殿の鴟尾



日本最古の万葉仮名による木簡



平野区・長原遺跡出土の船形埴輪(重要文化財)



船はもう少し大型だったのでは思ってしまいます、
35日間かけて航海しましたが交代要員や炊事はどこで?近々調べてここに報告します


古代船「なみはや」物語を追加しました


大阪市埋蔵文化財収蔵展示室

整理統合された平野区・長原小学校跡の校舎を使って大阪市文化財協会の長原分室はあります、ここは河内湾の沿岸として旧石器時代から人々がナウマンゾウやオオツノジカを追いかけ、弥生時代にはいちはやく水田が開かれた、超古代大阪の中心地です。
ここの展示室には興味つきない数々の出土品が展示され、廊下には掘り出されてきた品々がところ狭しと置いてある、まさに考古学の現場でした。



長原付近の遺跡と出土品 (上と下の図はパンフレットよりコピー)
























































古墳時代中期の石製品


埴輪の数々


心優しい人が並べたのですね

元小学校の校庭は発掘現場でした、寒風吹きすさぶ現場で調査員の方にご親切に教えていただきました

左の穴は奈良時代掘立柱の穴、その右の四角いところは古墳の一部、白線は奈良時代の水田の畦畔の跡です


暮れなずむ大和川畔を逆風の寒風をついて忘年会場へ急ぐ一行七人でした

おわりに
大変長編になりましたが、大阪遺跡の次回は生駒西麓・東大阪市・八尾市へ行かないと終われないようです、来年には計画したいと思っています、今年は番外編を含めて13回のウォーキングを実施し、皆さん共々怪我もなく楽しむことが出来ました。ひとえに皆様の十分なお心がけの賜物とお礼申し上げます。

1月のウォーキングは24日(日)を予定しています、今月末には発表の予定です。

来年も色々と楽しい企画を出していきたいと思っていますが、どうぞご希望をお聞かせください。
皆様お揃いで良いお年をお迎えになりますよう心よりお祈りいたしておりますBye        風来坊主
                             

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