第23(39)回 コダイ・ウォーキング レポート


長岳寺のつつじと唐古・鍵遺跡そして巻向遺跡



唐古池上に復元された弥生時代の土器に描かれた楼閣


唐古・鍵遺跡

この遺跡は奈良盆地の中央、初瀬川と寺川(大和川になる)に挟まれた沖積地にあります、1936年に初めて発掘調査がなされ、弥生時代研究の基礎となり、1977年よりは毎年継続調査が行われています。

これまでに村を囲む環濠、竪穴住居、井戸、青銅器の工房跡、木棺、土器棺墓などが発見され、これらの調査によりこの遺跡が日本を代表する環濠集落であることが明らかになり、1999年1月に国の史跡となりました。

集落は弥生時代前期(約2300年前)に成立し、以降数度にわたって環濠が再掘削されながら広がってゆき、古墳時代前期(約1700年前)迄の600年間続きました、遺跡の総面積は42ha、環濠内の居住区は14ha(直径約400m)と日本最大級ですが、弥生時代中期以後には、拠点集落の周囲には半径3kmの範囲に15ヶ所以上の集落遺跡が形成されています。

この遺跡の大きな特徴といえるのは絵画土器の圧倒的な多さです、弥生時代の絵画土器は全国で約600点出土しているそうですが、このうち唐古・鍵遺跡からは350点、北方1.5kmにある衛星集落の清水風遺跡で約50点と突出しており、絵画土器が祭祀用に作られたとすれば、稲作を中心に随分と豊かな村であったことが想像されます。

これらの出土品は、唐古池の南方にある「唐古・鍵考古学ミュージアム」に収納展示され、大変博識なボランティアの解説員もおられて、我々を弥生時代に連れ戻してくれます。



唐古・鍵ミュージアム、図書館、生涯学習センタのある奈良県田原本町の壮大な文化センター



唐古池の楼閣になった土器片



環濠を掘る道具



雑穀を炊いた壷



両手を挙げる人































土器に描かれた絵を再現:左・女性シャーマン、右・武人像



古墳時代・牛形埴輪(重要文化財)


この牛の埴輪は1897(明治30)年に衛星集落の羽子田遺跡から出土しました、現在牛形埴輪は全国でも9例しかなく、殆どが6世紀半頃のもの、「魏志倭人伝」(3世紀末に編集)には日本に牛馬はいないとなっているそうですから、古墳時代中期以降に大陸から運ばれてきたと考えられています。
7世紀になれば田んぼを耕す犂(すき)や水田跡に牛の足跡があ見つかっており、水田に利用されて農耕技術が飛躍的に発展したことでしょう。
飛鳥時代にはヨーグルト(酪)やチーズ(蘇)などの乳製品があったことはご存知ですね。



馬と馬子の埴輪



シャーマンを囲んでのお祭り風景 掘立て柱の高殿や楼閣と人々の縮尺比率を見てください


唐古・鍵集落のその後:これは私見ですが1700年前まで栄えた集落はその後どうなったのでしょうか?古墳時代となり、古墳前期の大古墳がある巻向遺跡の方へと人々は移り、飛鳥時代には更に南へと豪族とともに移り住んだのでしょうが、それまで開墾してきた水田を捨てるようなことはなかったと思いますから、当時の都市から農村へと変遷したのでしょう。

奈良時代に制定された条里制によって水田はきっちり区画され、今に至ってもその跡は歴然としています、ここ田原本町は「国中」と称されるほど豊かな土地でした、中世以降も大名が支配することなく寺社や在地の武士が統治し、豊臣時代から江戸時代は高度な文化を有する土地であり、天領*として豊かに存在しました。

今なお、近鉄田原本駅付近には江戸時代の町割りや民家がたくさん保存されて、商業都市としての名残を強く残しています。現在の田原本は有力企業、国や奈良県の大きな組織の誘致もなくて、人口3万人程度の高齢者集落になりつつあますが、電車に乗れば若者がなんのてらいもなくお年寄りに席を譲り、路を問えば丁寧な返事が返ってくるなど、礼節ある暮らしぶりがうかがえます。

時代の流れというのは、一つ舵取りを間違ってしまうと、忘れられた存在になることは世界史を見てもいえることですが、もう一度奮起して古代の繁栄を取り戻してもらいたい土地柄でした。

*天領:明治初期に徳川幕府の直轄領だったところが天皇の直轄になったため天領と呼ばれましたが、江戸時代は幕府の支配所・御領・御料所などといわれ、代表的なものに江戸・大阪城の十里四方、長崎・甲斐・信濃、佐渡の金山、太田銀山などがあります。


平戸つつじの長岳寺

824年に弘法大師によって大和神社の神宮寺として開かれましたが、戦国時代に焼失、1602年徳川家康によって復興され、本尊は日本最初の玉眼をもった阿弥陀三尊像(藤原末期の作、重文)、つつじとかきつばたが有名な花の寺です。



放生池より本堂




参道のつつじ



長岳寺四十八塔中の内唯一残った江戸時代1630年再建の旧地蔵院の庫裏、
屋根は杉皮の大和葺き、玄関は桧皮葺き、この中で食べられるそうめんが有名です



美しい放生池



日本最古の楼門(平安時代・重文)、珍しく雨が降り始めました























   :行燈山古墳:第10代崇神天皇陵とされていますが、
   この古墳は4世紀半ばに造られた前期古墳を代表する
   前方後円墳で全長240m、崇神は実在した王ですが、
   亡くなったのは西暦258年、古墳とは1世紀のずれが
   あります。

   :居眠り運転での横転事故、気をつけましょう!











纏向(まきむく)遺跡

JR巻向駅を中心に東西2km南北1.5kmに広がる纒向遺跡は、唐古・鍵遺跡の10倍の広さをもち、その面積は300万uに及びます。初期ヤマト政権発祥の地として、あるいは西の九州の諸遺跡群に対する邪馬台国東の候補地として全国的にも著名な遺跡です。

○この遺跡は藤原京や平城京に並ぶ広大な面積を有すること、
○他地域からの搬入土器の出土比率が全体の15%前後を占め、かつその範囲が九州から関東にいたる広範囲な地域から集まっていること、
○箸墓古墳を代表として、纒向型前方後円墳と呼ばれる纒向石塚・矢塚・勝山・東田大塚・ホケノ山・南飛塚古墳、前方後方墳であるメクリ1号墳などの発生期古墳が集中して築かれていること、
○農耕具が殆ど出土せず、土木工事用の工具が圧倒的に多いこと。

等々、他の一般的な集落とは異なる点が多く、巨木を使った導水設備(水洗トイレ)や巾6m深さ1.5mの運河などがあり、日本最初の「都市」、あるいは初期ヤマト政権最初の「都宮」とも目されています。
遺跡の発掘調査は1971年以降、桜井市教育委員会と県立橿原考古学研究所によって現在までに140次を超える調査が継続的に行われているものの、調査面積は広大な遺跡の5%にも足りず、未だ不明な部分も多いのが実情です。
私たちはJR巻向駅の西方を探しましたが、多分発掘現場が点々としていてどこなのか特定できずじまいで時間都合もあって、箸墓古墳へ行っただけとなりましたのでいずれ近いうちに再訪しようと思っています。ここで発掘されたものは「桜井市埋蔵文化センター」に展示されています、私たちは2007年2月にここを訪れ多くの写真をUpしています。興味のある方はクリックしてどうぞお入りください。


纏向遺跡の再訪2009年8月に4月に分からなかった遺跡を探しに行ってみました、藤原京や平城京址のような広大な面積を期待してはいませんでしたが、発掘調査の後は埋め戻されて雑草の生える丘となり、その周辺は住宅が建っていたり田んぼであったりで、発掘調査が遺跡の5%足らずという現状を認識できました。狭い区画を画像でご紹介します。


JR桜井線「巻向」駅付近の遺跡、向こうの山は三輪山



卑弥呼の宮殿跡と推定された大型家屋の発掘現場跡



遺跡の向こうには古墳時代初期(3世紀後半以前)の環濠もあった石塚古墳(全長96m最大幅61mの前方後円墳)


箸墓古墳


3世紀後半〜4世紀の築造で全長272m・最高部22m、前方後円墳の中では最古の1つ、倭迹迹日百襲姫命(やまと ととひ ももそひめ)の墓だとか邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓ではないか、あるいは二人は同一人であるとか百家争鳴の有様です。この古墳とその北にある崇神天皇陵(240m)景行天皇陵(310m)の三つが4世紀のビッグ・スリーですが、この他にも100mを越える古墳が南北7Kmの間に集まっており、その副葬品がすばらしく、後漢時代の銅鏡などが出土しており4世紀には三輪山信仰を基盤とする豪族たちが大和国を作ってゆきました。

私たちはこの古墳を眺めながら、古墳の内部調査ができれば、日本の古代史解明が一挙に進むだろうと、頑迷な宮内庁や学者間の軋轢を悲しんだことでしたが、謎は謎として残ることも古代が好きな人には必要かもしれません。



謎に包まれた神秘の古墳



箸墓古墳より三輪山を仰ぐ



「てんまで上がれ」での反省会


チョット反省は、唐古・鍵ミュージアムでボランティアの方の話に乗せられて、ここで1時間も時間をかけてしまい、予定を大幅に超えたので、長岳寺まで2台のタクシーに分乗してしまったことです。元々脚の病気の回復期の方が参加されましたので途中5.4Kmを歩かずタクシーを利用していただくことになっていましたが、皆んな便乗ということになりました。
それでこの日の万歩計は17000歩だったそうで、いつもより1万歩くらい少なかったので疲れを覚えることもなく、小雨の中を快適ではありましたが物足りない思いも残りました。ボランテイアの方には時間を告げるべきであったと思っています、すみません。5月のウォーキングプランは近々「風来坊主の広場」にUpします。

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