第27(43)回 コダイ・ウォーキング レポート

縄文〜万葉の吉野を歩く



上千本の眺め


吉野山


奈良県吉野町宮滝は歴史的に深い意味を持つ土地です、古くは縄文時代からの遺跡があり、古墳時代には応神・雄略(天皇)大王が行幸し、飛鳥時代には、役小角(行者)が吉野から始まる大峰山系に修験道場を開き、天武・持統天皇の御代より吉野宮があったところであり、かって吉野山へ登る起点となっていました。

吉野山は誰もが知るように現代では3万本にも及ぶ桜の名所ですが、古代には、大化の改新により蘇我氏を後ろ盾にしていた古人大兄皇子が吉野に逃れたのを中大兄皇子(のち天智天皇)が一族を惨殺、また大海人皇子(のち天武天皇)が天智天皇の謀を逃れて吉野に出家し、天智亡き後その子・大友皇子の近江朝を打ち破る壬申の乱、鎌倉時代の源義経、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は足利尊氏に吉野に追われて以来半世紀にわたった南北朝争乱、江戸末期には倒幕のさきがけとなった天誅組の乱など血塗られた歴史の場でもありました。

私たちは桜紅葉に分け入って、この壮絶な歴史をたどりつつ万葉歌の数々に親しみたいと思い、骨折や腰痛で欠席もありましたが・総数12名が高曇りの吉野山を満喫してきました。 



「関西歩いてみたい道」山と渓谷社よりコピー


金峯山寺
金峯山(きんぶせん)とは大峰山系・吉野山から山上ヶ岳に至る修験の聖地をさす言葉です。6世紀(飛鳥時代)に役行者(役小角=えんのおずぬ・634年奈良県御所市生まれ・701年入滅)が葛城山で修行して大峰山系の各所に行場を開きましたが、ここは修験道の根本道場として奈良時代以降に隆盛を極め、幾度も兵火に会いながら、現存の蔵王堂(国宝)は1591年に豊臣秀吉によって再建された東大寺に次ぐ木造大建築です、仁王門(国宝)は室町期再建、本尊は秘仏・金剛蔵王権現(国宝)、銅の鳥居(かねのとりい・重文)は安芸の宮島の「朱塗りの鳥居」、大阪四天王寺の「石の鳥居」とともに日本三大鳥居の一つです。

ちなみに、なぜ吉野山が桜の名所になったかといえば、役行者が桜の木で蔵王堂の本尊である「蔵王権現」を刻んだところから、桜が保護。献木されたきたとのことです。

左:黒門・金峯山寺の総門でかっては大名も槍を伏せ、下馬して通ったところです
右:銅(かね)の鳥居(重要文化財)・日本三大鳥居の一つ


仁王門(国宝)1456年(室町時代)再建  撮影:myuumyuuさん


蔵王堂全景:国宝・高さ34m・36m四方、重層入り母屋造り桧皮葺き


418年の重み 12月第2日曜日には堂前で「採灯大護摩供」が行われます


吉水神社

元々、役行者の創立と伝わる吉水院という寺格の高い僧坊でしたが、明治の神仏分離令によって神社になりました、後醍醐天皇はまずここに南朝を開き、秀吉の花見の本陣にもなり、また源義経をかくまったことでも有名ですが、その由緒もさることながら現存する書院(重文)が日本住宅建築史上最古の位置をしめており、日本住宅の源流となる初期書院造の代表的傑作です。境内より中千本・上千本が見渡せます。

吉野山 峯の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき      源義経

花にねて よしや吉野の吉水の 枕の下に石走る音         後醍醐天皇

年月を 心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな   豊臣秀吉



元吉水院の山門 



源義経と静御前がかくまわれた間と彼の鎧(よろい・重文) 小柄な人だったようです



豪華絢爛な後醍醐天皇の玉座



蝉丸禅師の琵琶


蝉丸禅師とは:生没年不詳の平安前期の歌人で琵琶の名手、「蝉丸」は天皇の落胤であるとか違うとか、盲人だったとかなかったとか名高い人です。
管弦の名人の源雅博が逢坂に3年間通い続けて、琵琶の秘曲「流泉」「啄木」を伝授されたと「今昔物語」に出ているのをはじめ、「新古今和歌集」を初めとする歌集にその歌を残し、能楽に「蝉丸」があり、滋賀県大津市には関蝉丸神社、そして現代では名神高速の大津ICと京都東ICの間のトンネルを「蝉丸トンネル」といいます。

これやこの 行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも 逢坂の関    蝉丸(百人一首より)

逢坂の 関の嵐のはげしきに 強ひてぞゐたる 夜を過ごすとて    蝉丸



一休さんの墨蹟


一休さんとは:室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧(1394〜1481年)、後小松天皇の落胤といわれ、6才で京都・安国寺に入門受戒、早くから詩才に優れ13才の時の漢詩「長門春草」15才の「春衣宿花」は洛中で賞賛されました。1410年に謙翁宗為の弟子となり、宗純と改める。
1415年大徳寺の高僧・華叟宗曇の弟子となり、師から出された公案に「有ろじ(迷いの世界)より無ろじ(悟りの世界)へ帰るいい一休み、雨ふらば降れ風ふかば吹け」と答えたところから、一休の道号を授けられました。1420年以後、詩・狂歌・書画、そして仏教の戒律を破り、盲目の「森侍者」を側女にし、実子の弟子がいるなど風狂の生活をおくりました。
1474年応仁の乱後、大徳寺の第47代住持に任ぜられましたが寺には住まなかったものの、寺の再興に尽くしました。
逸話の一つに、本願寺の蓮如の留守に上がりこみ、蓮如の念持仏・阿弥陀如来を枕に昼寝をしていたところ、蓮如が帰ってきて「俺の商売道具に何をする」と二人で大笑いしたそうです。
彼は仏教の権威・形骸化を批判風刺して仏教界に警鐘を鳴らしましたが、足利義正と夫人・日野富子の幕政にも批判しました。

一休さんの言葉門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし (狂雲集)

釈迦という いたづらものが世にいでて おほくの人を まよわすかな

女をば 法の御蔵と云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む

南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ



紙本淡彩一休和尚像(重文)
フリー百科事典ウイキペディアより転載)



役の行者像 脇は鬼神の前鬼と後鬼


役小角(えんのおずぬ)=役行者とは:634〜706年、飛鳥・奈良時代の呪術者で修験道の開祖。大和国(現在の御所市)に生まれ、17才のとき元興寺に学び、このとき孔雀明王の呪法を学びました、その後、葛城(金剛)山で山岳修行、熊野や大峯の山々で修行を重ね、金峯山(吉野)で修験道の木曽を築きました。
彼は鬼神を使って、水を汲み薪を採らせ、従わないときは呪で鬼神を縛ったといわれます、24才頃藤原鎌足の病気を治したと伝えられ、神仏の調和を唱えました。
699年謀反の疑いで伊豆大島に流刑、701年疑いが晴れて帰国した後、同年64才で入滅しました。
1799年には、役行者御遠忌1100年に当たり、光格天皇は
烏丸大納言を勅使として聖護院に遣わせて「神変大納言」の諡を贈りました、勅書は真筆全文が聖護院に寺宝として残っています。


ここらでちょっと一休み



上千本付近より蔵王堂を望む



街道にあった有名な胃腸薬の店 

修験道の開祖である役の行者が今から1300年前大峰山の開山の際、山中に生え繁るキハダを煮てそのエキスを取ったところ、胃腸の病をはじめ色々な、内臓、外傷にも薬効のある事を知りました。
7世紀末、疫病が大流行した際、大釜を据えオウバク※を煎じて多くの病人に飲ませ救済したと伝えられています、この店は約300年前から続いています。右側の大蛙は7月7日蓮華会蛙飛び行事(修験道を侮った男が蛙に変えられた伝説)にちなんだ蛙です。


竹林院

聖徳太子が建立した椿山寺に始まる古刹で南北朝時代に今の名前に変わりました、古来より山伏修験者の宿坊として利用され、太閤秀吉の遺品、西行法師、細川幽齋等の文人・墨客・一般旅行者の宿として今日に至り、1981年には昭和天皇皇后両陛下も宿泊されました。
池泉回遊式の庭園・群芳園は千利休の傑作とされ、大和三名園(当麻寺・中の坊、大和小泉・慈光院)の一つです。



大和三名園の一つ「群芳園」にて



煙り出しがついた宿坊


桜本坊

大海人皇子が、671年近江京から逃れ、桜本坊の前身・日雄(ひのお)離宮にとどまり、その後皇位についた彼(天武天皇)は桜本坊を建立しました。境内には「天武天皇夢見の桜」と名づけた桜木や、樹齢三百五十年を経たギンモクセイの巨木があります。ここには白鳳期の銅造釈迦如来像(重文・秘仏)など多くの重要文化財があります。















山門と境内



山門前のお元気な参加者


宮滝万葉の道


み吉野の 象山のまの木末(ぬれ)には ここだもさわぐ鳥の声かも   山部赤人
                     
見れどあかぬ 吉野の川の常滑(とこなめ)の 絶ゆることなく また還り見む  柿本人麻呂

よき人の よしとよく見てよしと言いし 吉野よく見よよき人よく見   天武天皇 

昔見し 象の小川を今見れば いよよ清けくなりにけるかも   大伴旅人

大和には鳴きてか来らむ呼子鳥 象の中山呼びてぞ越ゆらむ   高市連黒人
天武天皇の后であった持統天皇は夫とともに建てた吉野宮をこよなく愛し、夫亡き後その彼を偲ぶ心もあってか、その在位中だけでも31回も吉野に行幸されたそうですから、それに供奉した歌人たちが残した吉野賛歌が、私たちを楽しませてくれます。

後醍醐天皇陵の南に宮滝に下る近畿自然歩道があります、南の方へ尾根筋を上ってゆくと道が水分神社道と分かれ、喜佐谷の支流沿いに、時には鎖を張られた細い道を下り、やがて極端に水量が少ない喜佐谷川本流と合します。杉林をバックに大きな看板が「やまとの水 象の小川」とありました。そこからは民家の散らばる広くなった道を下ると、右に屋根付のうたたね橋をかけた桜木神社を過ぎて、いよいよ吉野川へと出てきます。
そこで橋を渡ると宮滝のひっそりとした町並みに出ますが、自動車がたくさん走っており、縄文〜万葉時代を偲ぶ余裕はありません、宮滝遺跡と刻まれた石柱が小学校の校庭の上に立てられてあり、学校そのものが遺跡の上に建てられたことが分かります。山すそには吉野歴史資料館が見えています。



吉野水分(みくまり)神社への道との分岐点


いずれ紀ノ川になる、ダムのために水流のない吉野川上流を望む

宮滝遺跡とは:縄文後期から奈良時代にかけての遺跡が埋まっています、1930(昭和5)年に始まった発掘調査は既に59次になりますが、いまだ20%にも及びません。
縄文土器の文様は海の貝殻を転がせて付けたもので、こんな山中にまで海産物がありました。この地の人々は夏は宮滝、冬は吉野川の下流で暮らしていたそうです。これらの発掘品は吉野歴史資料館に展示されています。吉野宮は発掘後埋め戻されて面影すらありません。
吉野川の上流域の宮滝は東は伊勢街道、南は東熊野街道、西は吉野川が紀ノ川に変わって紀伊水道へ、そして北は明日香を経て奈良の都へとつながる、当時の近畿の中心に存在していました。


吉野歴史資料館
(クリックすると別のぺージへ移ります)