第104(119)回 5月 コダイ・ウォーキング レポート


けいはんな・関西文化学術研究都市のいにしえを歩く


南山城といわれるこの一帯は京・阪・奈の交錯する地域で、新しく産学の集合する関西文化学術研究都市と呼ばれて
います、以前はひなびた農村地帯でしたが、奈良と京都を結ぶ木津川沿いの重要な交通経路でもありました。
今回は
この地域の古い寺々を歩いて新緑を楽しみましょう。


5月13日に目覚めると土砂降りの雨、参加予定の一人はひどい雨風だからとドタキャンするほどでしたが、天気図を見るとこの低気圧は速い速度で東へ移動していましたから、雨が止むことは確信していたのです。何十年と登山中にラジオから天気図をつけてきた経験がこんなところで生き返るのは面白いことです。私たちのウォーキングの日は必ず雨が降らないというジンクス通り、近鉄電車で生駒山を越えるころには雨もやんでしまいました。

ここまではよかったのですが、昼弁当を食べているときにどんな画像になっているのかとカメラを見ると、なんとフラッシュカードを入れ忘れたまま撮影していたことに気づかなかったのです。やむなく翌日今度は車で走って、午前中の分を写しなおしてきました。青空の見える画は二日目のもので、初日は陽もささず雨もなく、雨に洗われた瑞々しい新緑の涼しい中をウォーキングできました。


南山城の寺々地図上の13名所のうち3ヶ寺を残して全部行きました

                                     原画は(株)飛鳥園「南山城の古寺」よりスキャン



この地も福井県小浜市に似て十一面観音像が多くあります


酬恩庵一休寺


ここは古代とは関係ありませんが、有名な一休さんの終の棲家でしたからまずはここから出発しましょう。元の名は妙勝寺、鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師(南浦紹明)が中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後禅の道場をここに建てたのが始まり、その後戦火にかかり、六代目の一休宗純が1455〜6年、宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、師恩にむくいる意味で「酬恩庵」と命名しました。禅師はここで後半の生涯を送り八十一歳で大徳寺住職となった時もこの寺から通いました、1481年11月21日八十八歳の高齢を以ってここで示寂し遺骨は当所に葬られました。このように禅師が晩年を過ごしたことにより「一休寺」とよばれるようになりました。


一休寺総門



参道





















左:一休禅師御廟所(82才時に自ら建立)・菊の紋の欠けたところから撮影  右:方丈(重文・加賀藩主前田利光再建1650年)


一休禅師宗純:一休さんは室町時代の臨済宗の僧の愛称。京都に藤原氏の母と後小松天皇の間に生まれましたが、母は中傷の犠牲になり、宮中を追われ嵯峨の民家で子を生みました。6才で安国寺に入門、早くから詩才を発揮し、22才のとき京都大徳寺の華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となり、「有漏路より無漏路に帰る一休み 雨降らば吹け 風吹かば吹け」=「人生は、煩悩あふれるこの世から、来世までのほんの一休みの出来事、雨が降ろうが、風が吹こうがたいしたことはない」と禅の奥義をきわめます。

しかし、彼は詩・狂歌・書画とともに、遊里に通ったり市井を徘徊して生きており、77才より盲目の美人・森女(住吉大社・津守氏と縁続きとの説があり、住吉と大徳寺は南朝を介して通じ合っていた)と同棲して「狂雲集」によって禅と漢詩と森女との愛の交流「木は凋み葉は落ちて更に春を回(かえ)す 緑を長じ花を生じて旧約新たなり 森也(しんや)が深恩もし忘却せば 無量億劫畜生の身」と表すなど、その生涯は天皇の落胤という星のもとに生まれたのが幸か不幸か、様々なエピソードを残しました。森女の歌も「おもひねの うきねのとこに うきしづむ なみだならでは なぐさみもなし」と残っています。

1474年81才より荒廃・焼失した大徳寺の再興を任され住職になりましたが、この南山城から京都の北辺まで輿(こし)に乗って通ったそうです、86才再興なったときにはさっさと大徳寺から去りました。今わの際には森女の膝枕で「死にとうない…」と言いながらの示寂であったとか。

浄土真宗再興の蓮如上人と友達で、一休さんが寺に来て蓮如(5人の夫人をもち、子供を30人残した)の経本を枕に昼寝していたところに、帰ってきた蓮如さんが「俺の商売道具に何をする」と呵々大笑したとか、いずれも傑物らしい話です。

このようなどえらいお坊様を、一休の遷化から200年余り後江戸時代前期・元禄年間に説話『一休咄』が作られ、頓知で有名となりました。『一休咄』は作者不詳で、実在の一休が周建を名乗っていた幼少時代に時代が設定されています。



               pilgrimari.exblog.jp よりコピー






















































一休禅師木像(重文):88才(逝去の年)高弟に造らせた等身像、髪と髭は実物を植付




右上:一休禅師自書  右下:
大徳寺に通った輿(こし)





方丈の襖絵・狩野探幽斎筆:17mmワイドレンズ使用



方丈の庭園の一部・むこうの茅葺は禅師が居住した虎丘庵



本堂(重文・本尊釈迦仏・1429~40年足利義教建立)へと入る



一休禅師の遺言状:「すぐには開くな、寺に危急の時に見よ」答えは「心配するな、何とかなる」


甘南備寺

一休寺から南南東へ少し下ったところにあります。奈良時代に行基さんによって開創されたとき甘南備山上にあった甘南備寺は、交通不便で保護も困難であったため1668年(元禄時代)に現在の地に移され、もともと真言宗を移転の際、黄檗宗に変わりました。現在は小さなお寺ですがご本尊である薬師瑠璃光如来坐像は、比叡山の僧・慈覚大師(比叡山第3代天台座主・円仁794~864年・『入唐求法巡礼行記』=世界三大紀行の一つ)の作と伝えられ、一木造り藤原前期のものですが、お顔中央が少し欠けていてお可哀そうでした。




















左:黄檗宗山門  右:小さな本堂、裏山に墓地が開発され新興地らしく新しいお墓ばっかりがいっぱい






薬師瑠璃光如来坐像



ここのお薬師さんは耳の専門、石に孔をあけて祀ってあります






































     
     ちょっと一休み:山城名産竹細工
と竹の子?




大御堂観音寺

天武天皇の勅願により義淵僧正(奈良時代・法相宗、弟子に玄昉・行基・隆尊・良弁そして道慈・道鏡なども義淵の門下)が創建後、聖武天皇により良弁僧正(東大寺建立)が伽藍を増築し、息長山普賢教法寺と号し、十一面観音立像を安置したといわれています。 法相・三論・華厳の三宗を兼ね、七堂伽藍は壮麗を極めて「筒城の大寺」と呼ばれた大寺院であったらしいですが、 幾度となく火災に見舞われ、大御堂だけが再建され、宗派も真言宗智山派に代わっています。 現在は、本堂と庭園が周囲の里山に調和し、美しい姿を見せています。

十一面観音立像は 天平仏(奈良時代中期)を代表する仏像で、昭和28年国宝指定。天平16(744)年良弁僧正開基時の仏像。 一木式木心乾漆造、漆箔仕上げ。 立像は度重なる修理によって形を変えていた部分もあったが、昭和期の高度な補修技術により現状の姿に整えられました。 像高:172.7センチメートル 重量:66.0キログラム。度重なる火災により、現存しているのは本堂、庫裡、鎮守の神社だけ、本堂は1953年3月に再建されました。



現在の観音寺を望む


庭園の一部


本堂


国宝・十一面観音菩薩立像 (原画:飛鳥園)


二つの天平仏・十一面観音立像(国宝):いずれも木芯乾漆像、像高:左・172.7 右:209.1㎝、指の形といいそっくりですね。右は明治時代の蛮行・廃仏毀釈によって破壊された大和御輪寺より難を避けて隠されていたものです。

聖林寺の観音さんは明治時代に来日した哲学者・美術研究家のアーネスト・フェノロサが激賞したことで知られるようになり、和辻哲郎も『古寺巡礼』(大正8年・1919年刊)でこの像を天平彫刻の最高傑作とほめたたえており、現在はヨーロッパに行かれたり、大変人気のある菩薩さまですが、片や観音寺のほうは国宝とはいえあまり世に知られていない菩薩さまながら、そのお姿と雰囲気は金箔のはげ具合もあるでしょうが、いずれ劣らぬ素晴らしい天平仏でした。









































左:観音寺(原画:飛鳥園)  右:奈良県・聖林寺(原画:入江泰吉氏の絵葉書より)

十一面観音菩薩:この観音さまは奈良時代以降、聖観音に次いで人気があり、「十一面神呪ジュ心経」という中国・玄奘三蔵法師訳」に基づいて造像されています、国宝では法華寺・聖林寺・渡岸寺・室生寺・観音寺そして東大寺二月堂(秘仏・未公開)等が有名です。

インドのバラモン教の十一面の暴神であるエーカダシャ・ルドラが仏教に取り入れられて、観世音菩薩の変化身となったとする仮説があります、
ちなみにここでいうエーカダシャ・ルドラは、ルドラとは風水害をもたらす反面慈雨をもたらし大地に豊穣を呼び込むモンスーンの神格化と考えられており、人々がその怒りを恐れる強力で荒ぶる神ですが、聡明さと優しさを兼ね備え、人々の健康・安寧を保障する存在でもあり、医薬を司るともされたそうです。エーカダシャとはあらゆる方位(東西南北の四方とその間の四隅、上と下と中央)という主旨です。(この項ウイキペディアより)

どえらい坊さんの寿命:私たちが坊さんとしてすぐ思い浮かべ、一般的にも人気のあるの方々の寿命を調べてみると、当時としてはすべて大変長寿だったことがわかりました。

行基さん:757~749年・81才  一休さん:1394~1482年・88才  蓮如さん:1415~1499年・84才  雪舟さん:1420~1506年・86才  良寛さん:1758~1831年・73才  

いずれも国民の平均寿命が40~50才以下ですから、長寿のあり方は一休さんや良寛さんに代表される、人の目を気にしない、欲がない即ちストレスのない生き方にあり、これは当然ながら仏教(お釈迦さんの教え)に則っているともいえます。また元々頑健に生まれ落ちたからこそ我が道を貫けたともいえるでしょう。
ちなみに、お釈迦さんは80才(紀元前3~5世紀)で入滅なさいました(大般
ダイハツ涅槃経=最後の旅から釈迦の入滅・荼毘・建塔までを詳細に記した経典による)。


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