京都大原の里(付:京都府立植物園)


大原寂光院


6月のある日、再建なった寂光院を訪ねてみました



心字の池より寂光院本堂


ここは594年(推古2年)、聖徳太子が父用明天皇の菩提を弔うために建てられたお寺です。

その600年後、平清盛の娘徳子は15才で11才の高倉天皇(1161~1180 在位12年 21才で崩御)に嫁し、22才で安徳天皇の母となり、壇の浦の合戦では幼い安徳天皇とともに入水しましたが源氏に助けられ、都につれ戻された建礼門院は寂光院の傍らに庵を結んで、安徳天皇と平家一門の冥福を祈る約60年の日々だったようです。

栄華を誇った平家一門の中に悲しい運命をたどった女御として、高倉天皇の父・後白河法皇が寂光院を訪れたのが平家物語や謡曲で有名な「大原御幸」です。


「平家物語」より
「道すがらも四方の梢の色々なるを、ご覧じ過ぎさせ給うほどに、山陰なればにや、日もやうやく暮れかかりぬ。野寺の鐘の入相の声すごく、わくる草葉の露しげみ、いとど御袖ぬれまさり、嵐はげしく、木の葉みだりがはし。空かきくもり、いつしかうちしぐれつつ、鹿の音かすかにおとづれて、虫のうらみもたえだえなり」


       「大原御幸」の中の一幅 下村観山筆 1908年 東京国立近代美術館蔵
 
         
     東京国立近代美術館蔵の下村観山「大原御幸」全幅を見る


旧本堂は飛鳥・藤原・桃山の三時代の様式からなり,内陣および柱は飛鳥・藤原・平家物語当時のもので,外陣は豊臣秀頼が修理したものでしたが、2000年5月9日放火により本堂付近から出火、木造こけらぶき平屋建の本堂は全焼しました。

本堂には聖徳太子が作ったといわれる、国の重要文化財の本尊、六万躰地蔵菩薩立像が安置されていましたが、建礼門院座像,阿波内侍座像とともに焼損、焼け焦げた本尊の胎内より地蔵菩薩の小像3417体や経典五巻などが17個の桐箱に入れて納められていたものが無傷で保護されました(重要文化財)。

2005年6月4日、元の姿そのままに本堂と彩色鮮やかなお地蔵さんも建礼門院と阿波内侍の坐像とともに再建されました。建礼門院に仕えた阿波内侍が、里人の貢ぎ物の夏野菜を一緒に漬け込んだのが「しば漬」の始まりと伝えられているそうです。           

「思ひきや 深山の奥にすまいして 雲居の月をよそに見むとは」 建礼門院 
「池水に 汀の桜散りしきて 波の花こそさかりけれ」       後白河法皇


汀の池


再建なった本堂、手前の南蛮鉄の雪見灯籠は豊臣秀吉の寄進


寂光院庭園



大原三千院

平安時代986年、源信和尚(=恵心僧都、日本の浄土教開祖、法然の師)が姉安養尼とともに父母の菩提を祀るため建立したそうです、紅葉と苔が美しい杉木立の中に杮葺き(こけらふき)の極楽往生院が建てられ、阿弥陀如来を中心に観音菩薩と勢至菩薩が(いずれも国宝)座っておられます。
この大原の地は比叡山天台宗開基の伝教大師最澄が開いたところで、天台声明(てんだいしょうみょう=仏教音楽)の修行地として今も伝えられています。 


極楽往生院



苔と紅葉と杉木立の極楽往生院



       三千院庭園 
       「なもあみだぶつ…」































                           「極楽」とは

私達はたとえば一風呂浴びてビールを前にするとき思わず「ああ極楽極楽」と云ってしまいますが、そもそも極楽とはどんな意味を持っているのでしょうか。

インドのサンスクリット原語ではスコゥヴァティ「楽のあるところ」という意味だそうですが、現在では浄土教に表現される阿弥陀如来の国「極楽浄土」を指す言葉として定着しています。

浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)に詳しく説明されていますが、「極楽」という言葉に初めて漢訳したのは鳩摩羅什訳の「阿弥陀経」とされ、他には「安楽国」「安養国」とも訳されています。

「阿弥陀経」の中で極楽浄土はこれより西方十万億の佛土を過ぎたところにあるとされ、この美しい世界に至った者は苦のない楽に充ちた日々を送れると記されています。

この世界に住むことを願うものは「南無阿弥陀仏」と只々唱えればよいとされていますので、中国・日本では極楽浄土へ往生する信仰が盛んになったのもうなずけます。



京都府立植物園
大原の里からの帰りに植物園に寄りました、今を盛りと咲く花々をお楽しみ下さい。

   































花菖蒲       トケイソウ



菩提樹3題
































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